北海道十勝野オベリベリ開拓の祖
依田勉三物語
~順境温暖の伊豆から未開厳寒の原野へ~
●著作者
北海道開拓史研究会(代表:福永慈二)
松崎三聖人(土屋三余・依田佐二平・依田勉三)を顕彰する会
●発行者
三余塾 土屋直彦
〒410ー3626 静岡県賀茂郡松崎町那賀73~1
✉ gbccq165@ybb.ne.jp
(本書購入希望者は三余塾・土屋さんにご連絡を)
(登場人物紹介₋プリントアウト用)
【2025年掲載分】の後に【2024年掲載の全文・
第1~第5篇】 が紹介されています。
【2025年掲載分】
① 2025年1月掲載 ・・・・ 第二十章 原野開墾
② 2025年2月掲載 ・・・・ 第二十一章 試練の日々
第二十一章 試練の日々
(1)
「惣代? 会って請願したいと?」
勉三は銃太郎が持って来たあまりにも思いがけない話に言葉が詰まった。「惣代」、それは小作争議の際に選ばれる代表者を意味する。勉三には全くもって思いもよらない言葉であった。
七月四日夜のことだという。銃太郎と勝が酒を飲みながら談笑していると、高橋金蔵・吉沢竹二郎・藤江助蔵の三人が入って来て、
「自分たちは皆から選ばれた惣代で、生計困難の件について社の代表者である依田氏に請願したいことがある。ぜひ間を取り持って欲しい」
と頼んで来たというのである。
午後、勉三ら経営幹部は早速三人を呼んで事情を聴いた。
「この土地は地味も悪く、その上雨も少なくて、あんまり農作には向いていねぇ。未だに植えた作物の芽も出て来ねぇし、蚊や蚋がめっきり多くて、野良に出れねぇ日もあるぐらいだ。伊豆とはえれぇ違ぇだ。この分じゃ来年の生計がとても立ちそうにねぇ。今年一杯、米の支給は社の方で持って貰いてぇ、というのが皆の意見だ」
一番歳嵩の金蔵が一気にまくしたてた。彼が言いだしっぺなのであろう。
「俺は百姓じゃねぇが、こんなに閑散とした土地ではとても大工としてやっていけそうもねぇ」
大工の竹二郎がこぼした。
「女房が病んでもう懐がすっからかんだ。今のままじゃとてもやっていけそうにない」
藤江はすっかり弱気になっていた。
「まだ入殖して二月も経っていないではないか。開拓が始まったばかりというのに何てことを言うのか。お互いに励まし合い、力を合わせて開墾事業に努めねばならないというに、敵を見てすぐに潰れてしまうとは、何と臆病な。蚊や蚋如きに襲われてびくびくするなんて、話にならんではないか」
勉三は怒った。晩成社の大望を考えた時、「同志たち」のこのような弱気や臆病はとても許せるものではなかった。怒る勉三、黙って頭を垂れる三人︱。銃太郎と勝は不安げに顔を見合わせた。銃太郎が慰めるように言った。
「去年と一番大きな違いは、五、六月中に殆ど雨が降らず、畑が日干しになってしまっていることだ。古くから居る住人もこんな干天は何十年ぶりのことだと言っている位だ。しかし、皆がこの地に不慣れだからそう思うのも無理はないが、発芽の具合が悪いのは決して地味が悪いからではない。雨さえ降ればきっと芽は出る。私が保証する。心配することはない」
そこへ、藤江の病気上がりの妻フデがやって来て夫に伝えた。
「他の者は、やっぱり今から音を上げて居たのでは他国者に馬鹿にされるだけだ、もう少し頑張ってミヨう、と言い出しているわ。わたし等も、もう少し……」
三人の惣代はしばらく呆気に取られた顔をしていたが、やがてバツが悪そうに下を向いた。
「先月中は皆の荷物を大津からこちらに揚げるだけに追われ、米・味噌の運送が遅れ、わずかな米と食い慣れない野草や魚ばかり口に詰め込まれ、さぞかし驚いたろう。たまたまアイヌたちが皆バッタの卵や幼虫の駆除に駆り出され、舟便が止まってしまったことも災いしているのだ。心配を掛けてしまい、本当に済まなかった。まぁ、しかし心配することはない。小屋作りだって、農作が軌道に乗れば幾らでも注文が出てくる。来年の生計のことは俺が請け合う。さぁ、帰った、帰った。帰って皆に心配することはないと、そう伝えてくれ」
勝は殊更に楽観めいた口ぶりで彼らの退散を促した。
三人はこの言葉を待っていたかのようにそそくさと事務所小屋を飛び出していった。
こうして最初の「内紛」はうやむやの内に終息した。だが、このことを切っ掛けに社内に何となく気まずい空気が流れるようになった。
(2)
この「内紛」が起きた夜、眠れないまま勉三は一人考え込んでいた。
︱まだ事業が緒に就いたばかりというのに、何ということだ。どうしてもっと我慢ができないのだ。伊豆の、いや日本国の百姓の持っている底力を今こそ世に知らしめる大事な好機だというのに。何故だ、何故もうすこし我慢が出来ないのだ。
勉三の苦衷を知るリクであったが、慰める言葉も無く、ただ黙って見守る外なかった。が、ふと「何かの時に」と、油紙にしっかり巻き、箪笥の奥に入れて密かに持って来た極上の緑茶のことを思い出した。
「これでも、どうぞ」
険しい顔のまま湯飲みを受け取り茶を啜った勉三は、しばらく黙って目を瞑っていた。が、やがてその険しい表情が和らぎ、その口から自らの未熟を悔いるような溜息が漏れた。そして、ハッと気がついたように、湯飲みの中を覗いた。
「これは…?」
リクは黙ってただ微笑んでいた。
勉三は妻が何を言いたいのかをすぐに察し、苦笑した。
︱そうだ、冷静にならねばならぬ。社員を責める前に、自分はどうであったのかをこそ顧みなければならないのだ。
勉三は、あらためて、入殖以来自分が事務仕事に忙殺されていて、開拓の鋤鍬を振るうことのあまりの少なかった事実に思いを致さざるを得なかった。
︱実践躬行、率先垂範をあれほど誓ったというのに、何ということだ!
いくら悔いても悔いたりない。しかし、まだ片付けなければならない事務は山ほど残っている。アイヌの舟人足が足らず、舟便運行に銃太郎や勝の手が取られている現状を考えると、とりあえずは自分が一人で事務処理に当たるほかない。
「一日も早く野暮用を片付けよう」
リクが寄り添う床の中で、勉三はあらためてそう自分に言い聞かせ、目を閉じた。
七月中も干天が続き、ほとんど雨は降らなかった。月半ば過ぎに一日だけホンの少し降ったが、何のお湿りにもならなかった。皆開墾に精を出し、蕎麦・大根・大角豆・大豆等の種を播き、川から水を汲み上げて来ては畑に撒くなど、懸命の努力を続けた。そんな努力が実ってか、試植した陸稲・水稲が青々と茂り、小麦も葉を伸ばし、幾つかの根菜の種も芽を出した。しかし、芽を出したのはこちらに来て入手した種だけで、伊豆種は全滅であった。もっとも伊豆種の小麦だけは葉を伸ばした。が、葉を茂らせただけで茎は一向に伸びず、実を付ける気配もなかった。この地で入手して下種した粟、大麦・裸麦などは見事に生長し、豊かな実りを期待させた。それで急ぎ幾つかの現地種を手に入れ、蒔き直しを図った。
開墾作業も何とか進み、ようやく耕地も九反を越えようとしていた。しかし、再び心配の種が生じた。渡航の途中から早くも意気阻喪という塩梅であった独身者二人︱高橋金蔵と土屋広吉、そして病み上がりの女房を抱えてすっかり気弱になっていた藤江助蔵たちの新墾地だけは相変わらず悲惨な状況にあった。
藤江の場合、銃太郎がその困難を見かね、昨年開墾した土地の一部を分け与えてやっていたのであるが、それでも彼のやる気は戻らなかった。
彼らの畑の作物は殆ど芽が出ていなかった。芽が出ていても陽に焼かれて黒くしぼんでしまったり、雑草がボウボウと生えたりしていた。見るも無残な有様であった。
先の「内紛」で進んで惣代になっていた藤江はもはや完全に戦闘意欲を喪失させていた。妻の病ですっかり気を滅入らせていた。広吉は親に背中を押されてしぶしぶやって来たためか、最初から弱腰であった。金蔵も広吉も独身者としての気軽さが抜けず、所帯持ちのような踏ん張りが利かなかった。同じ独身者でも、吉沢の方はその後しばしば銃太郎・勝を訪れ、相変わらず「東京に戻りたい」と泣き言を繰り返していたが、やがて二人に説得され、「もう一年は何とか頑張ってやってみる」ということになっていた。
七月二十四日︱彼等の状況に不安を覚えた勉三は社員全員を集め、全体集会を開いた。思うようにいかない現実を前に不安や心配を覚えていた皆の気持ちを一つにまとめ上げることがぜひとも必要であった。
(3)
「いろいろ思わぬご苦労を掛けています。しかし〝艱難辛苦が汝を玉にす〟との教えもあります。一致結束し、苦難を乗り越え、何としてもこの開拓事業を成功させねばなりません。そこで、同志の皆さんに次のことを提案したいと思います」
この日行なった勉三の提案とは︱
一つは、近隣の交通交流の便を良くする為に、皆で力を合わせて道路を作ること。
二つ目は、毎月相互に耕作地を視察し合い、農談会を持ち、経験を交換し、互いに学び合うこと。
三つ目は、社の貸し付け帳簿などはいつでも見られるようにし、官の給与補助の申請・支給などを踏まえ、社とよく相談しながら家計の経営を進めていくこと、であった。
そして最後に次のような提案を行なった。
「これは、参加するかどうかは各人の自由でありますが、今後は日曜毎に休息日を設け、渡邉君と鈴木君にキリストの教えを講じて貰い、精神修養の場を設けるようにしたいと考えております」
藤江や金蔵や広吉にやる気を出させるためには、何か精神的支えになるものが必要だった。勿論この提案は勝・銃太郎と相談の上のことであった。彼ら二人が喜んで引き受けたことは言うまでもない。
︱このままほっとけば、故郷へ帰ると言い出しかねない。どうも自分の話は硬過ぎるようだ。できるだけ判り易い、精神修養となるような話が聞ける場を設けよう。とりあえずの策として「キリストの教え」を聞かせて見たらどうであろうか?
勉三が、ふとそんなことを考えたのは、伊豆松崎で開かれていた講話会が思い出されたからである。伊豆ではワッデルも二度ほど講話会に来てくれ、勝もしばしば講演会の壇上に立っていた。村人や製糸工場の者は皆熱心に耳を傾け、大いに満足を得ていたようであった。
かくして帯広でも、次の日曜日、最初の「晩成社日曜講話会」が持たれることになった。勝は輪の中心に座ると、聖書を片手に巧みに語り出した
「これは抹香臭い信仰の書というより、難事に取り組む者の心の持ち方を教えている書だ。開拓者にとっても、なかなか含蓄ある言葉が出てくる。例えば…」
と、彼が引いたのは、ワッデルが結婚式で送別に送ってくれた、あの言葉であった。
「狭キ門ヨリ入レ。滅ビニ至ル門ハ大キク、ソノ路ハ広ク、之ヨリ入ルモノ多シ。生命ニ至ル門ハ狭ク、ソノ路ハ細ク、之ヲ見出スモノ少ナシ」
つまり、開拓に取り組むとは狭き門を入ることだ。困難が予想され、入り難く、応募する者は少ない。しかし、この狭い道の向こうに、永遠の喜び、人生の勝利が待っているのだ、と。
講話が終わった後は、皆満足そうに、漬物をつまみ、アイヌ茶を飲みながら、お互いに言いたいことを言い合い、勝や銃太郎や主イエスキリストのことを興味深く尋ねたりして、賑やかなひと時を過ごしたのであった。
ところがそれから僅か一週間後の八月一日、恐れていた事件が起こった。高橋金蔵、藤江助蔵・フデ夫婦、土屋広吉の三戸四人が、社にも誰にも断り無く、早朝密かに小屋を抜け出し、大津に下ってしまったのである。
(4)
「何、四人がいなくなったと!」
皆で道路作りを行なっている最中にこの報告を受けた勉三は、事件がこれからの晩成社にもたらす打撃を思い、暗澹たる気持ちに襲われた。
実は前日、彼らの様子がいつもと違ってそわそわして居り、畑に出る様子もなく、何か企んでいるらしいとの話を聞き、三人はすぐに彼らを呼び出した。詰問すると、渋々「やはり、退めて故里に帰りてぇ」と告白した。
三人は言葉を尽くして説得を試みた。特に勉三は、約束に反して事務的作業に追われ、率先垂範ならざる己の非を詫びつつ、懸命に辛抱を訴えた。
「もう少し我慢して貰えれば官庁から幾らかの給金や渡航費補助金も出る故、何とか頑張って欲しい。牧畜が始まり、晩成社の大望が達成されれば、皆の生活もよくなり、この蛮地も立派な街と農場に変じるはず。そういう時が必ずくる。今こそ同志・有志者が励まし合い、力を合わせて奮闘努力するその時なのだ」
もし彼らがこのまま帰国してしまった場合、晩成社と帯広に関する様々なデマや中傷が流されることになる。
︱もし、そういうことになれば、これから入殖しようとする者はますます二の足を踏むことになる。後に続く者が居なければ大牧畜場の建設は全く夢物語になってしまう。勿論残された社員が頑張って耕作と牧畜が軌道に乗れば、故郷の人々の目も変わり、札幌辺りの人々の見方も変わり、いずれ入殖してくる者も沢山出てくるであろうが、しかし当面の打撃は避けられない。
勉三の心配はそこにあった。
銃太郎も、昨年来の自分の経験を語りながら諭すように言った。
「この地は決して地味が悪いわけではない。実際に去年自分が植えた作物は立派に育ち、収穫があった。バッタの害もこの辺はそれ程でもなかった。そのことは伊豆でも聞いたはずだ。今年は偶々未曾有の干天続きで、運が悪かっただけのことだ。実際、水遣りした畑では幾つかの作物は芽を出し、うまく育っているではないか。秋になればきっと収穫があるはずだし、山野からも口に合う食料が幾らでも採取でき、美味い獣肉も手に入り、栄養豊富な秋味の鮭もたくさん獲れる。もう少しの辛抱なのだ」
勝もまたいささか荒っぽい言葉で彼らに気合を入れた。
「困った時はお互い様だ。何かあったらこの俺が助けてやる。今、尻尾を巻いて国に帰ったら馬鹿にされるだけだ。ここはもう一踏ん張りして、伊豆の百姓のど根性を見せてくれ」
四人はほとんど沈黙したままで、もはや口を開こうとしなかった。とりあえず、一晩休んで、また明日ゆっくり相談しようということになり、この日の話し合いは終わった。
英語達者の勝言うところによれば、気弱になっている彼らを襲っているのは「ホ︱ムシック」(郷愁の念)だという。それが彼らをやみくもに帰郷に駆り立てているのだ、と。
実際そうであった。
︱いつ入って来るか分からん官の給付金などもうどうでもいい。違約金代わりにそちらで受け取ってくれればいい。蝦夷の食べ物や水はとても口に合うものでない。これから死ぬまでずっと貧乏のままでも、伊豆の田舎の方が余程ましだ。ここに比べたら伊豆は天国だ。
︱故郷のみんなから馬鹿だ腰抜けだって言われたって構わない。とにかくこんな寂しくて怖い所にはもうこれ以上一日だって居りたくない。死んだら、故郷から遠く離れたこんな蛮地のお墓に埋められるなんて、思っただけでもぞっとする。三人の幹部も誰も自分たちの気持ちを理解し、離脱を認め、賛同してくれそうにない。そうである以上黙って逃げ出すほかない。
そんな暗く絶望的な気分が彼らを猛烈な「郷愁の念」に追いやっていたのである。
どうやら、勉三らの説得は、やる気を失い絶望しきっていた彼らの胸中には届かなかったようである。四人は朝まだ暗いうちに、こっそりと家を抜け出し、勝手に社の丸木舟に乗り込み、大津へ抜け出して行った。「帰心矢の如し」で、彼らの望郷の念はそこまで切羽詰まったものに高じていたのである。
しかしいざとなると、すぐにはおめおめと故郷に帰ることもできず、若い広吉は「何とか一旗あげよう」と小樽に身をとどめ、大した仕事に就けなかった金蔵と藤江夫婦は半年後に伊豆へ帰った。田舎に逃げ帰った彼らが口にしたのは、言うまでもなく勉三と晩成社にとってあまり好ましくない話ばかりであった。曰く︱
「聞くと見るとでは大違げぇ。帯広はとんでもない痩せた荒地で、とても開墾などできたものでねぇ」
「苦労して開墾しても地味は悪く、日照りばかりが続き、とても作物など育ちそうにねぇ」
「作物を食い尽くすというバッタや人を食べるという羆や狼がいつ襲ってくるかと、気の休まる時がねぇ」
「蝦夷の蚊や虻はここらのものとはまるで違っていて、人の肌を食い破るくらいの勢いで襲って来るから仕事にならんのだ」
「蛮人が草で作ったという掘立小屋に寝起きさせられ、闇夜に何か襲って来ないかと心配で、とても安心して寝れたもんじゃねぇ」
「交通の便が悪く、港からもかなり離れた奥地で、持って行った米味噌もすぐに切れ、山や野や川で取れる蛮人が食する食物しか口に入らない日が何日も続くのよ。あそこはとても人間の住めた所じゃねぇ。いずれみんな戻ってくるに違いねぇ」等々。
狭い田舎のことである。悪い噂はパッと広まり、しばらくの間、晩成社の開拓耕夫募集に応じる百姓はいなくなった。勉三の不安と心配が的中した。
古くからある流言飛語︱「蝦夷地は寒い上に羆や狼や囚人がうろうろしていてとても人間の住める所じゃない」との噂は消えるどころか、南伊豆では一層勢いを得ていた。否、それだけでなく、更に「依田さんに騙されたようだ」「依田さんは大嘘つきだ」という噂までもが広まっていった。こうしたつまらない噂話が消え、南伊豆から移住者がぼつぼつ出てくるのはずっと後のことになる。
三戸四人が去ったその夜、勉三は深い敗北感に襲われていた。晩成社に集まって来た社員はきっと社の大いなる開拓企図に賛同し、同志として、志有る者︱有志者として立派な開拓者になってくれる。そう心から信じていた。そんな自分の甘さに刃を立てられた思いであった。ただ、悔いが残るのは自らが心に決めた実践躬行を守れなかったことだった。
︱もし、もっと自分が先頭に立って事に当たっていたなら、彼らもきっと付いて来てくれたに違いなかろう。全ての責任は己にある。彼らを責めても仕方あるまい。
勤勉家の勉三らしい始末の付け方であった。しかし、勉三と晩成社は、彼らの脱走事件の数日後、更に悲劇的な事件に見舞われる。バッタの猛襲である。
六部 拓殖篇
第二十章 原野開墾
(1)
晩成社耕夫依田勉三は、真新しい窓鍬を高々と振りかぶり、深く息を吸い、十勝野の大地目がけ、思いっきり強く打ち込んだ。
「グサッ!」
土を打つ心地よい音が辺りに響き、彼の耳を打った。
明治十六年五月十一日︱晩成社が晩成社として荒蕪の地十勝野開拓開墾という新しい時代の扉を開けた瞬間である。
既に陽は東の空に昇っている。十勝野の朝は寒く、先日降った雪が幾分まだ日陰に残っている。しかし鍬持つ勉三の心は熱く燃えていた。窓鍬で草地を掘り起こす。次には土塊を万能で打って細かく砕き、草は抜いて一箇所に積み上げていく。
「そうだ、こうして鍬打ちを何万回何十万回も繰り返していくのだ。愚公山を移すの喩えもある。愚公となってただひたすらに行なうのみだ」
勉三は朝のひと時、無心に鍬を打ち続けた。
*愚公山を移す…昔中国の愚公という人が長年かけて山を移したという故事。事を成すには悪賢い策を弄さず、愚直に努力し続ければ目的を達することが出来るということ。
しかしこの日、勉三と晩成社は早くも大変なトラブルに遭遇する。昼直前のことであった。
「大変だ、気を付けろ! 風向きが変わったぞ! 火がそっちに向かっているぞ!」
誰かが大声で叫んだ。晩成社耕夫が何人かで試しに開拓予定地の萱の原を焼かんと火を点けたところ、急に風向きが変わり、野火はあっと言う間に燃え広がり、近くのアイヌの倉庫小屋一棟を延焼させてしまったのだ。
この事件は、十勝先住の民アイヌにとっても「新しい時代」︱と言っても必ずしも幸福とは言えない「新しい時代」の到来を告げる大事件であった。
この火事が起こった時、アイヌの誰かが叫んだ。
「和人が小屋を全部焼き払い、俺たちを焼き殺すつもりだ!」
彼らは先を争うように森の奥に逃げ込んでいった。残ったのは祖先伝来の地を決して捨てまいと構えるモチャロク一家だけであった。アイヌに顔の利く「鈴木ニシパ」の銃太郎が大津に下って留守だったことも災いした。
しかしアイヌ住民が「和人は自分たちアイヌを追い出すつもりだ」と思い込むにはそれだけの理由があった。
実はこの時、十勝野には一挙に百七、八十人の和人が入り込んでいた。帯広村には晩成社社員二十数名がおり、すぐ隣の然別には、農商務省官吏若林高文に率いられた除蝗隊(蝗とその幼虫を取り除く為に編成された部隊)の人夫百五十余名がいた。偶然ではあったが、これほどの人数が一時にこの地に入り込んで来たのは、これが初めてであった。その上更に、鹿角狩りに入って来ていた悪質和人猟師たちが、野原に火を点けて鹿の角を探すという暴挙を働いており、あちこちで野火が起こり、アイヌの小屋を焼き、彼らの生活を圧迫していた。
その最中に起こった火事であった。彼らが、大量の和人闖入者の横行に怯え、火事に恐怖し、恐怖に駆られて逃げ出したとして何の不思議もない。
そんな事件があったにも拘わらず、勉三はこの日大津に向かい、戸長役場に出向いて渡航者の送籍手続きをしなければならなかった。火事の後始末をした後、簡単な詫びを入れ、「後日あらためてお詫びに伺います」と言い残すのがやっとのことだった。
途中、同じ丸木舟に乗って上ってきた勝・銃太郎らと久しぶりの対面を果たしたが、ただ互いに、
「オオ︱、元気であったか!」
と、手を振り、互いの無事を確かめ合っただけで慌しく別れねばならなかった。
結局、勉三・勝・銃太郎の三幹部以下十三戸二十六名が顔を揃えたのは、火事から三日後の五月十四日夕方のことである。この時、藤江夫婦だけがまだ着いていなかった。
明治十六年五月十四日夜︱ようやく晩成社の三幹部たる勉三・勝・銃太郎は銃太郎小屋の炉を囲み、ささやかな祝宴を張ることができた。
「銃太郎君、越冬先陣の大任、本当にご苦労でした。勝君も海行隊の船旅では大変な苦労に遭ったようだが、無事引率の大役を果たしてくれ、本当にありがとう。既に先日の火事でアイヌの小屋を焼いてしまうという失態を犯し、まだ十分なお詫びも出来ていないのだが、取り敢えず同志一行の無事到着を祝おう」
久しぶりの酒席であった。三人は高々と杯を上げ、一行の無事と健闘を祝した。
「勉三さんの十勝野開拓という大いなる企ての第一歩がいよいよ踏み出されたという訳だ。よくまあここまで漕ぎ着けたものだ。まさに不屈の行動力、実行力にはあらためて感服しましたよ」
勝の感激しきりの言を皮切りに、今までの苦労話に花が咲いた。銃太郎がこの夜、飲むほどに酔うほどに繰り返し触れ、感嘆を隠さなかったのは、昼間聞いた勉三の「開拓同志」を前にした挨拶についてであった。
五月十四日︱この日の夕刻、一行二十六名が晩成社事務所となる小屋の前に勢揃いした。大津から帰った勉三は皆を前に、長旅を労りつつ一場の演説を行なった。その中で、銃太郎が感心せずにおれなかったというのは勉三の次の言であった。
「皆さん方晩成社の社員は私にとっては開拓の同志です。同志の皆さん、お互いに奮闘努力し、国の為にあらゆる艱難辛苦を乗り越え、何としてもこの事業を成功させ、十勝野を世に出そうではありませんか」
銃太郎が驚かされたのは、何と言っても「開拓の同志」「国の為に」という呼びかけだった。ごく普通の小作農民に対してこの呼びかけがなされたのである。銃太郎には到底考えられないことであった。
「いつものことながら、勉三さんの志の高さには圧倒されました」
銃太郎がそんな話をすると、勝は如何にも当然のことだといったふうに、こう言って笑った。
「開拓の同志、国の為に、とは如何にも勉三さんの言だ。皆キョトンとしてこの言葉を聞いていたが、もし社員一同が本当にその気になって力を合わせれば成功は絶対に間違いないのだがね。ハハハ」
明らかに勝と銃太郎とでは受け止め方が違っていた。勉三は苦笑いした。
「大事な事は実践躬行ということです。私ら幹部が率先実践せずしては誰もついてこず、社の結束は成らないでしよう」
勉三はその後も、晩成社の社員耕夫あるいは小作衆を「同志」と見なし、そのような態度で接した。それはしばしば百姓衆を戸惑わせた。しかしそれは決して彼らに対する諂いでもなければおべんちゃらでもない。それは彼が三余塾で学んだごく普通の心構えであった。「農としての誇り」︱それは勉三一人のものではなく、全ての農民百姓の持つべきものである。そこに彼の信念があった。
銃太郎はこの時、勝とは異なり、深い感銘とともにある種の危惧の念を抱いてもいた。彼のその危惧は、その後の晩成社の運命を予感させるものではあったが、銃太郎も他の誰もそれに気付く者はいなかった。
いずれにせよ、この夜の三人はゆっくり酒宴を楽しんでいる訳にはいかなかった。とにかく明日から始めねばならない仕事が山ほどにあったのだ。
(2)
「ここが寝場所なのか!」
到着したばかりの移民団一行が発した最初の言葉である。誰しもが今にも潰れそうな草作りのアイヌ小屋を眺めて声を失った。社員が開拓地の第一夜を明かしたのは、銃太郎小屋ともう一つアイヌから買い取った倉庫用の大きな掘立小屋であった。銃太郎小屋の方はまだしも、もう一つの小屋の方は剥き出しの土間に俵で作ったムシロを敷き、その上に犬猫のように転がって寝なければならない。布団などの荷物もまだ届いて居なかった。既に旅の途中で時々不平不満を漏らしていた金蔵はこの小屋を見て、
「こりゃ乞食の住処と変わらんのう。やれやれ、年寄りにはちと無理じゃなぁ……わしは銃太郎さんの小屋を使わせて貰うでの」
と、早々に逃げ出していった。
次の日、銃太郎を先頭に、早速皆で太い柳の木を伐り出し、それを並べて床を造り、その上に枯れ草を敷き、寝床らしい寝床を作り上げ、何とか眠れる小屋に仕立て上げた。
一方、勉三らは銃太郎を案内に立て、早速モチャロクの家を訪ねた。
「先日は当社の若い者たちの不始末で皆さんの大切な小屋を焼いてしまい、本当に申し訳ないことを致しました。不慣れ故の失敗、どうかお許し下さい。私たちにはあなた方と事を構えるつもりなど毛頭ありません。どうかご安心下さい。ついでながら、然別に入っている和人たちも蝗を駆除することが仕事故、間もなくここを出て行くはず、ご心配無用です。とりあえず、この米、酒樽、煙草は私どものお詫びとお近づきの印です。どうぞ遠慮なく受け取ってください。それから、後日あらためて親睦の場を設けますので、ぜひお出かけくださるよう、お願い申し上げます」
勉三は晩成社の代表として深々と頭を下げ、出火を詫び、謝罪した。
モチャロクは勉三の丁重な誠意ある謝罪にいささか驚いた。彼は和人の中でも「偉い人たち」には、どこかアイヌを見下したところがあることを十分心得ていた。銃太郎はさておいて、勉三もその類の者と見ていたのである。が、この男も、その他の晩成社幹部もどこか人間が違っている。
「判りました。仲間には私の方からよく言い聞かせておきます。お互いに仲良く、助け合って暮らしたいものです」
と、今まで味わったことのない、居心地のよい、不可思議な雰囲気に戸惑いながら答えた。
モチャロクは、森の奥に逃げた仲間の誤解を解き、晩成社とは仲よく隣人付き合いをするよう説得することや、晩成社が行う「酒盛り」には必ず出かけて行くことなども約束した。
部屋の片隅で黙って心配そうに事の成り行きを見守っていたコカトアンは、父親のその言葉を聞き、いかにもホッとしたように肩の力を抜き、銃太郎の方を嬉しそうに見やった。
銃太郎と勝もまた勉三の対応にいたく感心させられていた。
︱農が賎しく士が貴いなどということはなく、人間に貴賎など無い。それが三余先生の教えだと聞いていたが、勉三さんはアイヌに対してもそれをきちんと実行に移しているのだ。
銃太郎と勝は顔を見合わせて、深く頷き合った。
勉三は、更にこう付け加えた。
「私どもにも皆さん方をここから追い出すなどの意志は全くございません。お互いに睦み合って仲よく暮らして行きたいと願っております。鹿角を拾うために野火などを起こす不埒者を追い出し、不始末を無くし、皆さん方の生活を保護し、できれば共にこの地の開拓を進め、力を合わせて牧畜・農作の道を開きたいとさえ思っています。もし、皆さん方が農事に志を持たれるならば、ですが…」
モチャロクは勉三がそう語るのを耳にし、安堵というより、一種名状しがたい感動を覚えていた。
勉三がモチャロクに語った、「力を合わせて牧畜・農作の道を」という提案は決してその場限りのおざなりのものではなく、勉三の心からの願いであった。実際、後の明治十七年度晩成社総会において、アイヌの「農事に志ある者」「農事に望みある者」を社員耕夫として雇うことが正式に決定されている。
和人もアイヌも同じ人間である︱こうした「人間平等主義」は多分に三余先生から学んだことである。勉三は社員耕夫は元よりどんな小作人衆に対しても、アイヌに対しても、同じ人間として平等に丁重に接した。そして農たる者の誇りを決して忘れないが故に、アイヌに対しても農というものに対する深い関心と理解と実践を期待したのである。それはやや高望みであり、無いものねだりとも言えたのであるが。
しかしながら、勉三のこうした「人間平等主義」は場合によっては非常に窮屈なものとなった。己も他人も全て同じ人間とすると、どうしても他に対しても要求が高くなり、相手は困惑することになる。例えば、己に厳しさを求めるのと同じように他の人間にもそれを求めると、「融通の利かない奴」ということになるのと同じである。
実際、勉三はこの「人間平等主義」故にしばしば誤解されることになる。あまりにも要求が高すぎて「とてもついていけない」「厳しすぎる」「人間味がない」などと見られることが多かったのである。勉三自身はそのことを決して意に介さなかったが、時にはこの「誤解」は「反感」に至る場合すらあった。
さて、六月三日の昼間︱勉三たちは約束通りにモチャロクの家を借りて「酒盛り」を催した。アイヌ部落の主だった住人と酒を飲み交わし、腹を割って話し合う絶好の機会となった。
勉三はここでも「農事に関心ある者には懇ろに教え、種も苗も求めに応じて分け与える」旨を伝え、モチャロクらを喜ばせた。モチャロクは森に逃げていたアイヌたちを呼び寄せ、彼らにもこの言葉を聞かせた。
「晩成社の社員は皆この地の人となる故、これからも親睦を第一とし、共に一村を成し、協力し合って牧畜・農業に励んでいきたいと思っているのだ」
銃太郎も得意なアイヌ語を操りながらこの言葉を繰り返し語って聞かせた。
もっとも、この「酒盛り」で一番男を上げたのは勝である。キリスト教的な人道主義と隣人愛の精神に富み、かつ開放的で豪放磊落、何でもざっくばらんに話す勝である。すぐに打ち解けた。それにまた彼はアイヌ手製の稗酒を実に旨そうに飲み干し、返杯する。アイヌの人々は、そうした酒好きで分け隔ての無い勝にすぐ心を許した。
彼が新婚で、新妻のカネもいずれこの地にやって来ると聞くと、わが事のように喜び、蝗踊唄や鶴踊唄を披露し、賑やかにその婚姻を祝ってくれた。
勿論のこと、全てのアイヌ住民が晩成社の入殖を許し、歓迎したわけではない。中には恐れをなして逃げ出し、そのまま森の中に消えていった者もいた。
︱アイヌとしての誇りを持ち、あくまでもアイヌとしてアイヌらしい生き方を貫きたい。
そう考えるアイヌの民も決して皆無という訳ではなかった。
(3)
「地面割り」︱地所を選んでどの戸がどこをどれだけ耕作するかを決める、それが「地面割り」である。晩成社三幹部の最初の仕事がこれであった。
幸い、晩成社が入殖したこの辺りの平地は疎らに樹木が立っているだけで、切り倒さねばならない大きな樹林はほとんど無かった。荒地ながら草原が広々と続いている。大木を切り倒し、根を抜き、石を掘り…といったような、他では困苦を極めた開墾仕事は避けられた。
それに、まずは入殖者の食料自給のための耕作地を得ることが目的であり、それ程大きな「地面割り」も必要なかった。また、その耕作地は社員個人の所有に帰するものでなく、一旦は社の所有となる故、土地柄の問題は当面それ程考慮しなくてもよかった。この「地面割り」は僅か二、三日で終わった。勿論働き手と食べ口の多い家には多くの地面渡しが行われた。
既に到着が予定よりも一ヶ月遅れており、まごまごしている訳には行かなかった。とにかく早く土地を開墾し、耕し、種苗を植え、自給の態勢を整えなければならなかった。冬に入る前になすべきことをなし終えておかないと、大変なことになる。
各戸の小屋作りも後に回し、一行は一斉に鋤鍬を振り、荒地の開墾に乗り出した。草を刈り、根を掘り起こし、それらを集めて運び、そして土を耕す。毎日がその繰り返しであった。
晩成社社員の意気は高く、夢は大きく膨らんでいた。鋤鍬で大地を打つ彼らの胸中には、「いつか俺たちも立派な土地持ちの一国一城の主になるのだ」という強い欲求が渦巻いていた。
︱「国の為に」、それはあくまで建前であって、勉三さんもまさかそんなことを本気に考えてはいまい。
彼らは皆そう思っていた。当然と言えば当然である。小作百姓衆の土地所有に対する欲求は、勉三が想像するよりはるかに根強く、強烈であった。
まず最初に拓いた畑には粟を多く播いた。豆や黍や麦は控えめにしていた。銃太郎の調査により、この地で一番安定した収穫が望めるのは粟だということが判っていたからである。他には伊豆種の瓜、茄子、蕪、玉蜀黍等が多く播かれた。社員たちは、出発前、函館や大津で売っているという種子の値段を聞き、そのあまりの高さに恐れをなし、伊豆の畑で作られていた作物の種を幾つか持ち込んで来ていた。
「北方の奥地といっても、土に種を播き、水をやって育てるのはどこでも同じこと。何とかなるだろう」
「俺は百姓だ」という彼らの自負がそう言わせたのである。だが、その考えが如何に安易なものであったか、彼らは後に嫌というほど思い知ることになる。
六月三日夕︱ようやく藤江夫婦も揃い、秋入殖組三名を除いた二十八名全員が集まり、盛大な祝宴が開かれた。勉三の主催であり、費用は全て勉三持ちであった。
一樽の酒が振る舞われ、大津から運んで来た肴、菓子、銃太郎の用意したアイヌ風の鮭鱒料理と鹿肉料理、リクの心づくしの山菜料理が所狭しと並べられた。
「恙無く全員無事に到着できたことはこの上も無い悦びであり、幸運である。お互いの無事とこれからの奮闘を誓って、乾杯!」
勉三の音頭で一斉に杯が掲げられ、「乾杯!」の喜声が帯広の夕空に響き渡った。この夜、晩成社社員一行は、九死に一生を得た襟裳岬の嵐の話に沸き、猿留海道で遭遇した危険に満ちた崖道の話に花が咲いた。誰しもが無事を喜び、開拓の明日に明るい希望を持ち、心から笑い、語り、唄った。楽しい、歓喜に満ちた集いの日であった。
(4)
勉三には、入殖したらすぐになさねばならない事務的な大仕事がいくつもあった。最大の事務仕事、それが「地所下付願い」の再提出であった。前年明治十五年の夏、勉三・銃太郎が書き上げて提出した「帯広百万坪下付願い」がその年の末に却下されて返されて来たのだ。「帯広に入殖後あらためて願書を提出するように」との指示であった。
出かける前、伊豆の勉三の元に札幌県庁から「地所下付願い却下」の通達が送られて来た際、これを見た佐二平や善六はじめ多くの出資者は「入殖を少し遅らせてはどうか」と、勉三に勧めた。しかし勉三はこう言い切った。
「何としても国の開拓許可を取らねばならないのです。私が一社を成して十勝野に入殖せんとするのは、己一人の成功を期してのことではありません。十勝野を世に出し、日本の農の面目を一新する、ただそれを願ってのことです。晩成社が入殖し、国の開拓許可を得ることにより、衆目が十勝野と道東道奥にも集まります。それによって国の為政者もまたこの地の開拓を進めねばと決意を新たにするはずです」
あまりにも決然たる勉三の言に、佐二平らも出発を認めるほかなかった。
帯広入殖直後の五月二十三日︱勉三は急ぎ大津村役場を訪れ、再び「五十万坪地所下付願い」を札幌県令宛に提出した。「百万坪」を「五十万坪」に変更したのは加納の助言があったからだ。
「この春に農商務省に新たに設けられた北海道事業管理局と三県庁の間で業務を分割整理中であり、あまり無理な請求は控えた方が得策であろう」と。
翌日の五月二十四日、銃太郎が書いた「起業着手見込書」と送籍移民者(戸籍を北海道に移した移住者)全員の名前を列記した「到着届け」を浦河郡長宛に提出した。
その「起業着手見込書」には今回の移住者・耕夫を少人数に絞った理由を明確に書き記してあった。即ち、当地が内陸奥地で運輸の便が限られており、大量の荷物を搬送することが困難であること。また本年募集の耕夫の手で農場の区割りから各方面の基礎を確立し、然る後に次なる耕夫を大量に募集し、本格的な開拓事業に着手する予定であること等々。札幌で県庁役人から「このような小さな移民団では到底十勝野の開拓開墾などできるはずがない」と、散々言われていたからだ。
事務仕事は他にもまだあった。六月十三日には、送籍移住者に限り支給される家作料・種子料・農具購入費等の「給与金品(政府が移住者に支給する補助金と物品)下げ渡し願い」の社員全員分を認め、これも大津村戸長役場に提出した。しかし後に判ったことであるが、この年の四月に法令が変わっていたため、この時出した「給与下げ渡し願い」は全て無効になっていた。
そんなこんなで、その後も何回も提出書類の書き直しをしなければならなかった。札幌県庁は、それが何の願いであろうと、相変わらず少しでも書式仕様が違うと書類を突き返して来たのである。
同じ日に「帯広村郵便局設置願い」も出した。駅逓所とまでは言わぬが、せめて郵便局だけは欲しかった。
*駅逓所…開拓移住者や旅人の為に宿泊場所や人足・馬を貸し出したり、荷物を預かったり、送ったりした所で、逓信制度の発足と共に郵便の仕事も取り扱うようになる。北海道独特の制度で、明治六年の島松駅逓所(現恵庭市内・取扱人は中山久蔵)の設置が最初である。この駅逓制度は部分的には戦後まで生き延び、最終的に全面廃止となったのは昭和二十三年のことである。既に大津の駅逓所には郵便局も設置されていた。
「駅逓所設置」や「道路開削」はさておいて、郵便局網を帯広村まで延ばせば、札幌県庁や大津戸長役場との連絡も速やかになり、内陸部開拓の気運も一層高まるに違いなかった。手紙や書類を出したり、受け取ったりするだけでも、大津と帯広を行き来するのに普通で四、五日を費やし、天候悪化の折には十数日を要する。
舟賃は相乗りでも大抵一人往復二円以上。一人で一艘を借りて往復すると何とおよそ八円という多額の費用が必要だったのだ。
*二円…明治十六年頃だと二円でおよそ四十キロの白米が買えた。現代の米四十キロの値段はおよそ一万二千五百円ぐらいである。
帯広村への郵便局設置は勉三と晩成社の切なる願いであった。この時勉三が要請した「帯広郵便局設置」が実現するのは、実に九年後の明治二十五年十一月のことである。
さて、多忙を極め、勉三らを苦しめたこうした煩雑な事務仕事は、その後も絶えることなく続いた。七月初めには、「渡航費願い」の全員分を認め、札幌県庁に提出した。横浜出港時に「移住先未確定」を理由に支給を拒否された分である。勉三は晩成社の開拓団に加わった住戸が皆貧しく、資金に乏しいことをよく知っていた。だからこそ、こうして官から支給される援助資金を少しでも早く入手できるようにと、入殖直後から彼らに代わって願書を認め、県庁や役場に提出し、交渉を進めていた。しかし、これも四月に法令が変わったとの理由で書き直しを余儀なくされ、渡航費援助金を受け取るまでに更に多くの日時を費やさねばならなかった。
この他にも、晩成社の総会に提出しなければならない会計処理とその記入記録の事務が山のようにあった。
また社からの社員への貸し付けも少なくなく、その記述もまた重要な仕事であった。計数管理が不得意な勉三にとって、これらの事務仕事は思いの外重い負担となった。ともあれ、入殖当初における三幹部、とりわけ勉三がこなさねばならない事務量は半端なものではなかったのである。
「実践躬行、それこそが今の大事というのに、率先垂範して鋤鍬を振るうどころか、こうした事務仕事に追われっ放しではないか。こんな事にこれ程の時間を費やさねばならないとは。我が家の開墾はリクの細腕と雇ったアイヌ人夫に任せ切りで遅々として進まず、これではどうにも示しが付かないではないか」
勉三はいささか焦りを感じていた。
それでも晩成社は、一ヶ月半の間に、約六十畝(一畝は三十坪)が開墾され、陸稲・水稲も試植されていた。住居小屋も皆が協力しあって新たに三軒を建てていた。
遅々としてではあったが、晩成社は一歩一歩成長し始めていた。
(5)
ここで発足当初の晩成社の仕組みについてあらためて説明しておこう。
資本金五万円(一株五十円)。最初の株主は依田一族と三余門下生合わせて十四名で資本金の半額二万五千円を負担している。株主はなるべく耕作に当たることとし、残りの資金集めでも現地耕作者(社員)の株主化を鋭意追求することになっていた。
集まった資本金は利息を取って貸し付けを行い、利を得るようにする。
株主への一定の配分を行うが、一定以上の余剰利益は社の義金として積み立てるようにする。
本社は帯広、出張所は東京と伊豆松崎に置く。社としての営業期間は明治十五年から二十九年までの十五年間。この間に一万町歩の開拓を行ない、まず牧場を開き、その一部を暫時耕作地に変じていく。
満期後は株数に応じて土地を分配してもよいし、引き続き本社を維持し、社として運営していくもよし。いずれにせよ全て社員の衆議に決することとする。
国より願い受ける土地の所有は晩成社(株主)に帰する。従って耕作地は一旦は全て社の所有となる。株を持つ者も持たない者も耕作する者は社より土地を借り受け、二年目より一定の借地料(収穫品の十分の二)を社に払い込む。
耕作者が開墾した土地については評定の上一定の開墾料を支払う。借地たる耕作地からの収穫品は耕作者のものであるが、販売に当たっては専断に走らず、社とよく相談し、皆がまとまって売り捌くようにする。
耕作者は借地を耕したり開墾地を増やしたりするだけでなく、余力を共同事業としての牧畜に当てる。こうした労働に対しては社として日当を払う。また耕作者が自分の借地で育て収穫した牧草は、社がこれを買い取る。耕作者はその収入を株の購入に当てるよう努める。こうして出来る限り現地耕作者の株主化を追求する。
耕作者は、家屋建築、炊事道具、寝具、食料、衣服などの日常必需品、及び器械・肥料・牛馬などの購入は自費にて賄う。但し自弁出来ない者に対しては社より必要な貸し付けあるいは売り渡しを行なう(分割返済可)。しかしながら濫りに貸付や売渡は行なわない等々である。
ある人は、こうした晩成社の対応を「社員(小作)への負担の押し付けが過ぎる」「高い金利による収奪だ」と面罵している。しかし、金利も当時の銀行金利に比すれば決して高いものではない。全ては、社の事業が軌道に乗りさえすれば、決してそれ程の負担という訳ではなかった。
勉三の脳裏にあったのは、ケプロン言うところの「独立自営農民」の創出であり、その力を結集した結社(共同体としての会社)による十勝野の開拓開墾であった。その意味において、あくまでも農業従事者・関連事業従事者を主体にせんとする晩成社の会社形態は、現代風に言うならば一種の「農業生産法人」ということができる。牧畜についても「社と耕夫の共同事業」という位置づけであり、極めて進歩的な企てと言えよう。
後世の評者の中には、「単に地主を株主と呼び換え、小作人を耕作者(社員)と呼び換えたに過ぎない」という者もいる。が、そうした形式的な見方では晩成社の本質を把握することは到底できないであろう。
【2024年掲載の全文】
北海道十勝野オベリベリ開拓の祖
依田勉三物語
~順境温暖の伊豆から未開厳寒の原野へ~
著者
北海道開拓史研究会
松崎三聖人を顕彰する
( 代表・福永慈二)
まえがき
ここに依田勉三と十勝野帯広を謳った一編の詩がある。
昭和四十七年(一九七二年)発行『帯広のあゆみ』に掲載された詩で、作者は帯広第一中学二年生羽賀徳昌君だ。
勉三さん
九十年の昔、この十勝の原野に
開拓のくわをおろした一人の男があった。
勉三さん、それがあなただ。
北海道という未開地に、夢を求めて
やってきた人、依田勉三。
ある時は、冷害になやまされ、
ある時は、バッタに畑をおそわれ、
しかし、それでも自然とのたたかいを
あえてえらんで、自分の信念を貫いた人、
帯広開拓の父
依田勉三。
郷土の大地は、どこまでも畑がひろがり、
黒々とした土が顔を見せている。
その黒い土にしみこんでいるあなたの
血を、汗を、ぼくたちは知っている。
そして、それを知るからぼくたちも
この帯広を、もっとよい街にしなければと考える。
あなたの意志をうけつがなければと心をひきしめる。
きょうも太陽はのぼり、そして去り、
人々は一日はたらき、
帯広は活動した。
そして、人々は知る。
勉三さんの身をすて、開拓にいのちを
かけた
血の色を、汗のにおいを。
帯広をつくろうとした精神の
むかうところを︱
勉三さん。
今、帯広は、あなたの意志をつぎ
緑と虹と人々の笑いのたえない街
帯広にむかって、歩きつづけます。
そのことをあなたに伝えます。
『帯広のあゆみ』(帯広市・教育委員会・教育研究所編集)は、昭和四十七年十月に「帯広開基九十年・市制施行四十年」を記念して発行された四十数ページの小冊子である。残念ながら今ではその存在を知る人は極めて少ない。この小冊子の編集の直接の担い手は帯広市内の小学校・中学校の先生方である。またこの詩は羽賀君の中学二年生の時の作として発表されているが、実際に書かれたのは小学校四、五年の頃だという。
依田勉三とは如何なる人物か、十勝野帯広開拓の原点とは何か。その答えがこの帯広の一少年の手になる一編の詩『勉三さん』に示唆されている。今、帯広は、十勝野は、否日本というこの国と世界は大きな転換期を迎えていると言ってよいであろう。そうした時代が私たちにいま一度〝歴史の原点〟に立ち返ることを求めているように思われる。
北の未開地―十勝野開拓を志し、十勝野を拓き、十勝野を世に出さんとした伊豆が生んだ哲人農士・依田勉三の維新開明期の生涯は、例えこの身が北の原野に朽ち果てようとも農としての誇りを持って国家・社稷・人民に尽くそうとの、公的・共同の精神・思想に貫かれている。
*国家…ここでは明治政府・権力のことではなく、日本という国に定住する人々が作る政治的経済的社会的共同体のこと。
*社稷(しゃしょく)…土地の神(社=やしろ)と五穀の神(稷=きび)を祭ること。転じて国あるいは祖国の意。ゲゼルシャフト(利益社会)に対するゲマインシャフト(共同社会・共同体)。
*人民…国民、庶民、無位無官の人々のこと。権力支配者に対す
る政治的主体としての民衆をさす。
かくの如き至高なる公的・共同の精神は、旧体制を倒し、近代という新しい時代を開こうとした幕末・維新開明という激動する革命期が生んだものであり、そのような時代が必要としたものである。
そして現在、世界の至る所で、日本の各地で「近代という時代の見直し」「新しい国のあり方」「現代という時代が必要とする思想と精神」を求めて真剣な論争と激論が繰り広げられている。現代という時代が今再び、幕末維新開明期の原動力となった至高の公的・共同の精神、私的所有制度に発した現代の私的個人的精神の対立物を必要としているように思われる。「精神や思想はそれが人間の心を捉えると、物質的な力、巨大なエネルギーに転化し、世界を動かしていく」との有名な格言がある。やがて時至り、ある偶然的な事件と時代を導く必然の精神・思想とが烈しく交錯し合う時、その精神・思想は多くの人々の心を捉え、物質的エネルギーに転化し、新しい時代を切り開いていく巨大な力となるであろう。
勿論、歴史は帯広市内や札幌市内の真ん中を走る大通りのように、真っすぐに一直線に進むものではない。紆余曲折は免れない。勉三の生涯とその結社の歴史がそうであったように、日本のそして世界のこれからの歴史もまた、やはり同じように紆余曲折を余儀なくされることであろう。しかし、そうであっても、歴史はやがて必ず
〝到達すべき地点に到達〟していくものである。新しい時代は必ずやって来る。今は、「その日、その時」に備えてしっかりと準備することこそが求められているのである。
(二〇一二年九月十日)
《 目次・上巻 》
まえがき 1
序章 6
一部 立志篇
第一章 形見の言葉 11
第二章 三余先生 22
第三章 新旧交錯 43
第四章 義塾とケプロン報文 72
二部 邂逅篇
第五章 ワッデル塾 84
第六章 故郷伊豆へ帰る 89
第七章 巡り合わせ 104
第八章 時節到来 118
道史Ⅰ 開拓黎明期 133
三部 北遊篇
第九章 北の大地 133
第十章 十勝原野 151
第十一章 西の別天地 159
道史Ⅱ 中山久蔵と寒地米作 171
四部 創業篇
第十二章 同志集う 172
第十三章 大器晩成の社 199
第十四章 札幌県庁詣で 206
第十五章 十勝野帯広へ 224
第十六章 帯広村 234
《北海道の近代史》
道史Ⅰ 開拓黎明期 259
道史Ⅱ 中山久蔵と寒地米作 279
《中巻目次》
五部 移住篇
第十七章 故郷出立 2
第十八章 帯広先発隊 24
第十九章 海行陸行 43
道史Ⅲ 官有物払い下げと政変 51
六部 拓殖篇
第二十章 原野開墾 52
第二十一章 試練の日々 67
第二十二章 バッタ襲来 77
第二十三章 行き違い 89
第二十四章悲喜こもごも 102
道史Ⅳ 先住アイヌ民族 119
七部 曲折篇
第二十五章 日曜講話 119
第二十六章 アイヌと農事 135
第二十七章 晩成社第一回総会 141
第二十八章 豚と一つ鍋 150
第二十九章 捲土重来の策 166
第三十章 生花苗牧場 176
第三十一章 それぞれの道 185
道史Ⅴ 三県一局の時代 208
八部 激動篇
第三十二章 岐路に立つ209
《北海道の近代史》
道史Ⅲ 官有物払い下げと政変 247
道史Ⅳ 先住アイヌ民族 253
道史Ⅴ 三県一局の時代 262
《下巻目次》
八部 激動篇(中巻続き)
第三十三章 悲しみと喜びと 2
第三十四章 捲土重来の時 16
第三十五章 集治監建設 37
第三十六章 依田本家家政問題 58
第三十七章帯広変貌 80
道史Ⅵ 道庁時代 86
九部 不撓篇
第三十八章 牛商「丸成」 86
第三十九章 リクとの離別 93
第四十章 野の蓮華草 114
第四十一章 帯広工場の破綻 127
第四十二章 途別開田へ 145
第四十三章 尊徳に学ぶ 159
第四十四章 最後の使命 169
第四十五章 開田と酪農と 180
第四十六章 有為転変 191
道史Ⅶ 第一次大戦と不況 206
十部 晩成篇
第四十七章 晩成社解散 206
第四十八章 大団円 226
《北海道の近代史》
道史Ⅵ 道庁時代 229
道史Ⅶ 第一次大戦と不況 239
《参考・引用資料》 244
《資料館・展示室 見学と調査》 256
《あとがき》 257
尚、用語については、作品の時代背景を考慮し、
当時の資料に使われている用語をそのまま使用し
ている。
北海道十勝野オベリベリ開拓の祖
依田勉三物語
~順境温暖の伊豆から未開厳寒の原野へ~
序章
(1)
日本列島、その北辺に浮かぶ巨大な島、北海道。つい先ごろまで蝦夷とよばれていたこの菱形の大地は、北から南へと連なる山嶺によって東と西に分かたれている。
最北の宗谷岬に端を発した丘陵は北見山地へと走り、さらに天塩岳を越えて石狩山地に向かい、この島の最高峰大雪山へと昇りつめる。そこから稜線は高く噴煙を上げる十勝岳をたどり、西へ斜行して日高山脈へと下る。更に太平洋に鋭く張り出した菱形下方の先端襟裳岬にまで延び、ここで碧い海に深く潜り込んでいる。
恰も背骨のように曲がって北から南へと走る山稜によって分かたれたこの北の大地の東半分、その一角に関東平野に次いで広く濃尾平野に匹敵する広大な平地がある。ここがかつて〝北の原野〟とよばれた十勝野である。
西は日高山脈、北は石狩山地、東は阿寒白糠丘陵に囲まれ、南は大海太平洋に開かれている。
その広大な中原を北の石狩山中に源を発する大河―十勝川が数知れぬ支流を従えつつ南へ流れ、あるいは東に走り、また南へと下り、二つに分かれて太平洋の大海原に注ぎ込んでいる。
十勝︱元の名は「トカプ」または「トカプチ」。「乳」を意味するアイヌ語である。大きな平原を流れる川は河口で二つに分かれて大海に注いでいる。あたかも二つの乳房から無限の乳汁を流し続けるかのように。
母なる大河十勝川が流れる平原︱そこがこの物語の舞台となる十勝野である。
十勝野の冬は厚い凍土と氷雪に被われ、凍れる夜は心胆を震え上がらせ、夏の大河は氾濫と洪水を繰り返した。とは言えそこは見事な肥沃の地、豊穣の地であった。
明治の世の初め、函館・松前・札幌・浦河など西の住人にとって日高山脈の東向こうの十勝野は紛れもなく「未開の奥地」であった。無論、無人の地というわけではなかった。勇猛で名高い十勝アイヌ百数十戸・千数百人が処々に村落を構え、慎ましやかな生活を営み、既に何人かの和人(アイヌの民の言うところのシャモ)が移り住んでいた。
大正の時代、病に倒れ十九歳でこの世を去ったアイヌの少女知里幸恵が『アイヌ神謡集序文』に謡った古き良き時代の風景︱「アイヌモシリ」(人間の住む静かなる大地の意)の片鱗がそこここにあった。すなわち―
『その昔この広い北海道は、わたし達の先祖の自由の大地でありました。…
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り
夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉のような舟を浮かべてひねもす魚を漁り
花咲く春は軟らかな陽の光りを浴びて、
永久に囀る小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬摘み
紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝火も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円な月に夢を結ぶ…』。
「アイヌモシリ」︱大和人によって「蝦夷地」と呼びならわされたこの大地が、更に「北海道」という新しい呼び名に変えられるのは明治二年八月のことである。
*ほっかいどう…「北海道」の名称は、1869年(明治2年)8月
15日の太政官布告で定められた。命名に際しては、松浦武四郎が、日高見(ひだかみ)、北加伊(ほっかい)、海北(かいほく)、海島(かいとう)、東北(とうほく)、千島(ちしま)の6つの案を建議し、第2案として律令制の七道(東海道、東北道、北陸道など)に類した「道」を提唱。その結果「北加伊道」が採用され、最終的には「加伊」に「海」の字が当てられ、「北海道」となった。武四郎が「北加伊」を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国を「カイ」と呼び、同胞相互に「カイノ」または「アイノ」(アイヌ)と呼びあってきたからというところにあった。
同時に、明治新政府はロシア帝国に対する「北門の鎖鑰」(北方守備の戸締りの要所)と呼ばれたこの地に、開拓使を設け、蝦夷全島を自らの支配下に置いた。こうしてアイヌモシリ︱蝦夷地︱北海道は、新しい時代の幕開けを迎える。
明治新政府の肝いりで函館・札幌・浦河周辺の原野原林は次々と切り拓かれ、畑地に開墾され、道路が通され、家々が建てられ、街や村が次々に作られていった。つまり本州内地に近い北海道の南西部︱道南・道央からは僅かに残されていた〝アイヌモシリ〟の趣が瞬く間に消え去り、先住民族アイヌの悲嘆哀傷もものかは一帯は凄まじい勢いで文明開化の荒波に洗われていった。
だがその東半分︱日高山脈の向こうの奥地十勝野へ入ろうとする者はまだ誰もいなかった。新政府が手を着けかねていたこの奥地は「北門の鎖鑰」から遠く外れており、開拓成算のあてもなく、もし入殖してもその困苦失敗は目に見えていたからである。そんな中︱
(2)
明治十四(一八八一)年夏-農に生まれ、農を誇り、農に生きんとする伊豆の豪農依田家の三男坊、偉大な思想家たる三余塾の師土屋三余に学んだ哲人農士・依田勉三は北海道開拓を志し、一人渡北して各地を視察、十勝野への入殖を決意し帰郷、開拓結社『晩成社』を立てる。
翌十五年七月、勉三とその右腕たる士族銃太郎は三つ四つアイヌ部落があるばかりの川のほとり︱十勝野中原のその中央部に存する帯広の地に立った(もう一人の勉三右腕たる士族渡邊勝は伊豆で開拓事業の賛同人募集に奔走していた)。
勉三はその日の感激を簡潔極まる筆致で日誌にこう書き記している。
「帯広村…この地すこぶる肥沃にして広漠たり。東北に十勝川、東南に札内川、北に帯広川を帯び、札内山・音更山を見る外四顧(辺りに)目に触れるものなし。細流は平原の中央にあり。水細くして冷やかなり」
帯広の名の由来であるオベリベリ(あるいはオペレペレケプ)とはアイヌ語で「川尻が幾つにも裂けているところ」を指す。まさにこの一帯には無数の支流・細流が存在し、大河十勝に流れ込んでいた。
かくして明治十五年七月十六日、十勝野開拓を志す晩成社の入殖地は帯広と定められ、ここに最初の『開墾願地』の標杭が立てられた。
翌十六年五月、温暖の地伊豆松崎より依田勉三を先頭に晩成社移民団十四戸三十一名(内三名は同年十月に遅れて参加)が入殖、「一万町歩の牧畜場を開墾し、更に熟田を拓く」という壮大なる企てを胸に帯広開拓の第一投が打ち込まれた。
旱害、洪水、蝗害(バッタの害)、霜害、山火事、道路開削工事の遅滞、経済不況等々あらゆる艱難辛苦と困苦欠乏とが彼等を襲った。犠牲のみ多く、得ることのあまりにも少ない献身の日々が続いた。勉三と依田一族が十勝野開拓に注いだ資金は二十数万ともそれ以上とも言われる。現代の額にしておよそ一億数千万を優に上回る。
大正五年三月、ようやく開墾地三千町歩を拓き、家畜数三百頭を数え、開田に成功するも既に時遅く、多くの開拓同志は去り、高騰する借入金の利子重く、晩成社は遂に解散に至る。晩成社は、持てる財産全てを売り払い、さらに不足を依田一族が引き受け、全借財を処理し終えた後、僅かな土地と宅地のみを残し、終に消滅する(法律上の解散は昭和七年十二月)。
だが、勉三はこうした結末にも決して絶望することはなかった。平民(農民)依田勉三は北の原野︱十勝野を己の墳墓の地と定め、ここに田畑を拓かんとして自らを捧げた。一方また十勝野も勉三の人物を創った。勉三は農の大地十勝野そのものであり、そこに永遠に生き続けていると言えよう。
「祖国と人民の為に」という崇高な精神と志をもって開拓に挑んだ依田勉三︱彼は十勝野と日本の農の未来に希
望を持ち、最後の最後まで大いなる企てを追い求めつつ、
大正十四年十二月十二日朝、厚い雪に覆われた十勝野の片隅で静かにその生涯を閉じた。七十四歳であった。
(3)
十勝野帯広が拓かれ時から百余年が経つ。勉三の跡を追った多くの移民団・百姓農民衆、あるいは「赤い服の人」と呼ばれた囚人衆の奮闘努力の結果、今や見事な一大耕地と化した十勝野は一市十六町二村三十五万二千の人口を擁し、農地二十五万五千ヘクタールが拓かれ、六千三百戸の農戸が日夜営農に励んでいる。今や日本農業を支える一大拠点であると言っても過言ではない(二〇一〇年現在)。
勉三死後、彼の生涯について、ある者は「インテリ農民の高邁な理想主義が苛酷な現実の前に無惨に敗れた悲劇」と評し、ある者は「算盤を片手に持つことを忘れた者の当然の敗北」と嘲笑い、伊豆から共に移って来た農民の中には「勉三さんに騙された」と恨む者もいた。更には「依田家は理想に燃えて北海道開拓を企画したのではなく、それはただ単に一族の事業失敗による破産的打撃対策の一環として行なわれたに過ぎない。勉三は拓聖でも何でもない」と冷笑する者もいる。
勿論のこと依田勉三を慕い、「拓聖」として崇め、帯広市内に蓑笠姿の巨大な銅像を建立して勉三を讃えた萩原実・中島武市といった人々もいる。戦後、三十七人の開拓功労者の一人として札幌神宮開拓神社に祀られてもいる。とは言え、天上の勉三は「拓聖」と呼ばれることを決して潔しとはしないであろうが。
「行蔵(身の振り方・生き様)は我に存す。毀誉(悪口を言ったり誉めたりすること)は他人の主張、我に与らず」︱これは、〝やせ我慢の説〟で己を批判した福沢諭吉に対する勝海舟の答えである。たぶん勉三も同じ答えを発するに違いない。
(4)
農に生まれ、農を誇り、農旗を高く掲げ、農魂を砕いて十勝野開拓に生涯を捧げた哲人農士・勉三最期の言葉は、「晩成社にはもう何も残っていない。しかし十勝野は…」というものであった。
確かに晩成社は財産らしい財産を何も遺さなかった。しかし、本当に何も遺さなかったのか。万感を籠めたこの勉三の臨終の言に、危機に直面する後世は如何なる思いを聞くのであろうか。
そもそも温暖の地伊豆の豪農に生まれた順境の人依田勉三が、何故にこのような寒冷の逆境地たる十勝野に入殖し、その開拓に全財産と全生涯を捧げたのであろうか。
物語は十勝野からはるか彼方にある伊豆国南西の寒村︱遠州(静岡)駿河湾松崎の浜からやや奥まった山間の小さな村より始まる。
一部 立志篇
第一章 形見の言葉
(1)
時は幕末、維新を遡ること二年前︱慶應二(一八六六)年夏のことである。
「この私に果たすべき使命がある、というのか……いったい如何なる使命が…」
小高い山頂の昼下り、大樹タブノキの木陰に立った一人の若者がそう呟きながら西に広がる駿河湾松崎の海をじっと眺めていた。
歳の頃十三、四。緑い山肌を伝う涼やかな南風が勢いよく吹き上げ、しばし山頂に渦巻き、若者の無造作に束ねた髪と日焼けした汗まみれの顔を心地よく撫でて行く。
固く握り締めた両の拳、大地をしっかと踏ん張る両の脚、汗を浮かべて光る両の頬。いかにも新しい旅立ちの時を迎えた若武者といった風情である。が決して偉丈夫というわけではない。身は細く、背丈も決して高くはない。
だが、彼方の大海に向けられたその奥深い眼差しは、この若者の思慮深さとともに何か遠大な夢を追い求めて止まない一途さを窺わせる。太い眉ときりっと締った眉根には内に秘められた烈しい気性と熱情とが見て取れる。幾分角張った顎と堅く結ばれた口元は若者の並々ならぬ意志力、頑固さを示していた。
この若者︱後に北の原野十勝野の開拓を志すことになる豪農依田家の三男勉三が立つ熊堂山の頂からは、彼を生み育ててくれた狭いながらも愛すべき郷里が一望でき、さらに遠く世界に広がっていく大海を垣間見ることができた。
勉三が生まれ育った伊豆半島は「陽光燦然として気候温暖の地」であり、夏は全島がむせ返るような濃い緑に覆われる。海沿いの至る所に断崖絶壁が立ち、天城山系の裾辺りには山襞に囲まれた細長い平地が形づくられ、そこを流れる川沿いに幾つかの小さな村々が並んでいた。
勉三が今立っている南西伊豆松崎に近い熊堂山はそんな山裾の一角にあり、いくらか平地に突き出た何の変哲もない低い山である。
山の登り口には山名由来の熊野権現堂が祭られ、麓の小さな村中村が一望され、勉三の今は亡き師である三余の生家と、つい先頃まで勉三や村々の子弟が寄宿し学んでいた三余塾の塾舎が見える。
東方に延びる細長い山峡の奥には勉三が生まれ育った大沢村が望める。眼下に奥深い天城山系の懐から流れ下る那賀川が見える。それが夏の強い陽射を浴び、処々に白い煌めきを発しながら青い田畑が連なる細長い谷間を走っている。
最近、勉三は何度もこの熊堂山の山頂に立っていた。ここから見える景色には何かしら彼の心に深く響くものがあった。
昔、この熊堂山山上には学問修行を終えて江戸から故郷中村に帰った師三余が最初に建てた学舎があった。結局、ここには水が無く、すべて下から運び上げねばならぬ不便がつきまとい、一年と経たずに山を降りざるを得なかった。
幼少時に父母を失った三余は、子供の頃からこの山頂からの見晴らしが随分気に入っていたらしい。夕暮れ時、光輪を揺らめかせながら朱玉の夕陽が松崎の海にゆっくりと沈んでゆき、その上空を赤と金色とに彩られた筋雲が細長く漂い始める︱そんな穏やかで温かい伊豆の海の夕焼けがとりわけ好きだったようだ。師三余は亡き父母が懐かしくなったり、何かもの思いに耽りたくなったりするとよくここに登ったという。
これらの昔語りは、今は亡き師が何かの折にふと漏らした思い出話を勉三が記憶の底にそっとしまい込んでおいたものだ。勉三もまたここ一、二年の間に相次いで父母を、そして敬愛する師を亡くしていた。そんな似た境遇が、憂鬱に襲われ、何か考え事をしたくなると、彼を師ゆかりの熊堂山の山頂に向かわせたのである。
しかしこの日、山頂に立つ彼の顔つきはいつもと全く異なり、明るく晴れ晴れとしていた。
「勉三には他に果たすべき使命がある」
つい先刻耳にしたばかりのこの言葉︱今は亡き三余塾の師三余が自分に遺したというこの形見とも言える言葉を、勉三は胸を高鳴らせながら何度も何度も反芻していた。
(2)
師のこの「形見の言葉」を勉三に伝えたのは三余夫人ミヨである。
三余は一ヶ月ばかり前の慶應二年七月二十四日、病を得て五十二歳の生涯を閉じていた。
葬儀の後片付けも終わり、すべてに一区切りがついた頃、ミヨ夫人から勉三に、
「大事な話があるので来て欲しい」
と、呼び出しがかかった。
十八歳の時、七歳年上の江戸帰りの漢学者三余に嫁いだミヨは、学問と子弟教育に没頭のあまり家産を傾ける夫に代わって家政を切り盛りし、みごとに塾経営を支え、家計を立て直した文字通りの賢妻であった。
彼女の実家は勉三の実家依田本家から随分前に分家した「塗り屋」であり、江戸表に通う船二隻を持つ大地主・大屋(庄屋)であった。松崎界隈随一の財産家で、彼女はそこの五人兄妹中ただ一人の女児で、父親にとってはまさに目に入れても痛くないと言うほどの可愛い娘であった。が決して甘やかされることなく、質素・正直を重んじる家風に従って厳しく躾けられた。
三余が子弟教育に専念できたのはこの妻の〝内助の大功〟があったればこそだというのが親類縁者や村人の専らの論であった。後に、高齢に達した夫人が通りに面した長屋に移ると、村人はその前の道を通る時は必ず被り物を取り、深く頭を下げて通ったという程の女人である。
ちなみに彼女の実弟善右衛門は大沢の依田本家に養子入りして跡を継いでいる。従ってその実弟を父とする勉三とは伯母・甥の関係にあたる。当時は、本家と分家の間でこうした養子縁組や婚姻関係を結ぶことは決して稀なことではなかった。
「大事な話って何だろう。三余先生が亡くなって一ヶ月が経ち、既に土屋家の跡取りも決まっているというのに…」
「土屋家の跡取り」︱土屋家に向かう勉三の歩みを幾分遅くさせていたのは、実はこの問題であった。
昨年末、痔の病に倒れた三余が伊豆近隣諸国に有名を馳せた塾の看板を下ろした時、門下生であった勉三は「もっと学問に励み、先生の跡を継いでいつか再び三余塾を復活させたい」という漠然とした夢を抱いていた。しかし死後に布団の下から発見された師の遺書には「土屋家跡取りには依田準次を」とのみ記されていて、塾の行く末については一言半句も言及されていなかった。
準次は実家「塗り屋」の家督を継いでいるミヨ夫人の実兄善兵衛の次男で、勉三同様彼女の甥にあたる。勉三とは一つ下の従兄弟同士の間柄で、七歳の時から塗り屋の長兄依田園(善六)と共に三余の薫陶を受けていた。
勉三は自分が養子に指名されなかったことに心のどこかで微かな失望を覚えていたが、誰にも何も言わず、密かに抱いた淡い夢をそっと心の奥底にしまいこんでいた。
土屋家の屋敷門にはまだ三余塾の門札が掲げられたままであった。取り外すに忍びないのであろう。
「勉三です」
と声を張り上げて玄関を入ると、予め言い含められていたらしく、すぐに下働きの女の子が出て来て奥へと案内した。
まだ四十五歳を数えたばかりのミヨ夫人は目の前に客用の立派な絹織りの座布団を置き、三余の位牌と遺骨が安置された仏間の真ん中にぽつんと座り、この若い客人を待っていた。
勉三は黙って夫人に軽く頭を下げ、仏壇に安置されていた師の位牌と白布に蓋われた骨箱ににじり寄り、手を合わせ、身動きもせずにじっと頭を垂れた。
ミヨは昔からこの若者が好きであった。元々勉三は口数の多い児ではなかった。体型も小柄でおよそ偉丈夫という趣はない。無口な性質ではあったが、その分思慮深く、ここぞというときには自分の考えをはっきりと述べた。かねてより彼女の目にこの若者にはどこか見所があり、人を惹きつけるものがある、と映っていたのである。
今、仏壇の師の位牌・骨箱をすがるように見詰めるその後ろ姿は、大切な師を失い、途方にくれているように見えた。
「ああ、やはりこの児が貴方を一番慕ってくれているのですよ。勉三さんなら貴方の夢を継いでいつかきっとそれを叶えてくれることでしょう」
彼女はいかにも嬉しそうに仏壇の夫に話しかけた。
勉三は座布団を横に外し、夫人の顔をまっすぐに見据えて言った。
「伯母さん、随分とお疲れでしょう。跡取りとして準次君が来るということで大事ないとは思いますが、わたしにも何かお手伝いできることがありましたら、どうぞ遠慮なく申し付けて下さい」
「優しい言葉をありがとう。いずれ準次が来て、何もかも引き継いでくれることになりましたからね。私もまだそれ程老け込む年でなし、心配ありませんのよ」
と、自らを励ますように言った。
「準次君は昔から農事に熱心で、よく先生が褒めておられました」
「まぁ、よくご存知ね。ところで今日来てもらったのは勉三さんにぜひ伝えておきたいことがあるからなの。これは主人の、三余先生の遺言と思って聞いて下さいね」
ミヨが元塾生を「さん」付けで呼ぶのは三余譲りである。彼女はあらためて居ずまいを正すと意外な言葉を口にした。
「昨年末、だいぶ気分が良さそうでしたから、主人に、『わたくしは前々から大沢の勉三さんを養子に貰い受けたいと思っております』と、申し上げたことがありましたの」
勿論、勉三が初めて聞く言葉であった。
「ほ、本当ですか?」
勉三は心底驚いた。
「で、三余先生は何と……」
「『勉三には他に果たすべき使命がある。ここの跡継ぎは学者でなく百姓で良い』とただその一言だけでした。担当の畑を熱心に立派に経営していた準次さんが眼鏡に適っていたらしく、早くから決めていたようです」
「勉三には他に果たすべき使命がある」とはいったいどういう意味なのか。勉三は、仏壇の師に、思わず語りかけていた。
「他に果たすべき使命がある…。ここに、この村に止まることなく、やはり広い世界に出て行けということなのですか? それにしても、先生はこの私に何をさせたいとお考えだったのですか?」
夫人は膝を寄せ、身を乗り出すようにして言った。
「わたくしには学問が無く、難しいことはよく判りませんが、勉三さんなら自分に与えられた使命が何か、いつかわかるはず。主人はそう信じてこの一言以上のことは何も言わなかったのでしょう、きっと。主人は勉三さんを自分の分身のように思っておりましたの。だから自分の見果てぬ夢の実現を貴方に託したのですよ。わたくしも、命ある限りずっと貴方を見守っていきますからね」
肚の底から何か熱いものが込み上げて来て、やがて全身に燃え広がっていった。彼は仏壇の師と傍らの夫人に深々と頭を下げると弾けるように外に飛び出した。彼の足はいつしか熊堂山の山頂に向かっていた。
そんなことがあって、勉三はこの日の昼下がり、熊堂山山頂に聳える大樹タブノキの木陰に立ち、遠く松崎の海を眺めながら、師の遺言を繰り返し反芻し、あれこれと思いを巡らせていたのである。
(3)
「勉三には果たすべき使命がある」︱この師の言葉がこれほどの衝撃を自分に与えようとは勉三自身思いもよらないことであった。
十四歳の夏のこの日、初めて、「人生如何に生きるべきか」「何を目指し、何を行うべきか」という大命題を目の前に突きつけられたような気がして、自分が急に大人になっていくように感じられた。
三余先生が病に倒れ、その学塾の門を閉じた頃から、漠然とではあるがこれから先の人生についてあれこれ考え始めてはいた。三余塾の跡を継ぐという淡い夢を抱いたことがそれだった。しかしいずれにせよ、それ程切羽詰まった問題として将来のことを考えていたわけではない。
大沢村の豪農として代々村の名主を務めて来た依田本家は数年前に当主善右衛門が亡くなり、勉三の七つ上の長兄・佐二平(十一代目で幼名は清二郎)が家督を継いでいた。佐二平は「三余塾の顔回」(孔子の第一の弟子)と謳われた秀才で、二十歳でありながら既に名主役を任されていた。
三男(すぐ上の兄が幼い時に世を去っていたので実質は次男)の勉三は、後に彼自らがやや自虐的に「天下の無用者」と称したように、何か特別に期待されるということもなく、どちらかというとのんびり過ごしていた。おのれの将来を切実に考える必要もなかったのだ。
戦後生まれの読者は「近代家族法」の下で育って来ており、戦前あるいは江戸時代の「前近代的家族制度」というものを知らないであろう。それ故「天下の無用者」などという呼び方はあまりにも大げさに過ぎると思うかも知れない。が、当時はごく普通の表現であった。
旧家族制度では家督は長男一人がこれを継ぐものとされていて、一家の全財産・全権限は長男に相続された。「封建的な家父長的家族支配」と批判された長子相続制度である。言うまでもなく、この制度では長男は絶対的存在となる。
その長男にもしものことがあった場合は次男がこれに代わり、女子のみならば養子取りが行なわれる。越後地方では今でも次男は「モシモ兄にゃ」と呼ばれるという。やや揶揄的なこの呼び名は「もしも」長兄に何かあった場合には代わって家を継ぐことになる次男︱即ち「長兄の代理者」を指している。
当時の農村では、次男以下の兄弟は外へ養子に出るか、家で無用者・厄介者と呼ばれながら長兄の手伝いをするか、そのいずれかであった。もっとも依田家のような豪農になると、次男以下は「無用者」「厄介者」というより、むしろ「自由人」として大いにその才能を発揮することができた。したがって勉三も決して本人が自称したような「無用者」ではあり得なかったのであるが、それ程期待もされず、のんびりと過ごしていたことは確かだった。
しかし人生の劈頭(真っ先・先端)に立った今、彼は溢れんばかりの闘志を燃やし、己の未来について、真剣に深く徹底的に考え抜こうとしていた。
「わたしは七歳で入門してからただひたすら先生を慕い敬い、先生の嫌う怠惰と一時凌ぎを憎み、先生の言葉を一言半句たりとも聞き逃さじとその教えに一所懸命に耳を傾けて来たつもりだ。先生もそういう勉三を愛しみよくよく心に掛けてくださり、厳しく鍛えてくださったのであろう。だから当然のことながらその使命が三余先生の教えの外にあるはずはない」
彼のこの確信は不動のものであり、決して揺らぐことはなかった。
「先生が私や塾生に伝えようとした最も大切な教え、それは何であったのであろうか?」
大樹タブノキの根元に腰を下ろした彼の脳裏に、やや野太い声で熱く訥々と語る三余先生の声が甦っていた。
「昔から百姓に対する侍の見下しと差別には許し難いものがありました。今も変わっておりません。士が貴くて農が賎しいという理屈はなく、人の天分・身分に上下の差などあるはずがないのにです。いいですか。農が拠って立つこの天地大自然は無を有と成し、小を大と成す無限の宝庫であり、これに勝る天恵はありません。ゆえに農こそは国の大本なりとは古来より繰り返し語られて来た哲理です。がしかしこの哲理を農が自らのものとし、自らの哲理として主張し、実行したことがあったでしょうか。ありません。一度としてありませんでした。農戸百姓の子弟もまた哲理を究め、礼節を学び、誇りを持ち、そう、誇りを持ってその器を大成させ、己の天分天職を極め、全うせねばなりません。国と祖国と国民の為に至誠を尽くさねばならないのです。わたしが諸君に願うのはただそのことだけです」
勉三もまた遥か昔に刀を捨てて帰農した己の一族の歴史︱農としての生き様に誇りを抱き、自身もあくまで農として生きる覚悟であった。
戦国争乱の時代、戦に破れた数多の武将一族が格好の「隠れ里」だったこの伊豆奥地に密かに落ち延びて来た。依田一族もまたその一つであった。伊豆依田家は信濃源氏・木曾義仲の流れを汲み、信州佐久依田ノ庄を出て甲斐武田の家臣となり、駿河の城に立て籠もって家康と対峙。天正十年に武田勝頼が天目山に敗れるや、伊豆依田家の始祖依田正房・正義父子は江尻城(現清水市内)を逃れて豆州の奥地大沢へと落ち延び、やがて帰農してこの地を拓いたのである。以来二百八十余年、この地に土着し、農民としてこの地を愛郷の地となし、その繁栄に心を尽くして来た。
もっとも依田家は農家とはいえ代々の名主であり、土地持ちの地主であり、豊かな豪農ではあった。が、勉三はそうした地位・財産には何の関心も無く、ただ自らの出自が農であることを誇りとし、自らが農民であることを片時も忘れなかった。
「農として誠の道を歩む︱その覚悟はできている。問題はこのような時代、農を出自とするおのれが果たすべき使命とは具体的には何か、おのれに与えられた天職とはいったい何か、ということだ。先生はこの勉三には学者・学問の他になすべきことがあるという。一生をかけてなし遂げねばならないこととは何か。何としてもこの大問題を解決せねばならないのだ」
彼方を見詰める勉三の視線の先には松崎の海があった。しかし彼の目に映っていたのは目前の松崎の海ではなく、そこからさらに遠く広がって行く世界の海︱というより師三余が見せてくれた大きな時代の流れであり、世界地図であった。
「宣長先生の〝一君万民〟の教え、蘭学者が伝える西洋の〝万民平等〟は時の流れです。いずれは士農工商などという身分違えの旧制は崩れ、四民平等の世がやって来て新しい国造りが始まるでしょう。日本にも農が農として独立自尊の志をもって立ち、世に羽ばたいていかねばならない時代が必ずやって来るはず。今こそその時に備えて一所懸命に励まねばならぬのです」
師は新しい時代の到来をはっきりと告げていた。
「いつか外へ、江戸へ、更に国の外へ出て行こう。行かねばならぬ。激動する今日の時勢に触れ、もっと広い世界を見、見聞を広め、先生がこの勉三に果たさせようとした使命を見つけ、必ず先生の期待に応えて見せよう」
真夏日の昼下がり、伊豆の片田舎の片隅で、農に生きんとする名もない一人の若者の新しい旅立ちが、今始まろうとしていた。
かつてこの山頂を訪れた三余が、「成長は遅くとも着実に伸びて大木となる故に」と名づけた〝大器晩成〟の大樹タブノキが、武者震いするこの若者の頭上でゆっくりと風に揺れていた。
第二章 三余先生
(1)
勉三が父善右衛門・母ブンの三男として山峡の地豆州(伊豆)大沢村に生まれたのは嘉永六年(一八五三年・維新の十四年前)の五月十五日、初夏の緑薫る美しい季節であった。
その勉三誕生から一ヶ月後の六月、ペリーが黒船に乗って浦賀に来航し、日本中が騒然たる空気に包まれた。人は誰もその時代や環境を選んでこの世に生まれてくる事はできない。偶然この時代のこの環境の下に生まれ落ちる。そして過去の歴史の集産物としての今という時代の環境の中で育ち、その時代の空気を吸い、その時代に鍛えられ、その時代の独特の色に染め上げられていく。まさしく人は全て〝時代の子〟と言えよう。
勉三が生まれた時代を見ておこう。
この時代、欧米列強の黒船の群れが、〝植民地獲得の野望〟と〝産業革命申し子の蒸気機関〟とを両輪に、アジアの海と日本近海をわが物顔に徘徊していた。
「大併呑国」と称された大英帝国は既にインド国をわが占有物となし、シンガポール・マラッカを占領し、さらにアヘン戦争で清国を破って香港を割譲させていた。北からは南下策の軍事大国ロシアが押し寄せている。列強各国が「極東の宝石」と謳われた日本を虎視眈々と狙っていて、事情に通じた多くの識者・愛国志士の心胆を寒からしめていたのである。
列強大国が頑なに鎖国を守る徳川幕藩体制下の日本めがけて押し寄せる中、嘉永六年六月三日、「英仏露に負けじ」とやって来た米国東インド艦隊司令官ペリーが、黒煙吐く軍艦四隻を率いて浦賀港に入航し、江戸城に洋式大砲を向け、幕府に開国を迫った。
近代文明で武装した〝黒船四杯〟の衝撃により、神君家康以来二百六十年続いてきた「泰平の夢」は、いとも簡単に打ち砕かれた。この事件が、「軍艦四杯」に「茶四杯」を懸けて「たった四杯で夜も眠れず」と揶揄されたことはあまりにも有名な話である。
あくまでも鎖国を守り、家康公以来の旧体制(徳川幕藩体制)を維持し、伝統的武備をもって国防に当たるのか。あるいは、西洋の文明と技術を取り入れた新しい体制(近代的国家体制)を作り上げ、海防と国防を強化して国の独立を守り、殖産興業・富国強兵を図って欧米列強に抗していくのか。日本の輿論はいずれの道を行くのかを巡って沸きに沸いた。
そして、勉三が生まれた翌年の安政元年一月、七隻の軍艦を率いて再び来航したペリーが神奈川沖から江戸湾に臨むと、ついに幕府は恐る恐る鎖国の禁を破り、下田・箱館の二港を諸外国に開いた。以後徳川の天下は「尊皇」「倒幕」「開国」「鎖国」「攘夷」を巡り、狂乱と恐慌に包まれていくことになる。
まさに世の流れ、時の流れは「封建の江戸」から「近代文明開化の明治」へと大転換を遂げていこうとしていた。勉三が生まれ育った時代とはまさにそのような動乱維新の時代である。
しかも、ペリーとその黒い艦隊が入港し、ハリスが領事館を開いた下田港は、勉三が生まれ育った大沢村から歩いてわずか一刻(現在の二時間余)ばかりの地にあり、山一つ越えればそこはハリスのいる下田であった。
当時伊豆下田港は江戸へ向かう廻船の要路であり、近海を帆走する船の風待ち港として重要な役割を果たしていた。この下田開港は、江戸湾入口に位置する江戸防衛要衝の地であった横須賀港の開港を避けたいとする幕府苦慮の結果であった。
当然のことながら、太平洋の彼方から上陸して来た眩いばかりの西洋文明は、三余塾や依田家のあった伊豆山峡の村々にも新しい風となって吹き込んだ。依田家に真っ先に新文明の香りをもたらしたのは長兄清二郎(後の佐二平)である。いつの時代にあっても若者は鋭く時代の流れを見抜き、本能的に古臭い因習・制度からの自由を求めていて、微かな新風にも敏感に反応するものである。
三余先生はアメリカ領事館が開かれると、早速門弟の清二郎十一歳を連れて下田に向かった。黒船を見学し、直接異人と交流し、鉛筆・画用紙・ガラス瓶などの珍品を手に入れた。それだけでなく、清二郎に鉛筆と画用紙を与え、黒船を写生させた。三余は後に自らも横文字の練習を始めている程異国文化に強い興味を持っていた。もっともこうした三余先生の行動も当時の下田においてはそれ程「特異」と見られることはなかった。
領事ハリスも他の異国の訪問者も皆下田の住民に接し、一様に目を瞠った。
「この国の人民は決して豊かな生活を送っているようには見えないが、皆清潔で、素朴で、楽しそうに暮らしている。その上大人も子供も男も女も皆好奇心に溢れ、異国人に対して臆する所がなく、友好的で、交際を好み、よく笑い、実に親切である」と。
勿論当時の日本は、地方によっては一揆や打ち壊しが頻発している所もあり、決して日本人民皆が「楽しそうに暮らしていた」わけではない。彼ら異国人訪問者は、既に弱肉強食たる資本主義の導入によって悲惨な境遇に陥っていた欧米労働者の悲惨な群れを目の当たりにしていた。それ故に「日本の多くの下層階級は貧しくはあっても人間らしさと好奇心に溢れている」事実に驚かされ、感動したのである。
その下田港から帰った夜、清二郎は四歳になったばかりの勉三を捉まえ、興奮気味にその日の体験を語った。そして、マストに日の丸を翻らせた黒船のスケッチを見せ、師三余の「いずれ日本の港から異国に向かって日本の黒船が出航していく日が必ず来る。お前さん方はその日に備えてしっかり学んでおかねばならないのだよ」との言葉を熱く語った。
勉三はわくわくする気持ちと同時に、何か身が引き締るような気持ちに襲われていた。そして強く願った、早く塾に入り三余先生の教えを受けたい、と。
(2)
安政六年(一八五九年)五月半ばの吉日︱
七歳の誕生祝を迎えたばかりの勉三は、羽織袴で正装した大沢村名主・父依田善右衛門に手を引かれ、初めて三余塾の門を潜った。
勉三の父善右衛門は松崎の依田分家塗り屋から養子に入った人で「堅実を絵に描いたような」というのが専らの評判であった。三余夫人のミヨとは実の姉弟関係にあり、その縁で当然の事ながら三余の土屋家とは頻繁な行き来があった。
「わざわざ吉日を選び、他所行きの着物まで着て行くなんてなんと大げさな…。塾に入るということはそれほどの大事なことなのか!」
子供心にもこの入門が人生の大きな節目になるのだということが重々伝わって来た。子供の入門に際してはどこの父兄も皆他所行きの着物を着込んでやって来るのであるが、ここまできちんと正装して来る例はあまりない。
土屋家の母屋の裏にあった真新しい塾舎の玄関を入ると横長に広い上がり口があり、その先に三十畳もあろうかという講堂兼食堂が広がっている。優に四十人は座れそうだ。一番奥に箱膳を重ねた棚があった。左右には八畳敷の四つの学習部屋兼寝室と、塾頭・当番用の小部屋が並んでいた。部屋の隅に積まれた寝具は薄い敷布団と小さい夜着のみだ。それまでの塾のあり方とは全く異なる「耕学両立・師弟同居・全員寄宿」の新しい形の塾、それが三余塾であった。
塾舎は新しく建てられたばかりである。もっとも新塾舎完成間近の一昨年秋、大暴風に遭い、一度は全壊させられるという憂き目に遭っていて、再度建て直しされたものだった。そうした天災をものともしないミヨ夫人の“内助の大功”を得て直ちに再建に立ち上がり、今日を迎えていた。
この日、塾生は皆農事に出ているらしく、中は閑散としていた。当番生が一人残っていて先生への取次ぎと案内役を引き受けていた。
広い講堂兼食堂の右側の並びの一番奥に三余先生専用の部屋があった。父善右衛門は先生と日頃の無沙汰を詫びる挨拶を取り交わした後、
「これが勉三です。何卒、清二郎同様、よろしくお願い致します」
と、深々と頭を下げた。その脇で勉三も体をこわばらせ、ぎこちなく頭を下げた。
「確かに、お預かり致しました。勉三君の勉の字は“人の及ばぬことも努め励む”というのがその字義です。どうかその名に恥じないように勉学に勤しんで下さい」
勉三は、そう語る三余先生の眼差しの強さに圧倒された。そして反射的に再度額を畳に擦り付けながら〝人の及ばぬことも努め励む〟という名前に恥じない人間になろうと、心に固く誓った。
着古した洗いざらしの袷と袴に身を包んだ師は勉三の顔をひたと見詰め、丁寧に頭を下げた。そこには以前に嗅いだことのある親戚同士の馴れ合った空気は微塵も流れていなかった。勉三は三余先生のそのあまりに丁寧な言葉遣いと所作に驚きを禁じ得なかった。何か急に自分が大人になったかのような気がして、あらためて己の身を正さずにおれなかった。
一通り入門挨拶が終わると、三余は当番生が持って来たお茶を善右衛門に勧め、自分もゆっくりと口に運びながら、一転して今度は柔和な顔で、
「随分大きくなったものだね。明日の郷土、明日の日本に光が射すかどうか、全ては君たち青年の肩にかかっているのだ。怠ることなくしっかりと学んでいってもらいたい」
と、つくづく勉三を眺めた。
三余は、久しぶりに会う眉目の美しいこの若者に、彼をひたと見詰めるその眼差しの奥に、一途でひた向きな性向を見出し、ふと遠い若き日の自分を思い起こしていた。
勉三は先程とはうって変わった、いかにも農夫然とした師三余の、その茫洋たる顔と慈愛をたたえた微笑みにフッと緊張がほぐれ、不思議な安堵感に包まれた。これが「師三余」と「門下生勉三」の初めての出会いであった。
先生と父親が世間話を始め、勉三はようやく落ち着いて部屋の中を見渡すことができた。先生の背の後ろにも、対面している自分の後ろにも、山のような本が崩れんばかりに所狭しと積まれている。そう言えば、幾分黴臭い本の臭いが部屋中に漂っている。勉三などは知る由もないことであったが、三余の手元には、史記から元史までの中国歴代の史書二十一史が全部揃っていた。これらは田舎には滅多にない大変珍しい蔵書で、「中村の大屋の宝物」と言われた程のものであった。
「村の衆が『三余先生は本を買いすぎて家産を傾けた』と噂するのを耳にしたことがあったが、本当のことだったのだ」
勉三はこの本の山に、というよりそこに籠もっていた師三余の学問に対する溢れんばかりの情熱に圧倒された。
勉三が三余先生の薫陶下にあったのは、この入門の日から慶應元年末に三余塾の看板が下ろされる日まで︱すなわち七歳から十四歳までの僅か七年間である。
その七年が勉三の一生を決めた。
「三つ子の魂百までも」という俗諺がある。また「大いなる思想・精神・観念が人の心や魂を強く捉えるや、それは巨大な物質力に転じ、大いなる行動力を生ぜしむ」という名言がある。確かに、幼少期に受けた思想的・精神的影響がその人間の一生を左右したという例は歴史上少なくない。
いずれにせよ、勉三は父に連れられてこの三余塾への入門を果たした日の喜びと感激を、生涯忘れることがなかった。
(3)
ここで、勉三に決定的な影響を与えた三余の人となりについて少し立ち入って語っておこう。
「書を読むはまさに三余をもってすべし。冬は歳の余り、夜は日の余り、雨は時の余りなり」
中国の史書『魏略』に記された故事の一節である。西伊豆の草深い片田舎に開かれた学塾︱三余塾の師「土屋三余」の名はこの故事に由来している。
昔、魏の国に董遇という人がいた。長じて大司農(財務大臣)という高官に上り詰めた人物である。若い頃、実直にして学を好んだ彼は兄と共に農事に励みながら、少しでも仕事の手が空き、閑が余るとすぐに読書に没頭した。官職に就いてからも学問をよくしたので、周囲から「教えて欲しい」と請われることが多かった。そんな時、董遇は直ぐにはその申し出を引き受けようとせずこう答えた。「必ずまず読むべし。読書百遍おのずから義あらわる」と。教えを請うた人々は大抵こう言い返した。「私はそんなに読書をするだけの時間がないので苦しんでいるのです」と。その時、董遇は冒頭の言葉を以って人々を諭した。
土屋三余はこの故事を好み、座右の銘とし、自らの号としたのである。
勉三や門下生に多大な影響を与えた土屋三余︱本名は宗三郎、伊豆中村の大屋(庄屋)土屋家の十二代目として文化十二年(維新の五十四年前)に生まれている。六歳で父を、八歳で母を失い、たった一人残され、母方の実家斉藤家に引き取られた。養家の主は少年の学問好きを見込み、地元にある寺小屋︱浄観寺和尚本多正観の開く寺塾に通わせた。和尚は村の鉄砲鍛冶が出自で、京の本寺で学んだ後、琉球イグサ栽培の技法を持って故郷に帰り、これを広め、郷土に尽くした逸材である。この師の下で宗三郎の学問は、周囲が目を瞠るほどに進歩を遂げた。
彼の性格をよく物語る、また後の三余塾誕生の原点ともなった興味深いエピソードがある。
宗三郎十二歳のある夏の日︱
雨模様の夕暮れ時のことであった。イグサの大束を背負って帰りを急ぐ老百姓の後を追っていた宗三郎は、陣屋侍の突然の「道を開けろ!」の怒声に驚き、その老百姓もろ共、ものの見事に道端の田溝に転げ落ちた。陣屋侍は後ろを振り向きもせず、傲然とその場を走り去って行った。
腸の煮え返るような悔しさを覚えて憤る宗三郎をよそに、老百姓も養家の主も「掛川陣屋侍相手ではどうしようもない」と、ただ諦めるばかりであった。
この事件以来、彼は深く考え込むようになった。
︱なぜ武士のこのような横暴が許されるのか。何ゆえに士が貴く農が賎しいとされるのか。天下を天下たらしめ、これを支えているのは古来百姓農民に他ならないではないか。その百姓農民がなぜこのような惨めな扱いを受けねばならないのだ。百姓は武士に対してなぜあんなにも卑屈に振る舞うのだ。なぜ牛馬のように黙って言われるがままなのか、と。
この彼の深刻な問いに師の浄感寺和尚はこう答えた。
「それは百姓に学問がないからなのじゃ」と。
彼の脳裏に「農たる者の誇り、将たる者の務めを忘るな」との家伝の教えが浮かんだ。彼はこの時「百姓農民の為の学塾」の開設を決意する。
元々土屋家の先祖は伊豆一帯の支配者小田原北條氏に仕えた郷侍(農村に土着した武士)であった。その二代目は小田原征伐を行なった豊臣軍の蛮行を目の辺りにし、武士の世界につくづく嫌気がさした。それで小田原城陥落後、腰の大小を投げ捨て、中村の農となって土着し、後に近隣十ヶ村の名主となり、村々の守護に尽くすようになったのである。宗三郎が心に刻んでいた家伝の教えとはこの二代目に由来するものであった。
「士が貴く農が賎しいなどということはない。天下国家を根本から支えているのは古来勤労者たる百姓農民ではないか」―この十二歳の夏の体験によって刻まれた覚悟こそが宗三郎を支える根本精神となり、三余塾開設の原点となり、やがて勉三らに引き継がれていくのである。
開塾を決意した宗三郎は、十七歳の春、江戸遊学に上り、九年の間学問に打ち込む。彼が江戸で過ごした天保期はまさに「内憂外患」の大混迷の渦中にあり、徳川の時代が大きく変化し崩壊していく兆しが見え始めていた頃である。それは「歴史の曲がり角」に位置する激動期に他ならなかった。
この頃、相次いで冷害・飢饉が発生する。その惨状に対して全く無策無能の幕府・藩政、これを糾弾する「大塩平八郎の乱」や「三河加茂一揆」等々の一揆・打ち壊しの頻発。また開国を求めて押し寄せる欧米列強やロシア帝国、危機を訴える開明派の台頭。こうした事態に恐怖した幕府は力で民衆を抑え付け、鎖国を固守し、右往左往を繰り返すばかりであった。
苛斂誅求(税金を厳しく取り立てること)への反抗、海防・国防を巡る抗争が頻発し、二百五十年余続いた「徳川の天下」が大きく傾き始めていた。
更にこの天保期に徳川幕藩体制を根底から揺り動かす大事件が起こる。「モリソン号砲撃」と「蛮社の獄」がそれである。鎖国令の下、「異国船打ち払い令」を厳守する浦賀奉行が日本人漂流民を護送して浦賀沖にやってきた米国のモリソン号を砲撃するという不祥事が起こり、幕府の鎖国主義への批判が一気に火を噴いた。これに対して、幕府は鎖国政策を激しく批判する蛮社の蘭学者たちに容赦のない弾圧を加えた。「蛮社の獄」である。彼らは密かに「開国」を論じ、『三国通覧図説』や『海国兵談』等の著作を通じて早くから欧州列強とロシア帝国の「植民地化政策」に警鐘を鳴らし、海防の重要性を説いていた林子平や蒲生君平らを擁護していた。「モリソン号事件」についても頑迷固陋の幕府を厳しく批判していた。
この「蛮社の獄」によって〝時代の危機〟は一気に白日の下に晒される。いつの時代においても、こうした世の中の危機に鋭く反応し、目覚め、立ち上がって行くのは若者である。当然のことながら若き宗三郎もまたこうした時勢に揉まれ、学友たちと切磋琢磨し、新しい思潮に目覚めていった。
宗三郎が特に親しく交わったのは六歳上の塩谷宕陰であった。勤皇思想と尊皇攘夷の魁たる高山彦九郎に敬服し、「余は士にして儒に非ず」(自分は行動する人であって学問をするだけの人間ではない)と豪語した江戸の人である。農の出自を誇り、大いなる気概をもって学問に取り組んでいた骨太の宗三郎が気に入ったらしく、各方面に引き回してくれた。
宕陰の顔の広さは当代随一で、宗三郎が諸国の有能の士︱安井息軒、芳野金陵、松本奎堂、小倉鯤堂らと深く交わることが出来たのは彼の手引きに拠っていた。
宕陰は後に『阿芙蓉彙聞』を著し、アヘン戦争におけるイギリス帝国の中国侵略・香港占領の非道極まりない実態を伝え、天下の憂国の士や宗三郎に強い影響を与えている。
また宗三郎は、江戸の和学塾に学んでいた一時期、勝海舟と席を並べたことがあった。ある日、
海舟と二人、熱中して時勢を語り合う機会があった。この時、「草莽すなわち百姓町民、人民のことを忘れては将軍の御世も天皇の御世もあったものでない」「処世の大事は無私献身・誠心誠意をもって祖国と人民に尽くすにあり」という一念において互いに深く共感し合ったことを、宗三郎は終生忘れることがなかった。
「時勢が人を造るのだ」︱これは海舟が好んでよく使った言葉である。確かに時代はその時代が必要とする人物を造る。その時代に生きる人々は多かれ少なかれ時勢によって鍛えられ、時代が生んだ様々な思想家や書物などから学び、その持てる能力に応じて自己を造って行く。そしてまた時代はそのようにして自らが造り出した人物を通じて新しい時代を切り開いていく。
幕末といういわば民族と国家が危機に瀕した時代が、先進的で革命的な救国の志士︱勝海舟、佐久間象山、横井小楠、平野國臣、吉田松陰、西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作、大久保利通、黒田清隆、あるいは福沢諭吉・大隈重信といった人物を生み出し、やがて彼らを先導者として時代の根本的転換を成し遂げていくのである。
故郷の伊豆中村に帰った後も、三余は尊皇討幕派の志士たちと深い親交を重ねた。後に天誅組総裁となり、幕府大軍によってその倒幕決起を大和国十津川(現在の奈良県十津川村)山中に壊滅させられ、壮絶な敗死を遂げた松本奎堂。吉田松陰と懇意で、下田における「松陰密航事件」の周辺でこれを支え、密かに現地斡旋に動いた小倉鯤堂。彼らはいわば幕藩体制の変革を目指した維新革命家であった。当然、彼らと深い交わりを持っていた三余もまた幕藩体制の厳しい批判者、改革者の一人であった。
しかしながら彼自身は、ついに倒幕政治運動に参加することなく一線を画していた。三余塾の傾向は政治志向の強い松陰の松下村塾などとは異なっていた。この点で、むしろ緒方洪庵の率いる適塾に近い。勉三が適塾門下生福沢諭吉創設の慶應義塾に学んだことや、開拓事業において政治方面にやや距離を置いた理由の一端もこの辺にあった。
幕末から維新にかけて、草莽すなわち民百姓が明確な政治意識をもって倒幕運動に決起したという例は決して多くはない。長州藩の奇兵隊などの諸隊、北相馬の赤報隊など数えるほどの例しかない。三余畏友である松本奎堂の天誅組の下に戦った十津川農民も大半は郷士の出であって、農民兵とは言い難い。しかもこれらに加わって戦った農民町民兵は最後には皆官軍・新政府に切り捨てられ、惨めな結末を遂げている。
幕末混乱期に、相次ぐ物価高騰・重税・軍役・軍用金に耐えかねて起こされた打ち壊しや各地の一揆も、「ええじゃないか」の一大乱舞も、幕府と封建制度の土台石を揺るがせはしたが、ついに倒幕に向かって蜂起するまでには至らなかった。
徳川幕藩体制下で呻吟する圧倒的多数の農民町民の代表者となって、倒幕運動を直接担った根幹の力は、「百時御一新」「万民苦救済」を掲げた薩長土肥を中心とする数多の下級武士団であり、三井・住友・鴻池などの大商人であった。
奥伊豆界隈の村の百姓衆も、下田周辺に吹いていた風︱即ち将軍家の世が終わって新しい世が開かれていくという「維新の風」を十分肌に感じてはいたが、相変わらず日々の農事に勤しんでいたのである。
理屈はともあれ秀吉の刀狩から既に二百数十年余が経ち、今更刀や槍を持って世直しに立ち上がろうなどとは思いもよらなかった、というのが実情であった。「維新放伐(徳を失った君主の討伐と御一新)は士分の仕事」というのが農村庶民の一般的な感じ方であった。
これが幕末日本の農民の置かれた状況であり、そこに歴史の発展段階があった。歴史は常に一直線にばかり進むものではない。様々な制約は不可避であり、紆余曲折を経て、あれこれの経験を積みながら、一歩一歩前進して行くのを常とする。
三余はあくまでも農の世界にとどまり、あくまでも農の中から、新しい明日の農を担う人材を育てることを自らの使命としていた。「農たる誇りを決して忘れることなく、農もまた農として世の為人の為に尽くさねばならない」︱三余が勉三始め若き門下生に説いた教えはただこの一事にあった。ここに三余の三余たる所以があり、三余塾が日本の近代史に占めた独特の位置があった。
(4)
三余先生の教授方法、塾生の修業方法とは一体どんなものであったのか︱
三余塾へ入門してしばらくの間、勉三の毎日は緊張の連続であった。が、塾頭を務めていた兄清二郎の助けもあり、やがて三余塾独特の生活スタイルにも馴染み、「徳行」の札が掛かった部屋の同年輩の五、六人の仲間ともすぐに打ち解けることができた。
この塾では風呂を立てるのは月三回だけであったが、驚いたことに一番年少の者から使い、順次年長の者に及び、最後に先生が入った。当時の常識では全く考えられないことで、入門当初一番風呂に入れられた勉三は落ち着いて湯に浸かることができず、早々に飛び出し、先輩塾生の笑いを誘ったことである。
風呂の順番もさることながら、勉三が更に驚いたことは、三余先生が全ての塾生を「さん」付けで呼んだことだ。このことは当時の長幼の序の厳しい封建の世では特筆に価する。そこには塾生を自分と同じ一個の人間として尊重し、深い愛情と信頼と厳格さをもって導かんとする三余の強烈な人間主義があった。
更にまた炊事もすべて先生がこれを行なった。一汁一菜が原則で、質素この上もない。時にはアクの抜かれていない蕗や山菜が出てきたり、腸を抜いていない鮒が汁に入ったりと、塾生は皆その不味さに大いに閉口した。が、先生は全く意に介する風もなかった。ただ、食事には袴着用が義務付けられ、礼儀と姿勢を正しくし、食と農に感謝を捧げてから箸を取らねばならなかった。
塾の維持費は金ある者が納めた月俸(月謝)、物ある者が納めた米・麦・野菜・魚・山菜、塾生の産する穀物・野菜等によって賄われ、不足は先生がこれを補充した。
月謝は特に決まっていたわけでなく、父兄の意のままで、「これは孔子も取られたから」と入門料だけは受け取ったが、それ以外に謝礼を求めることはなかった。
「塾生の産する」とは先生・塾生とも必ず割り当ての田畑を持ち、各自が責任を持って耕作し、収穫を計ることになっていた穀物や野菜のことである。
また塾生は朝起きるといっせいに三余作詞の「姑息吟」「莫懶歌」というものを唱和し、朝の勤めを果たすことになっていた。四章八十字からなる「姑息吟」は、姑息すなわち一時逃れを排し、日々休むことなく学問に勉めよと謳い、五章百字からなる「莫懶歌」は、懶ることすなわち怠けることなく、早起き、清掃、音読、敬人、忠孝、学問に努め、恕(人への思いやり)を厚くせよ、と謳っていた。「姑息と怠惰」は三余の最も嫌ったことで、勉三は生涯この教えを厳守したが、その厳しさが時として彼を必要以上に孤高の存在たらしめたと言えなくもない。
毎日早朝、若者達がこれらの詞を唱和し、経書(儒学の経典・教科書)を勢いよく音読する大きな声が辺りの山峡に木魂し、村人の朝を弾ませた。
先生の講義は日本国史における実例を引き、それを儒学における哲理によって深めるというもので、空理空論を排し、何よりも哲理の実践を求めた。しかも先生は儒学に潜む「身分差別」︱士族中心主義を排し、「農もまた士の志を持って学べ」という主義であった。
がしかし、先生は決して謹厳実直ばかりの人ではなかった。夕食時には酒を楽しみ、塾生に作詩を勧め、共に吟じ、和気藹々と過ごした。天気のよい日は野外に出て学び、若い塾生達が裏の「ころげ場」と呼ぶ堀水の土手の上で押し合いへし合いして戯れる様を笑って眺めていた。毎月天満宮祭礼の日の前後は休息日とされ、四、五日家に帰ることも許されていた。
勉三ら塾生はこうして常に先生と起居を共にし、身近な先生を範として礼節を学び、先生の講ずる史学・儒学から時代の先頭に立つ者としての心得と哲理を学び、集団的共同生活の中でお互いに助け合い、切磋琢磨し合い、その見識を深めていったのである。
(5)
勉三の親友であった塾生伊助の存在が三余塾の性格を実によく物語っていた。
勉三入門二年目の夏、「柄在の伊助」が、三余塾にやって来て、時々「無名窟」に寝泊りしながら勉学に打ち込むようになった。無名窟は塾舎の一番奥にあり、家が貧しく時折にしか学びに来られない者、晩学・学習遅滞者のための宿泊兼学習部屋だった。
「柄在」というのは「小作水呑み百姓」のこの地方独特の呼び名である。これらの家はどこも貧しく、子供も朝から晩まで家の手伝いに駆りだされ、とても勉学どころではなかった。実際、三余塾の門下生もそのほとんどが土地持ちの本百姓の子弟か商家や職人の子弟であった。
伊助を塾に入れたのは三余先生だった。たまたま畑の土に棒で熱心に「いろは」を練習している伊助の姿が目に留まり、雨の日や仕事が早く終わった夕べは塾に来させるよう、父親に掛け合ってくれたのだ。勿論月謝など不要ということであったが、伊助は仕事の帰りに茸・山菜・木の実などを沢山採って来ては塾の食卓を賑わせ、皆を喜ばせた。
無名窟にはたいてい五、六人が寝泊りしていたが、専らその世話に当たっていたのは塾頭の清二郎であった。偉丈夫で、学問に優れ、人望も厚く、いささかも偉ぶったところのない清二郎は皆に頼りにされていて、うってつけの塾頭であった。卑屈になりがちな無名窟の門下生達も彼の優しい人柄に触れ、すぐに懐いた。特に伊助は自分のような者を「伊助さん」と呼び、勉学だけでなくあらゆる面で細やかに気遣ってくれたこの塾頭を崇めんばかりに敬っていた。
その塾頭の弟で同い年ということもあってか、勉三と伊助はすぐに親しい友達になった。きっかけは、身体の汚れに気後れし入浴を遠慮していた伊助を、勉三が根気よく誘い続け、ついに一緒に風呂桶に飛び込んだことにあった。
「伊助さん、あんたの身体の汚れは野良の仕事の汗と泥、武士でいえば戦場で浴びた返り血、百姓の勲章のようなものだ。なんで恥ずかしがることがある!」
という、勉三の叱責にも似た忠告の言が、伊助の頑な「身分意識」を打ち砕いたのである。
その伊助の居た無名窟の塾生たちが三余先生の下で担当農事として養蚕に当たることになり、これに清二郎・勉三が協力することになった。
先生の話では、今でもこの地域に自生の桑の木が見られるが、昔はこの辺りでも盛んに養蚕が行なわれていたというのである。大沢村の依田家の裏山にある大きな桑の木はその頃の名残だという。結局、蚕の養育が難しく、収穫が安定しないため、いつしか携わる家がなくなってしまったらしい。だが今でも大沢の奥地の山家では、僅かな年寄りが自家用にと蚕を飼い、糸を紡いでいた。
三余先生が養蚕に目を向けた切っ掛けは、江戸の友人から貰った便りに書かれていた、「異国人は日本の繭を大いに好み、高値で買い取っている。繭こそは日本の国を富ませる金の卵だ」という一文にあった。
「今は色々な蚕種があり、この地域に合うものがあるかもしれない。あれこれの蚕種を試してみよう。うまく行けば、この地域にとっても、わが国にとっても大きな幸運をもたらす事業になるはずだ」
というのが三余の考えであった。
三余は清二郎や伊助らを山家の老婆の元に送ってその養蚕法を学ばせ、時々松崎辺りにまで足を延ばす信州の繭商人を茶呑みに誘い、必要な知識・技術を仕入れた。
無名窟には年上の者も何人か居たが、伊助のこの仕事への打ち込みようは並大抵のものではなかった。新しく手に入れた蚕種を教えられた通りに忠実に養育するために、蚕室用に改造された物置に寝泊りし、それこそ寝食を惜しんで世話をし続けた。確かに、室温や餌の時間や桑量の管理などいささかの油断も許されなかった。毎朝毎晩大沢の裏山に通い、新鮮な桑の葉を摘む作業も絶対に欠かしてはならないことであった。伊助はこれらの世話や作業を喜んで引き受けていた。
勉三と清二郎は専ら観察と記録面で彼らを支え、留守中には餌やりを手伝った。伊助らを幾分軽く見ていた塾の仲間の目もやがて一変し、自然に協力的で激励的な雰囲気が生まれていった。
ある日、勉三が、
「伊助さんにとって蚕は弟妹のようだね。いつか蚕が伊助さんを助けてくれるにちがいないよ」
と言うと、彼は激しくかぶりを振り、
「いいえ、お蚕様は私のものではありません。断じて!」
と、強く言い放った。
勉三の予測に反し、養蚕がいずれ自分の身の助けになるから、という言葉も口にしなかった。
「もし養蚕を再び興すことができれば郷土の為になり、日本国の為にもなる、先生はそうおっしゃって私たちにこの仕事を担わせてくれたのです。そんな大それたことが、この私のような柄在の貧乏ったれにできたとしたら、それはもうどんなにか……」
と、伊助は目に涙を滲ませた。
勉三は胸の奥がジーンとなり、何か熱いものが込み上げて来て伊助の顔が歪んで見えた。
「そうだ、自分たちが今ここで学んでいることはすべて郷土のため、日本国と人民のため、それが三余先生の教えだ。他の誰よりも自分自身の土地財産が欲しいはずの伊助さん…、それなのにこの俺は…」
勉三は自分の甘さ愚かさを恥じ自らを強く責めた。
この養蚕実験が二年目に入った夏、突然伊助は塾を去らねばならなくなった。父親が無理をして借りた川沿いのイグサ畑が大水に流され、借金の形にやむなく彼は京都の畳屋へ奉公に上がらねばならなくなったのである。
しかしながら、別れに際し、彼はいささかも落胆したふうを見せず、
「我が家には土地財産は何もありませんが、ここで学んだことこそ私の生涯の財産です。それに後に思い残すことは何もありませんし…」
と、笑って見せた。
伊助が尊敬措く能わざる清二郎は、彼のこの養蚕実験に込めた「世のため人の為に」という篤い志を受け止め、残った無名窟塾生と力を合わせて、この実験を最後まで必ずやり遂げることを約束してくれていた。それが伊助にとってはこの上もない餞だった。
後に京都で腕の良い畳職人となった伊助は、政府の廃仏毀釈により困窮に瀕した寺々を訪れ、その修理修復を無償で引き受けた。更には、その優れた美術的文化財的価値を訴える岡倉天心らを助け、古都に残された寺院の保護保存の為に惜しみなくその生涯を捧げている。
清二郎もまた、維新後にこの地方に早場繭を産する養蚕事業を興し、松崎を日本有数の繭の産地に仕立て上げている。言うまでもなく勉三もこの事業に加わり、よく兄を助け、三余先生と伊助ら無名窟住人の夢の実現に力を尽くした。
勉三の心の奥底に、三余先生の「農もまた私を去って郷土、国家と人民の為に尽くさねばならぬ」という教えが、伊助の思い出と共に鮮明に刻み込まれた。
(6)
勉三が三余塾門下生となって五年目、十二歳の残暑厳しい九月の出来事であった。
その日の昼下がり、勉三は自分に割り当てられた三坪ばかりの畑の水遣りにやって来て、そこでとんでもない光景を目の辺りにした。一つだけようやく実を付けた自分の畑の冬瓜の皮面一杯に、幼く拙い「へのへのもへじ」が墨黒々と悪戯書きされていたのだ。周りにいた塾生たちは一斉に笑い転げた。勉三はその光景に対しても、周囲の笑声に対しても、無性に腹が立ってならなかった。その冬瓜を自分が丹精込めて育てて来たからというだけの理由ではない。落書きそのものは幼い者の単なる悪戯で、一雨降ればすぐに消えてなくなる体のものだ。笑って見過ごそうと思えば見過ごせなくもない。
この時、怒りを禁じえなかった勉三の脳裏には先生のある言葉がそれこそ「墨黒々と」焼き付けられていた。
それは次の二句であった。
「穀菜は命の本にして、農は国の大本なり」(穀物や野菜は生命の根源的な糧であり、その種を播き、苗を育て、実を稔らせる農業こそ国家の存立を支える根本的基盤そのものである)
「天地自然は無を有と成し、小を大と成す。これ無限の天恵なり」(大自然は無即ち一個の小さな種を生長させ、有即ち多大多量の作物を稔らせる。これこそ天が人間に与えた無限の恵みであり、感謝に堪えない幸せである)
憤懣やる方ない勉三であった。
「門下生は皆、午前中の手習いで、三余先生の書を習字の手本に、この二句を熱心に学んだばかりではなかったのか。どうして皆これを笑って済ませることができるのだ!」
この騒ぎを聞きつけて三余先生がやって来た。
先生はこの光景を見ると、黙ってその場を去り、やがて羽織袴に身を正し、真っ白い濡れ手拭いを手にして戻って来た。
そして、落書きされた冬瓜の前に正座し、深々と頭を下げ、一言、
「わたくしの指導が至らず、まことに申し訳のないことを致しました」
と謝罪の言葉を述べ、手拭いで丁寧に墨を拭った。
勉三の目には心なしか先生の小さな肩が細かく震えているように見えた。
勉三はハッと弾かれたように先生の後に這いつくばり、我知らず頭を下げ、額を地に擦り付けていた。この光景を呆然とした面持ちで見ていた周りの若者たちもその場にいっせいに蹲り、額を土に付けた。
暫く後、三余は静かに立ち上がり、天を仰ぎ、声を放った。
「穀菜は命の本にして、農は国の大本なり。天地自然は無を有と成し、小を大と成す。これ無限の天恵なり」
そして諄々と諭すように若き門下生に説いた。
「この一個の冬瓜こそが生命の本であり、この一個の冬瓜を育てた農の力こそが国の糧食を賄い、人民の暮らしを支えるのです。農こそ国の大本とはそういうことです。しかも、この一個の冬瓜の玉もまた天地大自然の健やかな運行の恵みによって成ったものであり、天地大自然が生んだ偉大なる果実であり、天が人間に与えた宝珠に他なりません。疎かにして良いはずがありません」
勉三ら若き門人の目に涙が浮かんだ。
三余先生の全人格とその哲理・思想が彼らの魂を捉え、その深部に火を灯した瞬間であった。
実は勉三ら塾生の全く与り知らぬことではあったが、文久三年九月︱この出来事が起こる直前、三余の畏友たる天誅組総裁松本奎堂が「大和義挙」に敗れ、奈良十津川山中に惨死を遂げていた。
都に居た友人の小倉鯤堂からその報せを受けた日、先生は密かに一日喪に服し、見えざる「奎堂の霊」に向かい、自らの使命達成に命を懸けんとの誓いを捧げたのであった。
あたかも時代は薩長同盟密約がなり、革命維新はいよいよ倒幕蜂起に向かって突き進んでいた。維新成就の二年前︱勉三満十二歳の冬、病に倒れた先生は塾の看板をおろし、翌慶應二年七月二十四日、静かに息を引きとった。
以後四年間、勉三は伊豆の僻村にあって、兄佐二平(幼名清二郎)が自邸内に開いた大沢塾の運営を手伝いながら、いずれ「江戸」から「東京」へと呼び名の変わった首府へ出て洋学・英語を学ぶべくひたすら準備を進めていた。
第三章 新旧交錯
(1)
勉三が松崎港を船出し、亡き母ブンの弟である写真師鈴木真一の待つ神奈川横浜の港に降り立ったのは、明治三年の春、十八歳の時のことである。今回の旅の目的は「維新後の横浜や東京の様子見」にあった。維新直後の情勢は混沌としていて、到底上京して学問に打ち込むどころの話ではなさそうであった。明治二年が終わっても、新首府・東京が落ち着いたという話はついぞ伝わって来ない。そこで佐二平は一度勉三を様子見に行かせ、その後に勉三の遊学時期について相談する、ということにしたのである。もちろん兄佐二平は早くから勉三を東京遊学に出すと決めていた。勉三もまた全てにおいて佐二平の指図に従って身の処理を図ることを当然と考えていた。
長兄佐二平は、十七歳で三余塾を卒え、自邸内に大沢塾を開いた後、これを人に任せ、三年の約束で江戸表にあった大沢村地頭の旗本前田氏の役宅へ勤めに入った。
が、文久三年十月に母ブンが亡くなり、翌々年の慶應元年一月には父善右衛門も亡くなった。佐二平は急遽帰郷して家督を継ぎ、残された五人の弟と三人の妹の養育にあたらねばならなかった。
彼は、依田本家十一代目佐二平を継ぎ、松崎依田家の親戚に当たる奈倉家の娘フジを娶り、二十歳で名主に就き、早くも押しも押されもせぬ地元の名士となっていた。
地元における佐二平の高名は抜群のものがあった。当時の佐二平について、実弟で幼い時に土屋家に養子入りした土屋要が祖父や先輩から聞いた話として次のような評を伝えている。
「三余塾時代の佐二平は年長塾生の中にあって勉学無比、博覧強記(多くの書物を読み、いろいろなことをよく覚えている)、広く和漢の学を修め且つ品行方正、恭謙(慎み深くへりくだっている)をもって己を持し、明晰なる理解力と公平無私の言論は多数年長者を凌駕し、当時麒麟児と称された」
あるいは「佐二平は生まれながらにして聡明な頭脳を持ち、社会にも広く通じて全く公平無私、そのなすところは済世救民に貫かれていた。しかも社会のため人の役に立つことであれば私財を供して惜しまず、それを人に語らず、記録に残さず、当然のこととし、恩を受けた多くの人々はその崇高さに泣いて感謝した」と。
さらに「その風貌は男も女も惚れ惚れするような眉目秀麗で、しかも挙措動作が端正、自ずから威厳が具わっているも、一度笑えば三歳の童子も懐き寄るという温情を持っていた」とも。
勉三にとって依田家の全権を握るこの長兄は絶対的権威を有する戸主であり、父に代わる保護者・養育者であった。
が、それが為に兄に服従し、従順であったという訳ではない。彼はもっと幼い時から七歳年上のこの兄に対して、何か抗し難い畏敬の念、底深い依頼心を抱いていた。それ故、母親と父親の相次ぐ死は、少年の心に深い悲しみと寂しさを残し、しばらくは涙ながらに読経の日々を過ごさねばならなかったが、将来に対する不安のようなものをついぞ持つことはなかった。佐二平の力強い存在がその理由であった。
ところで依田家の者や松崎一帯の住人が「徳川様天下が終わろうとしている」という現実をその目で確かめたのはいつであったか。それは慶應四年二月、東征大総督有栖川宮を先頭に参謀西郷隆盛に率いられた官軍が江戸城を目指して三島宿を通過する際、佐二平が地方名代として呼び出され、人馬継ぎ立ての役を命じられた時であった。
佐二平は官軍が錦の御旗を押し立て、堂々と進軍する様を目の辺りにし、「徳川様天下」が終わったことを痛感した。そして「いずれ新しい時代が来る」と確信を持って語った三余先生の顔を、今更ながら思い起こさずにはおられなかった。
三島から戻った佐二平は勉三にこんなふうに言って聞かせた。
「勉三、いよいよ三余塾門下生がその使命を果たすべき時が近づいて来たようだ。いずれ維新の混乱が収まったら江戸表に出かけて行き、洋学に取り組んでみたらどうだ」
この提言を聞いて勉三が発奮したのは言うまでもない。
熊堂山山頂に立ったあの日以来、勉三の脳裡をずっと支配していたのは、師の「形見の言葉」であった。新しい時代、新しい時勢、新しい文明開化の世に触れて、早く自分の果たすべき使命・天分について具体的な方向性を探りたいと強く願っていた。しかし勉三はそれを兄に激しく訴え、性急に実現しようとは思わなかった。兄の意向を尊重し、兄の意向を踏まえるべきであり、まずは自らの内部で探求すべき課題である、と考えていたからである。
その「提言」から二年が過ぎ、いよいよ今日の「東京様子見の旅」になったのである。
勉三旅立ちの時がようやくやって来たのだ。
(2)
勉三が乗った小さな帆船が鄙びた横須賀港を過ぎ、賑やかな横浜港に近づくと、甲板に立つ勉三の眼に、マストを林立させた十数隻もの巨大な黒船の影が飛び込んで来た。
この横浜港が開かれると同時に下田港は閉鎖され、ハリスの領事館も横浜に移っていた。既に下田への黒船の往来はなくなり、こうした光景を目にすることは出来なかった。
初めて見る実物の黒船︱それは西洋文明と列強諸国を象徴するかのように威風堂々、港風景を威圧していた。
黒船のマストの頂上にはそれぞれ形と色の異なる国旗が翻っている。イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、オランダ…錦絵や浮世絵で覚えた国旗に違いなかった。
突然、乗客の一人が叫んだ。
「おい、あれは日の丸船だぞ!」
停泊中の大きなイギリス船の陰を少し小振りの黒船が滑るように走っていく。そのマストに真新しい日の丸の旗が風にはためいている。
「いつか兄さんが見せてくれた写し絵そのままだ!三余先生が言った通りの時代が来たのだ!」
あの時覚えたワクワクした気持ちが、再び勉三の胸中を駆け巡る。もちろん今のそれは、自分が新しい文明時代の到来に立ち会っているという感動からのものであり、未知の世界に憧れた幼い頃のそれとは明らかに異なっている。
更に船が港に近づくと山下・山手の居留地に建つ青・赤・白の色彩の美しい背の高い洋館の群れが目に飛び込んで来た。
勉三は既に欧米派遣の経験者である福沢諭吉が出版した『西洋事情』を繰り返し読んでおり、叔父の鈴木真一が撮った何枚もの『文明開化的風景写真』も目にしていた。したがってエキゾチックなこの風景もそれ程びっくり驚天する程のものではなかった。が、この日見た実物の数々は勉三に〝西洋文明の力〟というものを強く印象付けた。
「この文明の力が日本と日本の農をどのように変えていくのだろうか……」
不安と期待が交錯した。
「勉三、新しい日本国はどうかね」
叔父の真一が笑いながら声を掛けて来た。散切り頭にしゃれた洋服の上下がよく似合っている。
この叔父は勉三の今は亡き母親ブンのすぐ下の弟であった。ブンは乳離れもしていなかった赤子を亡くしていたこともあり、病弱気味に生まれた勉三を殊更に可愛がった。その為か真一もまた子供の頃から勉三の面倒をよく見てくれた。彼は手先が器用で、からくり人形などの玩具をよく作ってくれたものだった。
叔父真一は安政元年、十八歳の時、下田で商売を営んでいた鈴木家の婿養子に入った。ところがこの年に下田を襲った安政の大地震大津波で養家は全財産を失ってしまった。やむなく彼は他の下田商人らと共に開港直後の横浜に出て、蚕種や生糸の仲買の仕事に就いた。
そこで叔父真一は幸運にも下田出身の写真師下岡蓮杖と知り合う。蓮杖は米国領事ハリスの通辞ヒュースケンに写真術を学び、長崎の上野彦馬や函館の田本研三と共に日本の写真術の礎を築いた男で、当時既に著名な人物であった。
ちょうど商売に行き詰まっていた真一は蓮杖に弟子入りし、写真術を身に付け、今は師蓮杖の横浜本町通りにある写真館に身を置いていた。いずれは独立して自分のスタジオを開く心積りである。今のところ彼の主な仕事は外国人相手の土産品である「日本国之風景風俗彩色写真集」の作成であった。
勉三は精力的に横浜の街中を歩き回った。横浜の港町一帯はまだ「陸蒸気」も「ガス灯」も敷設されておらず、汽車路開通工事途中にあったが、珈琲・紅茶・洋菓子、洋本・洋画、仕立ての良い洋服・シャツ・ズボン、洋風馬車・自転車等々文明開化の熱気が至る所に漲っていて、刺激に満ち溢れていた。
しばらくして叔父は出張がてら勉三を新首府・東京へと案内してくれた。勉三が目にした「東京」は未だ「江戸」の装いを変えてはおらず、横浜一帯に流れていたあの華やかな「文明開化」の風もごく一部の地域だけにようやく吹き始めたばかりであった。
明治維新は革命であり、戊辰戦争によって徳川幕藩体制という旧い権力が破壊され、明治政府という新しい権力に交代した。討幕軍の「江戸城入城」と将軍徳川慶喜の「江戸城退去」はその象徴的出来事であった。
しかしながら、その後、新政府の新しい統領たる天皇が京の御所を離れて江戸城に居を定めたにもかかわらず、幾つかある城門の屋根は傷んだまま、周辺の道や建物も荒れ果てたまま放置されていた。
薩摩・長州・土佐・肥前の家臣、羽織袴や洋装軍服を纏った官軍兵士こそは、未だ戦闘の雰囲気を漲らせて路上を闊歩していたものの、大勢順応に終わった多くの藩の家臣︱士族・卒と呼ばれていた武士の多くはむっつりした顔つきをし、力なく肩を落として歩いていた。
未だ新しい「天皇の御世」に馴染みをもてない大半の「東京町民」は、不安げな眼差しで官軍と士族の群れを横目に見ながら、その日その日を生き抜くために必死に走り回っていた。
それだけでなく「明治の御代」は未だ決して安全安泰とも言えなかった。
例えば明治二年九月、長州の天才的軍略家・大村益次郎が、国民皆兵を主張し、士族をもって国家の常備軍とする案に反対したため、不満士族の反発を買って暗殺されるという事件が京都で起こっていた。また開明派福沢諭吉に対しても、「何者かが福沢を狙っている」との噂が流れ、諭吉も慶應義塾の学生たちも警戒心を強くしていた。士族の反乱の噂があちこちで生まれては消え、消えてはまた生まれていた。
地方でも藩政崩壊下で物価高と生活苦のどん底に追い込まれた町民・農民が「世直し」の暴動・蜂起を頻発させていた。
新政府はこうした士族の不満と農民の反乱が結びつくことを極度に恐れ、その対策に追われていた。
この頃流行った「明治逆から読めば治まる明」との戯れ句はこの時代の空気をよく物語っていた。
いずれにせよ、勉三がこの時目にした首府東京も、表面的にはどことなく落ち着かず、騒然としていて、行く末定まらぬ不安が町の至る所に渦巻いていた。
叔父真一は、勉三にこうした「古い東京」を見せた後、これとは全く異なる、当時形成途上にあった「新しい東京」を見せてくれた。その「新しい東京」は福沢の私塾などが立ち去った後の築地鉄砲洲にあった。そこは治外法権に守られた居留地で、この一帯には武家屋敷の家並みに混じって、教会堂、後に明治学院や青山学院に発展していくミッション・スクール、西洋ホテル、各国の外国公館が建ち始めていた。それらは、横浜港周辺に建てられた商館とは異なり、より本格的な洋館であり、欧米列強の並々ならぬ意志︱新しい政府と結合し、自らの影響下に組み入れ、あわよくばこの極東の小国を占有・支配せんとする彼らの野望をみごとに表現していた。少なくとも勉三には、そう見えた。
そんなふうに見えたのは、この居留地に隣接するように建てられていた、洋風建築に和風の海鼠壁を張り巡らした奇妙な二階建ての海軍兵学寮が目に飛び込んで来たからでもあった。それはあたかも「西洋列強に伍して独り立たん」とする新生日本の気概を示しているように見えた。
その日、叔父が何枚かの写真を撮った後に語った言葉は、その後の勉三の心の奥にいつまでも残っていた。
「私が今撮っている写真は、単に外国人に売りつけるためだけのものではないのだ。日本はこれからどんどん変わっていく。古い日本が消え、西洋化された新しい日本がたちまち日本を覆って行くだろう。だが、そうして出来上がった日本国がどのような国になるのか、誰も判ってはいないのだ。私はその古い日本と新しい日本の姿を写真としてしっかりと記録し、後世に残しておきたいのだ」
叔父が「勉三ならいつかは判ってくれるだろう」と付け加えながら語ったことはこんなふうなことだった。
蓮杖先生や叔父たちに写真の技術を教えてくれた通辞のヒュースケンは、時々溜め息交じりに、
「私が愛しく思っているこの国にとって、西洋の文明は本当に幸福をもたらすものなのか、不安に思わざるを得ないのだ。豊かで、至る所に子供たちの愉しい笑声が響いているこの幸福な情景が、いつまで続くであろうか。それらはいずれ終わりを告げ、西洋的な物質文明と競争的工業化社会は、心身ともに疲れ果てた貧困と悲惨と不品行と不衛生にまみれた、惨めな人間を生み出すことであろう。この日本にロンドンの貧民窟や香港の黄色地獄街が生じないという保証はどこにもないのだ」
と嘆くことがあったという。
世界各国を巡り歩き、世界の情報に詳しいヒュースケンには日本の行く末がありありと見えていたのであろう。
「我々は文明開化には光の部分もあれば影の部分もあるのだということを、よく知っておかねばならないのだ」
勉三がこの叔父の忠言のもつ深い意味を理解するのは、もう少し先のことである。
(3)
首府東京見学の最後の日、叔父が案内してくれた先は品川沖に近い芝新銭座にあった慶應義塾であった。勉三が今回の訪問でどうしても見ておきたかった所だ。
明治に入る五ヶ月前の慶應四年四月、福沢諭吉は築地鉄砲洲の奥平藩邸にあった自らの私塾をこの芝の新銭座に移していた。前政権の徳川幕府が築地鉄砲洲を外国人居留地に定めていて、早々に立ち退くよう迫られたためである。
福沢は維新動乱の真只中、新銭座にあった有馬藩邸を買い取り、一千両を費やして塾舎を完成させ、ここに名称も新しい「慶應義塾」を発足させた。
「英学・洋学は慶應義塾」︱この評判は既に全国に鳴り響いていて、伊豆松崎一帯にも伝わって来ていた。勉三は、三余塾ではついに学ぶことのできなかった英学・洋学を
義塾でぜひとも身につけようと心に決めていた。何よりも三余先生と同様に「封建門閥制度は親の仇」と説く福沢に強い親近感を抱き、義塾への遊学を強く望んだ。
︱これからの日本の農業や郷土の開発にあたっては、
ぜひとも西洋の農業に関する技術や知識を学ぶ必要がある。蒸気機関車や機械工業を生み出した西洋文明はきっと農業においても遥かに進んだ技術や知識を有しているに違いない。そのためにはどうしても英語・洋学を身につけねばならないのだ。
言うまでもなく佐二平も同意見だった。
義塾は品川沖に近い大名屋敷の並ぶ閑静な一角にあった。大きく墨黒々と刻まれた「慶應義塾」の門札が堂々たる武家屋敷門に掛かっていた。広々と開かれたその門を行き交う塾生たちの意気揚々たる態度、姿形が好ましかった。羽織袴に髷をつけた若者も、洋装に身を包んだ散切り頭の若者も皆一様に自信と誇りに満ちた顔つきである。
叔父は、いかにも事情通らしく、
「義塾では、上野の彰義隊に官軍が総攻撃をかけた日も、福沢先生は平然と講義を続け、僅か十数名に減ってしまった生徒を前に、〝慶應義塾がある限り日本は世界の文明国である〟と豪語されたそうだ」
と、巷に流れる噂話を聞かせてくれた。
門を潜るとすぐ脇に「入社受付所」なるものがあり、年配の受付係が座って居た。見ず知らずの若者に対するその応対は驚くほど丁重で、説明と案内は懇切丁寧を極めた。
勉三は入社規定を詳しく説明した「慶應義塾之記」という小冊子を受け取り、社を辞した。冒頭が「会社を立て義塾を創め」の言葉で始まるこの小冊子の表紙には『一身の独立なくして一国の独立なし』と記されていた。
*会社…「コーポレーション」の訳で、共同結社・公益法人の意。私塾ではなく公共的な教育機関であることを示す。生徒も社中、塾頭も社頭と呼ばれた。
勉三は自らの力で道を開き、独立を守り、外国に伍する国を建てんとするその気概に強い共感を抱いた。
「これこそが新しい時代の塾社だ。いつかきっとここで学びたいものだ」
勉三のこの決意は五年後に実現する。
勉三にとって、義塾が彼の天命・天職を明らかにしていく重要な舞台になろうとは、この時まだ、夢にも思っていない。
帰郷した勉三から新旧交錯する落ち着かない東京の様子を聞いた佐二平は、
「もうしばらくの間、東京遊学は見合わせることにしよう」
との結論を下した。
明治四年十月、新政府は廃藩置県を断行し、封建的土地制度を近代資本主義的所有制へと転換させた。これにより、佐二平は「新地主」となったが、一方ではまた廃藩置県の結果、世の中に失業士族が溢れ、不満士族の不穏な噂話が聞こえ始めた。
そんな中、佐二平は同郷の仲間と共に江奈村の旧陣屋跡に新しい学塾︱郷学謹申学舎を創設した。この学舎は漢学と英語を教える、地方にあっては画期的で先進的な学塾であった。
佐二平は近隣の青年のために、何よりも郷土のために私財を擲って三余先生が成し遂げることのできなかった外国語・洋学をも教える新しい学塾を発足させたかったのである。この時佐二平はまだ二十三歳の若さであった。
勉三はこの謹申学舎で、ある人物と出会い、「蝦夷地」改め「北海道」となった北の大地と初めて接することになる。
(4)
その謹申学舎発足半年前のこと︱
明治四年九月初め、大沢村の佐二平の元を、背丈は低く小柄だがいかにも古武士然とした一人の壮年の男が訪れた。
「保科近悳と申す者です。足柄県令の柏木忠俊様にご紹介頂き、本日お伺い致した次第です」
「お待ちしておりました。私が依田佐二平です。お話は柏木様からよく伺っております。漢学をご教授下さる方をご紹介下さるようお願いしましたのは私の方でございます。不便な田舎のこと、行き届かぬ点も多々ございましょうが、なにぶんよろしくお願い致します」
佐二平のこの挨拶にすっかり恐縮したように、保科近悳は、
「お気遣い、かたじけなく存じます」
と丁寧に頭を下げた。
そして幾分遠慮深げに、「私のことは、柏木様の方から…」
と尋ねた。
「はい。万事承知しております。ご心配はご無用に願います。こちらには会津から大島篤忠先生や他の方々にも来て頂いております故、どうか故郷にでも住まわれるおつもりで気楽にお過ごし下さい」
佐二平のこの言葉に、彼の顔はホッと緩んだ。
つい二ヶ月ほど前、近隣十八ヶ村の総戸長の役に就いた佐二平が用事で伊豆韮山の屋敷に居る柏木県令を訪れた際、県令から「また一人、預かってもらえまいか」との話があった。その「また一人」というのがこの元会津藩士保科近悳のことであった。保科近悳というのは維新後に名乗った姓名であり、会津時代は西郷頼母近悳が正式である。
西郷家は三代将軍家光の弟で会津藩祖となった保科正之の分流であり、会津きっての名門家老の家である。藩主と同じ保科を名乗ることを遠慮し、女方の西郷の姓を名乗って来たのであるが、維新後そうした遠慮も不要になり、また思うところもあってか、近悳は元の保科姓を名乗るようになっていた。
「保科様、こちらは私の弟の勉三という者で、まだ十八歳の若造でございます。いずれご教授頂くことになるかと思いますが、なにぶんよろしくお願い致します」
佐二平の横にかしこまっていた勉三はハッと我に返り、慌てて頭を下げた。
「どうかよろしくお願い致します」
勉三は先ほどからこの小柄な独特の雰囲気を持った壮年の男、初対面の保科近悳の風貌に魅了されていた。広い額とやや窪んだ鋭い大きな目、一文字に結ばれた口。いかにも戦場を飛び歩き、戦火を潜り抜けて来た武士の顔であった。だが時にふと苦渋と悲哀の表情を面に陰らせることがあった。それは勉三が今まで決して見ることのなかった顔であった。もちろんこの時、勉三は彼が元会津藩士であったということ以外に何も知らない。
「ほほぉ、十八歳にお成りですか…。私の方こそ、よろしく願います」
どこか遠いところを見るかのような、あるいは誰か懐かしい人を思い起こしているかのような、そんな眼で勉三を見詰めた。
この元会津藩士保科近悳こと西郷頼母―彼こそが、勉三と蝦夷地改め北海道となった北の大地との最初の結びつきをもたらした人物である。
いったいいかなる運命の徒があってこの伊豆奥の僻村にこの元会津藩士がやって来ることになったのか。
伊豆韮山にいた足柄県令柏木忠俊俗名総藏に「また一人、預かってもらえまいか」と頼み込んで来たのは勝海舟であった。
海舟と総蔵︱同じ年頃の二人が出会ったのは、安政二年夏、三十六歳の海舟が長崎海軍伝習生徒監の役についた頃である。総蔵は、反射炉築造、鉄砲砲術指南、海防策建議、お台場建設などを行なった開明派幕臣として名高い伊豆韮山代官江川坦庵(英龍)の江戸詰めの手代、さしずめ坦庵の秘書役であった。年の大半を韮山の屋敷に居住していた坦庵に代わって江戸藩邸のことを全て取り仕切っていたのは総蔵である。その江川代官所家臣の子弟十数人は海舟の下で海軍伝習生となって長崎に学んだ後、彼の指揮下で軍艦操練所教授方に就いていた。その後も彼らは咸臨丸乗組員として共に訪米の航海に出たり、海軍奉行海舟の下で艦長を務めたりしていた。そんな訳で、若者達の相談役であった総蔵と海舟はごく自然に親しい仲になっていた。
しかもその海舟と行動を共にしてきた江川子弟の多くが、海軍副総裁榎本武揚に付いて北の箱館に軍艦を進め、五稜郭戦争に参画しており、何人もが戦死、自決、獄死していた。総蔵は官軍に敗れ、五稜郭にまで流れて行った賊軍たる幕府方藩士の悲哀を十二分に知っており、会津藩士らにも深い同情心を抱いていた。
海舟が総蔵に「最初の頼み」を持って来たのは明治二年冬のことであった。海舟が路頭に迷った旧幕臣・士族の相談に乗っているとの噂を聞きつけ、元会津藩士大島が何か漢学の素養を生かせる仕事がないかと、就職口を頼んで来た。海舟はふと土屋三余のことを思い出し、すぐに当時松崎一帯を治めていた韮山県令の柏木忠俊に連絡を取った。
勿論柏木は三余のことをよく知っていた。それに、地域の総代戸長に任命していた依田佐二平とは顔見知りであった。三余塾門下生である佐二平の優れた見識と高潔無私の人品を高く評価し、豪農依田家の地域への影響力の大きさについてもよく知っていた。
県令柏木が相談すると、海舟と三余先生の旧交を知っていた佐二平は、即座に「ちょうど自邸内に学塾を開こうと思っていた矢先です」と、快く頼みを引き受け、翌年五月には自邸内に大沢塾を再建し、近隣の子供を集め、大島を教壇に招いたのである。三余先生亡き後、勉三もしばらくその大島の下で大沢塾の助手を務めていた。
海舟が保科近悳の件に関して、すぐに柏木︱佐二平の系列を思い浮かべ、頼みを持ち込んだのはごく自然なことであった。否、前回以上にこの密かなる系列を頼みにしなければならない特別の事情があった。
近悳︱その当時西郷頼母︱は官軍に攻められて落城寸前の会津城下を脱出し、仙台から榎本軍に合流し、五稜郭に立て籠もった。ここで最後の決戦を繰り広げ、敗れて新政府軍に降り、捕虜となった。館林藩に身柄を預けられ、半年ほどそこに幽閉されていたが一年半後に釈放され、東京で実弟の陽次郎と同居を始めていた。この弟も箱館戦争に加わり、敗れて捕虜となり、古河藩に幽閉の身となり、同じ頃釈放されて東京に出てきたのである。
この弟陽次郎が、明治三年十二月に起こった雲井龍雄事件に巻き込まれた。「士族救済」を目指した米沢藩士雲井の周りには多数の脱藩士族が集まってきていた。それが「政府転覆の陰謀」と疑われ、逮捕、投獄、斬首されるという事件に発展。陽次郎はこれに連座し、十年の刑を受けて函館の獄に送られた。
その際、同居していた近悳も事件への関与を疑われ、危うく逮捕投獄されるところであった。が、近悳の請願を受けた海舟の斡旋で長州閥の政府高官・参議広沢真臣あたりが動いてくれ、何とか濡れ衣を晴らすことができた。長州人としては珍しく広沢は会津への苛酷な処分に反対し、寛大な処置を訴えており、雲井事件のことも気にかけていた。しかし、近悳の為に動いた直後、広沢は何者かの手で暗殺された。そんな事情もあって、何とか嫌疑を免れた近悳を早く安全な土地に送り届けてやる必要があった。当時は、それ程に「賊軍会津元藩士」への警戒は厳しかったのだ。
そこで海舟はすぐに信頼のおける柏木に相談し、一番安全で安心な伊豆大沢村に近悳を預けることにしたのである。これが近悳が伊豆奥の僻村にやって来た背景である。
勉三と近悳との出会いは、幕末維新の大立者で、師三余と交流のあったこの勝海舟という人物の存在抜きにはあり得ないことであった。
明治三十四年に佐二平ら三余塾門下生が松崎に建立した三余頌徳碑は「三余土屋先生之碑」との題額で飾られており、「三余先生墓銘 従二位勲一等伯爵勝安房題額」の碑文が刻まれている。これは単なる偶然の出来事でもなければ、海舟が気まぐれに引き受けたものでもなかった。
維新後、海舟の果たした役割には独特のものがある。国家社稷安寧の為に旧幕臣・没落失業士族の保護と救済に当たる︱そのために、あらゆる地位と人脈を利用し、余生の全てを傾注すること。それが海舟という人物が自らに課した任務であった。
海舟と西郷隆盛の談判で江戸城の無血開城が実現し、慶喜と徳川家は駿府・府中静岡藩に封じられることになった。静岡藩七十万石、これでは召し抱え五千人が精一杯、そこへ一万数千の家臣が家族ともども住み慣れた江戸を引き払って静岡へと移って来た。彼らをどのように食わせていくのか。
維新後、海舟は海軍総裁などの地位を全て捨ててまず静岡に赴き、その経営に全力を注いだ。山野を拓いて茶の栽培を広めるなど様々な事業を興し、徳川家臣団の生業の道を広げた。
その後も海舟は政治の中枢舞台には加わらず、新政府がくれた官位爵位や人脈をフルに活用し、旧幕臣のみならず賊軍の敗残兵として路頭に迷った多くの失業士族の救済に全力を尽くしている。
とりわけ海舟の働きによって、多くの元会津藩士が新政府に警察官の職を得たり、静岡や徳川所縁の地に送り込まれ、その地で様々な職を得ている。松崎一帯でも、大島・保科の他にも林繁樹・山口昌隆・墨田直水等々何人もの元会津藩士が学塾師範の職を得ていた。
近悳は初めて伊豆を訪れた際、わざわざ静岡を回り、飯沼貞吉(自刃した近悳の前妻千重の兄の次男で近悳の甥)を訪ねている。彼は白虎隊の生き残りで、同郷人から「おめおめ生き残った恥さらし者」と罵声を浴び、逃れて静岡の林三郎塾に学んでいたのである。この貞吉の林塾入門も、近悳の松崎入りも、全て海舟配慮の賜物であった。
とにかく新政府は旧幕臣や不平士族の反政府的反乱の暴発を何よりも恐れ、その対策として徹底的な賊軍封じ込めを図った。敗れた賊軍各藩の旧家臣より開拓団を募集し、東北の荒蕪荒廃の地や酷寒未開の地北海道へ赴くことを命じたのもその一環であった。
実際、徳川家はさておいて、会津藩や仙台藩など新政府に敗れた東北諸藩は報復として領地没収、俸禄削減、僻地移封を命じられるなど悲惨極まりない境遇に追い込まれた。
例えば、会津藩は二十三万石の領地を奪われ、まず二百戸あまりが未開蝦夷地の小樽・余市に移住させられた。また七百戸が会津で帰農、三百戸が各地へ離散。残った二千八百戸・一万五千人が東北南部藩荒蕪の地︱斗南三万石に押し込められた。
その「斗南史」には新しい移封地に向かう道中、水の如き粥を啜り、霙に打たれても着替えさえなく、斗南を遥かに拝しながら無念の涙を飲んで死んでいく者も数多く居た、とその哀史を伝えている。
海舟も西郷隆盛も、もし旧幕臣・士族が全国各地で反乱を起こし、新政府と一戦を交えるようなことになれば、たちまち外国列強の介入を招き、日本が彼らの属国にされるという事態が生じることを何よりも恐れていた。海舟は、明治元年四月の西郷に宛てた手紙に「一家不和を生ずれば一家滅亡す。一国不和を生ずればその国滅びるべし」と書いたが、これこそ彼の真情であった。
明治末に福沢は時事新報に「痩せ我慢の説」を発表し、旧幕臣でありながら新政府の禄を食んで高位高官に昇った裏切り者として、海舟と彼の海軍操船所時代の愛弟子で五稜郭に敗れた榎本武揚の二人を挙げて痛烈に批判している。
「二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとったオポチュニストで、痩せ我慢を知らない男である」と。
これは血で血を洗うといった政争の修羅場には疎かった福沢の、的外れな俗論と言えよう。海舟の立場は福沢に返した「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず」の一言に全て言い尽くされている。
人と人の出会い︱そこには常にある必然と偶然が介在しており、そこにまた人生の妙がある。いかなる必然も偶然性を伴って現象し、偶然の背後には必ずある必然が存在する。したがって極めて偶然に思える出会いの背後にも必然と必然の交錯がある。
依田勉三という人物も保科近悳という人物も、同じく幕末・維新という時代が生み出した産物である。それぞれには陰陽の形こそ違えど時代を貫く必然性が刻印されている。そうした二つの必然が偶然に松崎という地で交錯する。その新旧二人の偶然の出会いと絡み合いの中から、それぞれの必然が新たな流れを作り出し、新たな展開を遂げていった。
十八歳の勉三が四十三歳の保科近悳と巡り会ったこの時代、勉三を支配していた必然、即ち不動の信念とは、言うまでもなく三余先生が彼に植え付けた使命︱即ち幕末維新という新しい時勢の中において「農として世のため人の為に尽くす」という使命であった。未だその果たすべき使命は具体的な形を現してはいない。が、その実現への熱い志は彼の胸の中に決して消えることなく沸々と滾っていた。勉三のこの必然が、近悳との出会いを通じて、新たな展開を見せていくのである。
明治五年三月、佐二平らの手によって江奈の陣屋跡に謹申学舎が開設された。前年十月から仮の塾舎で教えていた近悳は新しい学舎の塾長に就き、漢学を教えた。また、これも海舟の口添えがあってのことであろうが、静岡学問所から英語教授として有能な静岡藩士山川忠興がわざわざこの僻地の学舎にやって来ていた。
勉三は、佐二平の長男新四郎らと共にこの新しい学舎に入門し、漢学と英学の学習に取り組んでいく。
(5)
明治五年九月末、勤申学舎の運営が軌道に乗った頃のこと︱
横浜から叔父の鈴木真一が下田近辺の写真を撮りにやって来た。それで、謹申学舎でも記念の写真を撮ってもらうことになった。神妙な近悳を真ん中に勉三や幼い生徒ら十余名が並んだ家族的で、思わず微苦笑を誘われる写真である。まだこの辺りの田舎では写真撮影などは珍しく、近隣は大騒ぎであった。
撮影が終わった日の夜、近悳と彼の後妻キミが住んでいた古い代官屋敷に写真師の真一と勉三が招かれ、小さな酒宴が催された。
ちょうどこの時、会津戦で夫と嫁ぎ先の家族を失った近悳の妹美遠子が遊びに来ており、キミの台所仕事を手伝っていた。
この夜、近悳が酔いに任せて語った意外な話から、勉三は彼の数奇な半生について、そして北海道の持つ奇妙な魅力について初めて知ることになる。
「ところで、鈴木さんは函館の写真師で田本研造という人物をご存知ですかな?」
機嫌よく盃を傾けていた近悳のこの突然の話に、叔父の真一はびっくりして、思わず大きな声を出した。
「いったいどうして貴方が田本研造氏の名前をご存知なのですか?」
当時の写真界では西の彦馬、東の蓮杖、北の研造と呼ばれた有名な写真師で、真一もその名はよく知っていた。
田本は五稜郭で幕軍の総裁榎本武揚の肖像写真や、陸軍奉行となっていた新撰組副長土方歳三最期の肖像を撮った写真師として有名な人物であった。
真一は蓮杖の下にいた当時、箱館出の横山松三郎という人物と一緒に写真術を学んだことがあった。その松三郎は箱館に帰った時、写真師になりたての田本に新しい技術を伝授していた。真一はまだ会ったことはなかったが、田本のことはその松三郎からよく話に聞いていたのである。
近悳はすっかり真一を気に入った様子であった。どうやら彼が田本と同じ写真師だということがその理由の一つのようであった。
「そうですか、ご存知でしたか……」
そう言うと近悳は勢いよくグッと盃の酒を飲み干し、自らの半生についてゆっくり語り始めた。
勉三はこの夜初めて、保科近悳こと元会津藩家老西郷頼母四十三歳の波乱の人生を知った。何の苦労もなく育った若い勉三にとって、彼の話は衝撃以外の何ものでもなかった。そして彼の時折浮かべる苦渋と悲哀の意味するものが何であるのか、ようやく胸に落ちた。
少し長くなるが、頼母近悳と会津藩の幕末史について触れておこう。
この頼母近悳が勉三の人生に与えた影響は決して小さくなく、勉三と北海道の結びつきに頼母近悳は不思議な程深く関与しているからである。
西郷頼母︱おそらく、現代においては、幕末史ドラマのファンで、この名を知らない人はまずいないであろう。最近ではかなり有名な名前である。
が、勉三が青年時代を送った明治の初め、まだこの名はそれほど知れ渡ってはいない。その頃はまだ誰もが会津の悲劇について声高に語ることを憚っていた。「政府転覆の陰謀」「没落士族の反乱」に怯える新政府は、この種の噂話にすら神経を尖らせ、官憲に厳しく取り締まらせていたからである。
明治二十年代に至るまでは決して公に語られることのなかった戊辰会津戦争の最大の悲劇︱それが「白虎隊自決」と「西郷一族二十一人自決」であり、この後者の悲劇を演じた西郷家の当主こそが保科近悳こと西郷頼母であったのだ。
「西軍」が攻め来る中、西郷邸に残された頼母の妻千重・老母・妹・娘ら女子供十七人を含む二十一人は会津鶴ヶ城落城を知るや、当主頼母の言いつけ通り「生き恥を晒さじ」と一斉に自刃し果てるという壮絶な最期を遂げた。薩摩藩士川島信行が西郷邸に入ると、死にきれずにいた少女が微かな声で「敵か味方か」と問うので、思わず「味方だ」と答えると「これで」と自らの懐剣を差し出し、止めを懇願した。川島は涙ながらに介錯の手を下したという。
「館林藩の屋敷に置かれていた時、川島氏の話をある人が知らせてくれました。彼が介錯した女子というのは、まだ十六歳だった長女の細布子…」
近悳は慟哭を抑えかねて苦しげに喉を詰まらせた。未遠子は突っ伏し、肩を震わせて忍び泣いていた。同じ会津藩士の子女であったキミも顔を覆って台所に立ち去った。
勉三も真一も声を失い、ただ絶句するばかりであった。こうした惨たらしい血の犠牲の上に築かれた新しい時代を生きる人間の責任といったようなものが、勉三の肩に重く圧し掛かった。
「白虎隊自決のことも、一族総自決のことも本当にあったことなのですね…。勝てば官軍ということでしょうか、随分酷い噂にねじ曲げられていまして…」
真一は感に堪えないというように呟いた。巷で密かに流布されていた噂には「会津藩は卑怯にも女子供を矢面に立てて難を逃れようとした」などと中傷するものが少なからずあったからである。
「自決した妻の千重に〝生き恥を晒すな〟と言い付けたのはこの私です。その私がこうして生き恥を晒し、おめおめと生きながらえているのですから可笑しいと思われるでしょうな。生き残った家中の者は皆そんな目で私を見ております」
勉三は近悳の顔が翳り、そこにあの苦渋と悲哀が浮かぶのを見た。
「しかし、私が死に場所を誤ったのは、会津城下でもなく、いわんや五稜郭でもない。藩公の京都守護職受任の諌止が退けられ、家老の職を解かれたあの時でした。財力も底を突いていた小藩のわが国に、火中の栗を拾う力などあるはずもなかった。何か恐ろしい結末が訪れる、それだけは判っていた。民百姓のことを考えれば…、だから諫止したのだが。家老職を解かれたあの時腹を掻っ捌いておれば…。今更それを言えば愚痴になります」
近悳はそう言って目を伏せた。
会津の悲劇は藩主松平容保が幕府の命を受け、佐幕・攘夷入り乱れて争っていた京都の守護職を引き受けた時から始まったと言える。
「大君(徳川将軍家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国(他藩)の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」︱会津の藩祖保科正之が遺した家訓である。
他国はどうあれ、我が会津藩は徳川家に一心に仕え、これを守り抜かねばならぬ、との家訓である。その上に「ならぬことはならぬ」こそが藩風であった。
幕府政治総裁役の福井藩主松平春嶽と将軍後見役の一橋慶喜はこの家訓を持ち出し、容保に京都守護職受諾を迫ったのである。美濃高須藩から会津に養子に入っていた容保に拒否することなど出来るはずもなかったのだ。
一方、西郷頼母は藩祖の分流であり、何よりも会津生え抜きの武士、名門家老であった。守るべきは郷土であり、藩内の民であった。また、その血の濃さ故に逆に藩祖藩主に対する遠慮も省かれた。だからこそ正論を以って容保に諫止できたのである。
「家訓の藩主容保」と「正論の家老頼母」の行き違いは、結局会津戦争が終わるまで遂に解けることはなかった。
当時攘夷の塊であった孝明天皇の信任を得た容保は禁門の変で長州を容赦なく攻め、さらに新撰組の後ろ盾となって勤皇派志士への弾圧を強め、彼らの強い恨みを買うことになる。
やがて薩長同盟が成り、朝廷を担いだ官軍の攻勢︱戊辰戦争が始まった。江戸城を無血開城させた「西軍」は、上野山の彰義隊を片付けた後、総力を挙げ、今や朝敵となった「東軍」の拠点会津目がけて攻め寄せる。容保は朝廷に恭順の意を示すがもはや聞き入れてはもらえず、一戦を交えるしかなかった。家老職に復した頼母はなおも藩内に恭順降伏を説くが、強硬派藩士の反発と怒りを買うばかりであった。遂に会津は藩の総力を挙げた戦闘に突入することになる。
この時、幼い少年たちは白虎隊の隊士として戦闘に加わり、壮烈な自決を遂げた。会津藩の砲術師範山本家の娘八重もまた、断髪・男装して鶴ケ城籠城戦に加わり、スペンサー銃と刀を持って奮闘奮戦した。八重は後に新島譲の妻となり、夫と共に同志社大学の創立に力を尽くし、会津藩の「汚名返上」に生涯を捧げた。
頼母も総督として死力を尽くして白河城攻防戦を闘うが、及ばず敗退。重臣家老たちは追い詰められた鶴ヶ城中の軍議にて、今までとは逆に講和策を説き始めた。頼母はその無責任を怒り、今度は「総員玉砕」を献策するも容保の認めるところとならず、またもや孤立を余儀なくされた。
そして、戦に敗れて降伏を覚悟した容保は、頼母に越後口への伝令役という「軽い役」を与え、密かに会津脱出を促した。頼母を憎む重臣は刺客を放ち、彼の刺殺を謀らんとするも失敗。頼母は「必ず会津を再興せん」と誓いつつ、長子吉十郎十一歳を連れ、やはり「西軍」に反旗を翻す奥羽越列藩同盟の根拠地仙台へと逃れたのであった。
しかし既にここも瓦解の瀬戸際にあり、やむなく頼母は吉十郎を連れて江戸幕府海軍副総裁榎本武揚率いる幕軍艦隊に合流し、仙台額兵隊と共に蝦夷地箱館に向かう。そしてその開陽丸艦上で会津の降伏開城と西郷一族自刃の報を受け取るのである。己の命に従って自刃した妻子・親族を思う頼母の心情は到底筆に表せるものでなかった。太平洋の荒波を浴びながら直系継嗣の吉十郎を何としても守り抜き、一族の血を伝え、一族の名誉挽回を果たさねばならぬと、ただ固く心に誓うだけであった。
驚いたことに、この幕軍艦隊には会津で共に戦った藩主容保の実弟桑名藩主松平定敬の一行や頼母の実弟陽次郎ら二百余名の会津藩士が同行していた。榎本の率いる軍艦八隻には、会津で共に戦った新選組の副長土方歳三と隊士らもおれば、彰義隊の生き残りもおり、仙台でも二百五十余の洋式軍隊額兵隊など多くの抗戦派幕臣が乗り込んで来て、総勢二千数百名を数えていた。
慶應改め明治元年十二月、箱館を占領した榎本軍は五稜郭を本営とし、「蝦夷共和国」の創設を宣言する。その目的はあくまで「徳川家一族の一人を首長とし、困窮する徳川旧幕臣を救済し、併せて欧米露列強の進出からこの北辺の地を守るべく開拓と警備に尽くす」というものであった。
勿論、新政府が受け入れるはずがなかった。米英仏蘭伊独六ヶ国公使が「局外中立」を宣言して暗にこの共和国を承認するに至るや、新政府は官軍参謀黒田清隆に五稜郭への総攻撃を命じた。
かくして明治二年五月、五稜郭は落ち、榎本は黒田の軍門に下り、ここに徳川幕府追討の戊辰戦争は終わりを遂げる。
「役員外江差詰」として戦闘に身を投じていた頼母は「以後は如何なる理由があれ藩主容保を守りぬこう」︱この一念に自己を決した。そして彼は継嗣吉十郎の生命を守るべく、彼を密かに箱館の住人沢辺琢磨に預け、黒田軍の降伏呼びかけに応じて政府軍の捕虜となり、館林藩に幽閉され、伊豆に逃れ、今日に至っていた。
(6)
「今こうしてこの地で教授を務めさせてもらっていますが、いずれは容保公に仕えてこの命が果てることを願っているのです」
近悳はそこで言葉を切ると、叔父真一に酒を勧めながら言った。
「ところで、どうして箱館の田本研造氏をご存知かということでしたな。その話を致しましょう。ここからの話は勉三君にもよく聞いてもらいたいのです」
勉三が居住まいを正して聞いたその話は確かに勉三の胸に強く響き、勉三の心の奥に深く刻みこまれ、後に勉三の運命に強く関与していった。
五稜郭決戦前夜の明治二年五月初め、死を覚悟していた頼母の最後の気懸かりは長子吉十郎のことであった。吉十郎をここで死なせる訳にはいかぬ。何としても生き延びさせ、西郷家の血筋を伝え、一族の恥を雪いでもらわねばならぬ。誰かに預けるほかない。すぐに思い浮かんだのは藩主容保実弟の桑名藩主︱松平定敬が宿舎としていた箱館神明社の宮司・沢辺琢磨のことであった。頼母も弟の陽次郎も神明社の定敬の元をしばしば訪れていて、琢磨のことをよく知っていた。
箱館神明社宮司沢辺家の養子琢磨は土佐の勤皇志士坂本竜馬の従弟である。拾った時計を勝手に質入れするという不祥事を起こし、竜馬の勧めで江戸から箱館に逃れて来ていた。彼は神社の宮司でありながら、禁教令下で密かに日本人最初のロシア正教信徒となり、箱館ニコライ堂やロシア領事館にも平然と出入りしていたという豪胆な人物である。
写真師田本研造はその琢磨の親友であった。ロシア領事館によく出入りし、ロシア人と親しかった田本が沢辺と懇意になったのは自然の流れであった。
︱沢辺氏は「邪教禁令」下にありながらも信念を持ち勇気ある生き方をしている。彼なら息子をこの広大で可能性に満ちた未開の大地︱蝦夷地を拓く新しい時代に相応しい立派な若者に育ててくれるに違いない。この男にわが息子を預けよう。
頼母はそう決めた。
頼母の耳に榎本の説く「この未開の広い蝦夷地を開拓して西洋式の新しい農地を拓き、新しい共和国の建設を」という呼びかけが快く響いていた。西洋に倣って選挙で「蝦夷共和国総裁」に選ばれた榎本は五年もの間オランダ国に留学し、あらゆる分野の洋学を学んで来た当代一の洋学者である。その榎本の発した呼びかけであった。
︱確かにそれは年老いた自分には「夢の世界」のことである。が、吉十郎のような若者にとっては決してそうではない。誰がこの国の執政権を握ろうと時代は変わる。せめて息子には新しい時代にふさわしい新しい夢を持って生きていってもらいたい。そしていつか必ず西郷家を復興させて名誉復活を遂げて欲しい。
頼母は心底そう願った。
「沢辺氏に預けるには、多少の不安はありました。もしも、と考えるのが親心というものです。それで写真師として既に名を成していた田本氏に密かに後見をお願いしたのです。実際のところ、沢辺氏は邪教の信者ということで随分な迫害に遭い、しばらくあちこち逃げ回っていたそうで、その間は田本氏や知り合いが吉十郎の世話をしてくれていたようです。その後、沢辺氏は布教のために上京することになり、吉十郎も私の元に戻り、今は東京で英学を学んでおります。
蝦夷地は、何と言ってもロシアに対する北辺防備の地です。今は北海道と名を変え、開拓使も設置され、何でも黒田長官がアメリカから偉い紳士を連れて来て、いろいろ調べさせているとも聞いています。いよいよこれからということのようです。吉十郎は体が弱く、難点もありますが、いずれ渡北する時が来るでしょう」
近悳はここで、この日初めて、笑顔を見せた。
言うまでもなく「黒田長官がアメリカから連れて来た偉い紳士」とはホーレス・ケプロンのことである。しかしそれが判るのは更に後のことである。
そしてここまで、ただ黙って兄近悳の話を聞いていた未遠子が初めて口を開いた。
「田本様や沢辺様がお世話くださったのは吉十郎だけではございませんの。雲井事件で捕縛された弟の陽次郎が、未だに箱館の獄に繋がれているのですが、お二人とも本当に良くしてくださって…。でも近頃弟の体調があまり良くないとか…。それが心配で…」
彼女はそう言って袂で涙を拭った。
叔父の真一は努めて明るく、
「確かに廃藩以後、士族問題は大きな問題になっていますが、薩摩の西郷さんあたりが動けば何とかなりましょう。黒田さんが開拓使の長官になったのもロシアに備えて士族を北海道の警護と開拓にあてよと強く主張した西郷さんの後押しが決め手だったという話です。それ故弟さんの釈放も決して遠い先のことではないはずです」
と、優しく慰めた。
真一の思いがけない慰めの言葉に未遠子は目を潤ませ、空になった徳利を両手に押し戴き、いそいそと台所に走った。
「それで、吉十郎さんは今何をされておられるのですか…」
勉三は遠慮がちに、だが強い興味に惹かれて聞いてみた。
「早十四歳になり、近頃はロシア語だけでなく、英語を熱心に学んでおって、将来はアメリカ辺りに留学することも考えているらしい。ただ、病弱なのが心配の種でしてな。
勉三君も、近頃学舎で山川教授から一所懸命に英語を学んでいるが、これからは洋学の時代、それに何と言っても若者の時代だ。もはや武士も百姓もない。土屋三余という海舟先生も認めておられた立派な師の薫陶を受けた勉三君のこと、きっと何か世の中に役立つ大きな事を成し遂げることができるはず。わしはそう思うておる」
無論この時、当の勉三も近悳も、勉三が将来北海道開拓という大業に取り組んでいくことになろうとは夢にも思っていない。
ただ、ここで強調しておく必要があるのは、近悳の北海道箱館への強く深い愛着が、ただ単に彼が箱館五稜郭で戦ったことがあるというだけの理由にとどまらなかったことである。
近悳にとって蝦夷地︱北海道は忘れ得ぬ「夢見の地」であり、一度は愛するわが子を預けた「恩沢の地」でもあった。そうであるが故に、彼はこの遠い北辺の大地で見た夢を熱を込めて勉三に語り、若き勉三の未来に自らの夢を重ねようとしたのである。
この当時、近悳の語った蝦夷地︱北海道は「北門の鎖鑰」「ロシアに対する北辺防備」というところにその重点が置かれていた。つまりは軍事目的の「士族開拓移住」の話が主流であった。それ故に勉三は北海道という新天地の存在に強い興味を抱きはしたが、「新しい農業開拓地」というふうには受け止めなかったのである。
結局この謹申学舎は、二年半ほどで閉じられる。明治五年の学制発布を機に、各地に小学校が開かれ、この地方でも明治六年には学舎と同じ陣屋跡の敷地に学校が出来た。敷地が手狭になって来たという事情もあったが、国の学制が整うに従い、遠方から通う学生の為に旧屋敷の一部を寄宿舎にし、近隣の子弟百余名の学生を輩出して来たこの学舎も、もはやその存在理由を失いつつあったのだ。郷土に多大の貢献をなした謹申学舎はその使命を終えんとしていたのである。
保科近悳が伊豆を去ったのは明治七年八月、勉三の上京と相前後してのことである。
明治六年五月、近悳と美遠子の弟陽次郎は既に函館の獄中で三十三歳の生涯を閉じていた。
そして、明治七年春、写真師鈴木真一と近悳の妹美遠子が再婚した。かくして勉三と近悳は親戚ということにもなり、その後二人の絆は近悳が会津でその生涯を終えるまで途切れることなく続いていったのである。
近悳は美遠子の婚姻を見届けた後、福島県令安場保和の世話で会津に程近い福島県棚倉の都々古別神社の宮司となるべく伊豆を去った。勿論これも海舟の斡旋によっていた。
「俺は今まで天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ。…小楠はとても尋常のものさしでは判らない人物で、一向ものにこだわりせぬ人であった。こういうふうだから、小楠の良い弟子といったら安場保和一人くらいのものだろう」
というのが海舟の安場評で、安場はこれを意気に感じ、海舟に敬意を表し、彼を助けた。
明治七年夏、勉三は近悳とほぼ同じ時期に伊豆を去り、混乱の収まった東京へ向かい、ようやく慶應義塾の門を叩く。既に二十二歳に達していた。
第四章 義塾とケプロン報文
(1)
明治七年八月、勉三は念願の慶應義塾に入学を果たした。それから既に半年余が経っている。
「ここで自分の果たすべき使命を掴むことができるのか?」
勉三は義塾での勉学に少し戸惑いを感じるようになっていた。
義塾はあの芝新銭座から三田に移り、「コーポレーション(共同結社あるいは現代の公益法人)慶應義塾」となっていて、今や英語・洋学のメッカとして隆盛を極めていた。
明治四年の三田移転当時、大学十六校のうち百名を超えるものは僅か四校に過ぎず、その四校のうち他は学生数が百五十に満たないのに、義塾だけは三百二十余名を数えていた。今はその頃より学生数が増えている。さらに、勉三が入学した年には年少者の入学急増に応ずるべく、幼稚舎の設立準備が始まっていた。
『西洋事情』と『学問のすすめ』等々の出版によって「社頭福沢諭吉」の名前はますます有名になり、新政府内にも多大な影響を及ぼすようになっていた。例えば「文部省は竹橋に在るが、文部卿(文部大臣)は三田に在る」というのが当時の専らの世評であった。
勉三の目にも、義塾の学生が皆昂然たる気分を漲らせて銀座界隈を闊歩する姿が、否応なく飛び込んで来た。
勉三はこの頃、「自分の田舎者風はかなりのもののようだ」「自分の生き方は古臭く、時代遅れなのか?」と考え込むことがしばしばあった。
︱福沢先生は明治四年の「廃藩置県」の断行を随分高く評価されておられたが、それと「地租改正」とで「封建門閥制度の撤廃」はさらに一歩深まり、世の中が急に変わり始めたことは確かだ。全国津々浦々に「新しい時代」が到来し、当然人の気分も変わって来たようだ。この前上京して来た時には、「明治を反対から読めば〝治まる明〟」との戯れ句が流行っていたのに、「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」というのが今時の流行り文句だ。自分だって、今やこうして散切り頭で自由を謳歌しているのだが…。
「しかし、これで良いのか?」
勉三のこの疑問は決して故のないものではなかった。
その頃よく世間で聞かれる言葉があった。「立身出世」という言葉である。この義塾にも、「国の為は然ることながら、己が家族と家郷の為に身を立て名をあげん」との野心を抱く青年たちが全国各地から続々と集まって来ていた。「国の為」と口にすることがあっても、実はそれが「私と一家の為」であることが多く、彼らの間に「成績順番」を争う激烈な「私的競争」が生まれつつあった。
塾生が年三回もらう「勤惰表」には全塾生の出欠席数と成績席順が公表されており、誰もがその中身を見ることができた。もちろんこの時代の成績争いは今日のような陰湿なものではなく、もっと大らかなものではあった。がとにかく、有能の青年はこぞって立身出世のために学業成績競争に鎬をけずり始めていたのである。それは互いに切磋琢磨して学の深浅を競い合った三余塾のふうとは明らかに違っていた。
叔父真一がかつて語った言葉が思い起こされた。「日本人は文明開化には光の部分もあれば影の部分もあるのだということを、よく知っておかねばならないのだ」という言葉を。
そんなある日、勉三は寄宿先を共にしていた信州松本藩士の家に生まれた友人長野三郎と語り合う機会があった。勉三より三歳ほど年下の彼は義塾で英学を学び、将来は通辞(通訳)になりたいという夢を持っていた。
話題が社頭福沢の『学問のすすめ』に触れた時のことである。
「依田さんは先生のこの著作について、どのような感想をお持ちですか?」
と、少し笑いながら尋ねて来た。
「私が一番好きな文言はやはり、次の一文ですね」
勉三はそう言って、冒頭の一文を暗誦して見せた。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、以って衣食住の用を達し、自由自在互いに人の妨げをなさずして各安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり」
長野は、「やはり」とばかりに深く頷き、「いかにも依田さんらしい」と、笑った。
「それではあまりにも田舎風と言うか……いえ、素朴というか、とにかく今風ではありませんね。僕が一番好きな所は、依田さんが暗誦された一文の後に続く次の文言です」
そう言うと、彼は勉三に倣って『学問のすすめ』の一節を暗誦して見せた。
「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。…人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事を良く知る者は貴人となり、富人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」
彼は「どうです」と言わんばかりの顔を、苦笑いする勉三に向けた。
その日、長野が勉三に力説したのはこういうことだった。
「確かに、明治の御世は徳川様のような時代ではなくなり、もはや門閥一辺倒の時代ではなくなりました。自分のような身分の低い士族の息子でも、こうして大学で昔の家老・奉行の子弟達と成績を争うことが出来る。自由平等とはこのことです。一方で、今や学業の成績次第で立身出世に大きな差が生まれようとしています。しかし、これは文明開化の世においては当然のことであり、むしろ喜ぶべきことです。自分のような維新に功のない藩の出身者には薩長閥に関わる縁故や引きがあるわけでなし、実力、つまりは学歴と学問を武器にして世を渡り、立身出世を図っていく他に道がないのです」
勉三は敢えて反論はしなかった。別に非難すべきことでもない。社頭福沢の、慶應義塾の、というより今日の世の中全体の求めるところでもあったからだ。
しかし、一人になった勉三は心中冷たい隙間風が吹くような、言いようのない侘しさを覚えていた。
「三余先生も学問の大切さを説かれた。しかし、それは決して立身出世のため、己の利のためではないと厳しく諭された。国のため、人民と世の中のために、それが学問をする本当の道だ、と。それが古いと言うのか?そんなことはない。断じてない!」
勉三は、三余先生に対する自分の強い敬慕の気持ちを改めて噛み締めていた。
そしてふと、伊豆の故里で三余先生の教えを守り、郷土の発展のために私財を投じて養蚕業の育成に取り組んでいる兄のことを懐かしく思い出した。佐二平は、三余先生が伊助たちに託した夢を自ら引き受け、黙々とその実現に向けて奮闘していた。
︱聞くところによると、兄は近々松崎村に製糸工場を建設し、試験的に操業を開始しようとしているらしい。その操業に向けて、妹のミチや塗り屋の従妹リクなど村の五人の娘が遠い上州群馬にある官営富岡製糸工場に行き、二ヶ年勤めて糸繰りの技術を習得し、今では工女に応募してきた村の娘達に一所懸命それを教えているという。妹やリクや村の娘たちも、皆郷土の為に必死に尽くしているのだ。何と健気なことであろうか。いったい田舎者のどこが古く、田舎風のどこが悪いと言うのだ!
「自分は三余先生の徒だ」、勉三は改めてそう思った。
勉三が「これで良いのだろうか?」と自分の義塾生活に疑問を抱くに至ったにはもう一つ別の理由もあった。
勉三の脳裏には常に農としての生き方があり、農と郷土に根ざした実業への志向があった。勉三にとっての実業とは農業のことであり、農業に基礎を置いた実業のことであった。それ以外のものではあり得なかった。その意味において、勉三が求めていた実学としての洋学と義塾のそれとは明らかに食い違いがあった。
福沢の義塾も実業と実学を重んじていた。が、その目指したものはあくまでも「欧米的実業」であった。それ故に、数理教育、即ち数学・物理・化学に力点がおかれ、その方針はまた歴史・経済・倫理・法律にも及んだ。更に明治六年からは医学所が設けられ、医学教育にも力が注がれた。そして、これら全ての学課に英文原書指導が持ち込まれ、専門課程学習のなかで英語修得がなされるようになっていた。全ては西洋的文明社会に追いつくことがその目的であった。勉三は英語修得を最大の目的としていたが、農学とは違う学課の原書からそれを学ばねばならないというのは実に不本意なことであった。
更に、福沢は実学の他に修身教育に力を入れたが、この点でも勉三は戸惑いを感じないわけにはいかなかった。義塾の修身教育はもちろん西洋流のそれであって、儒学のそれではない。
「東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である」というのが福沢の主張で、西洋流の文明主義を若者に信じせしめるためには「陳く腐れた漢説」を「後進少年生の脳中」から叩き出さねばならないとし、口を極めて儒学・漢学を非難攻撃したのである。
勉三が入学した翌年の明治八年は演説館が完成した年で、これより本格的な演説会がもたれるようになった。福沢は演説会・講演会・懇談会などあらゆる機会を捉えて学生に日本文明の遅れを指摘し、儒学・漢学の弊を説き、独立心と独立精神涵養の重要性を繰り返し説いた。
これもまた儒学者たる三余先生を師と仰いで来た勉三にとって、ひどく不本意なことではあった。
福沢には確かに儒学・漢学の弊害を説くべき理由があった。江戸封建社会の下級武士の子弟として育った彼にとって、実力もなく人格的にも低劣な上役に対して、父親や自分が必要以上に頭を低くして暮らさねばならないことが、何よりも屈辱で、憤懣に耐えないことであったのだ。生まれつきの地位や身分だけで全ての上下関係が決するという「門閥身分制度こそ親の仇」というのは彼自身の屈辱の体験から出た言葉だ。彼の言う「一身の独立」とはまさにこうした非合理的で封建的な縛りからの「自由」、身分違えからの「平等」を指していた。
そんな福沢にとって「身分秩序」を重んじる儒学・漢学こそ「門閥身分制度」を守護する元凶としか思えなかったのは当然である。それ故の「儒学・漢学は親の仇」であったのだ。しかも福沢は儒学・漢学にも深く通じていた。それだけにその批判の言葉は要を得た容赦のないもので、いささか勉三を苦しめた。
三余先生が勉三たちに教えた儒学は、福沢が批判の刃を振るった儒学とは、少し趣が違っている。三余も封建的身分秩序たる「士農の差別」に怒り、「万民平等」を求めた。しかし三余は儒学・漢学に潜んでいる「人の上に立つ者、あるいは頭領として学ぶべき哲学」を掬い出し、これを勉三ら若き門下生に伝えたのだ。それは「士の道」として完成されてきたもので、「私を滅して義と正のために尽くす」という「至誠の哲学」ともいうべきものであった。三余はそれを農に生きる者も学ぶべき哲理である、としたのである。
勉三の目には、福沢と義塾の教える「一身の独立」が「一国の独立」に結びつくとしても、一面「私独りだけの利」を求めていきかねない危うさが見えていた。
勉三が福沢と義塾から学んだものは決して少なくはない。特に福沢が「薩長藩閥政治」を嫌い、新政府の横柄・腐敗・堕落を憎み、これを激しく非難し、独立独歩を守り、「官」と明確に距離を置き、あくまでも「民」に徹するという態度には好感が持てた。それ故に、田舎で勉三を「官」の文部省役人に推薦する動きが生まれた時も、断固としてこれを退けたのである。
こうして、勉三の義塾における学生生活は一年あまりで早くも煩悶に直面しつつあった。
そんな勉三に決定的な転機が訪れる。
(2)
「運命の日」は突如やって来た。それも全く思いがけない形で。明治八年夏、ちょうど義塾に入学して一年目、それ程親しいという仲でもない友人と昼食を共にしていた時のことである。その友人が、ふと、こんな話をした。
「先日ある英文小冊子を読む機会があったのだが、その記事によると、北海道というところは地味がすこぶる肥えた土地だそうで、近頃開拓使に雇われた米国人某氏が北海道の測量をするために山野を歩き巡った際、思わずペンを投げ捨て『日本人はこんなにも豊穣肥沃の土地をどうして荒れるがままに任せておくのか!』と嘆いたというのだ。本当に肥沃の良土か否か、実際に調べ、証明してみる必要がありそうだ、と筆者は結んでいたがね」
「なに、それは本当のことか?それはなんという冊子だ?」
勉三は思わず弁当の箸を止め、大声で叫んでいた。
突然、全く突然、ある閃きが勉三を襲った。
「そうだ、蝦夷地、北海道だ! この豊饒肥沃の大地こそが私の生きる場所なのだ!」
天上を仰ぐ勉三の目に、三余先生のあの茫洋たる温顔と、保科近悳のあの哀愁にみちた古武士然たる顔が彷彿と浮かんだ。
「これこそ天の啓示というものだ!」
かつて勤申学舎時代に近悳に見せてもらった蝦夷地北海道の地図が、鮮やかに勉三の脳裏に浮かんできた。
勉三のあまりにも急激な変化と想像を超えた反応に驚く友人から、その小冊子が義塾の書籍庫(図書館)にあるはずと聞いた勉三は飛び上がるようにして走り出した。
友人が読んだという小冊子はすぐに見つかった。それはケプロン氏の帰国報告記のようなものを載せていた。
その日、勉三が辞書を片手に読み進めた数ページのその記事は、開拓使が明治八年の三月に出したケプロン著『レポート・アンド・オフィシャルレター・ツゥー・ザ・カイタクシ』の引用文―英原文混じりの邦訳文に他ならなかった。
北海道開拓使長官黒田清隆の招きに応じ、米国農務長官ホーレス・ケプロンと測量・地質・鉱物・道路等の専門家三人からなる調査団が日本にやって来たのは明治四年六月である。三年間滞在し、膨大な報告書『ケプロン報文』をまとめ上げ、この明治八年五月に帰国したばかりであった。その記事には勉三の胸中を鷲づかみにするような驚きの言葉が並んでいた。
ケプロン氏曰く︱
「本島北海道の広大たること、合衆国西部の未開地に等しく、この地は富の無限の宝庫であって、開拓するに必要とする物資全てが備わっている。このように豊饒で肥沃の原野を捨てて顧みないというのは、まさに政府の怠慢と言っても過言ではない」
勉三は唸った。
︱調査結果が真実ならば、まさに政府の怠慢ではないか。国にとっての大きな損失ではないか。大沢・松崎の耕地は狭く、百姓がどれだけ苦労していることか。おそらく日本各地の百姓も同じ苦労を味わっているに違いない。それに現今の食料不足と米価の値上がりぐあいはどうだ。何としてもこの北の原野の開拓をやり遂げるべきであろう。
またケプロン氏曰く︱
「思うに、この地に本当に信頼のおける人民を居住させようとするなら、強制によらず、人々を随意に移住させるのが一番よいであろう。自分あるいは国の為にこの地を開拓し、その土地を守る者があれば、彼らこそ国家の宝である。それ故、もし外国がこの地を侵略するならばその国にとって必ず後世の悔いとなるに違いない。わがケプロン調査隊のような探検活動は今まで先例がなく、おそらく日本国民にとって一大先駆となるであろう」
勉三は驚いた。
︱北の原野開拓は日本の農民・人民に新天地をもたらし、外国、おそらくはロシアが国を侵すのを阻むことになるということか。まさに開拓者は国の宝だ。やりがいのある大事業ではないか。
更にケプロン氏曰く︱
「ここ三ヶ年の実測と、ここの気候に関する我々の諸調査は、この島が荒れた寒い痩せ地であるといったような妄説を完全に反駁し尽くしている。…加えるにこの島には九年間の天気現象の実測記録がある。これによっても、この島の気候は世界中の同緯度である他国の北方よりも温和であることを実証している。…今地球上で人民の最も緻密な箇所に二本の横線を引けば、下線はこの島の最南緯線よりそれ程南に出ることはない。そして上線はこの島の最北端よりなお十五度北にある。他のことはさておいて、この一事をみてもその気候が世界中の同緯度に在る他の国と大きく異なっているということなど絶対にあり得ない」
勉三は目を瞠った。
︱北海道は未開酷寒の地だという先入感と偏見がいかに日本人の目を盲目にしているという事か。世界を知り、そして日本国を知り、決して井の中の蛙であってはならぬ、ということか。確か福沢先生はそうおっしゃられたはずだ。その通りではないか。
更にまたケプロン氏曰く︱
「この島は風土的にも物産的にも良好豊富であり、これに加えて合衆国移民のような豪気の人民をもってすれば、この島の開拓は決して難事とは言えない。内地温和の地に成長した人は簡単に寒地への移転を肯定できないであろうから、徐々に誘導し、その寒地で生活することは安楽であるのみでなく、清浄で美味い空気を吸い、併せて食料を変えれば、身体強壮で精神活発となり、益々寒気に耐えることができることを報せるべきである」
勉三は深く頷いた。
︱豪気の人民、すばらしい言葉だ。その昔伊豆の荒れた山野を開拓して田畑を拓いてきたわが家の「辛酸を楽しむ」の家訓と相通ずるものがあるではないか。寒冷寒地をどうして恐れようぞ。
また更にケプロン氏曰く︱
「道路なるものは国の血脈である。この脈絡がないと木偶の如くさっぱり動けないことになる。…私はこの道路の件こそが北海道開拓における使庁の緊要にして最も急務の事業であると考えるものである」
勉三は感嘆した。
︱ケプロン氏を招いてここまで北海道に関する調査活動を行なったということは、国にもそれだけの覚悟と計画があるということであろう。官民一体︱新しい政府だからこそそれが可能なはずだ。もし福沢先生が指弾する、政権を私するのみの無能の政治家・役人ばかりがはびこり、北海道すら開発できないのであれば、国は滅びてしまうであろう。開拓使官庁もそれ程に愚かではあるまい。
更にまたケプロン氏曰く︱
「内地および北地の両所に農業試験所を開き、欧米で食料に充てている諸品種を試植し、良種の馬・牛・羊・豚を輸入し、更に良巧の農具機械を購入し、その用法を日本人に教授すべきである」
勉三はここでも深く頷いた。
︱これだ。洋式農業から学ぶべきは広大な北海道の開拓・耕作に関する農法だ。やはり洋学は必要だ。何としても英学をものにしなければならない。
数時間後、勉三は非常な興奮を隠せないままに義塾の書籍庫を出た。辺りは既に夕暮れて西の空が赤く染まり始めていた。帰りを急ぐ烏の群れが木々に囲まれた義塾の上空を賑やかに飛行している。そんな空を仰いでいると、故郷伊豆松崎の風景が、三余塾で学んだ日々の思い出が、次々と脳裏に蘇って来た。
九年前のあの熊堂山山頂の光景がつい先日のことのように懐かしく思い出された。あの日、青い海が松崎港の向こうに遠く広がっていた。ミヨ夫人が伝えてくれた三余先生の形見の言葉が心に熱く響いていた。自らに課せられた使命とは具体的には何なのか、それを掴む日がきっとくるはずだ。そう自分に何度も言い聞かせていた。
そして、勉三は伊豆謹申学舎に学んでいた頃、叔父真一と招かれた酒宴で、近悳が北海道に強い関心を持っていて、「新政府に招かれてやって来た外国人が蝦夷地を調べている」と語ったことをふと思い出し、あらためて近悳との巡り合いの不思議さに驚きを禁じ得なかった。
「まさか保科先生からお聞きした話が今日に繋がっていようとは、何という奇遇であろうか。しかしまさに蝦夷地北海道の開拓だ。農としての自分が果たすべき使命はこれだ。祖国と人民に尽くすべき一生の仕事とはこれだ。今ようやく自分は新しい人生のスタートラインに立つことができたのだ」
そう思うと、身が震えた。
「こうなったら、何としてもケプロン報文の全文をぜひ読んで見たいものだ」
義塾で巡り合った「ケプロン報文」こそ、勉三が長年追い求めて来た問いに対する回答であり、一生を導く道標であった。
勉三は、早速、芝増上寺の境内にあったいかめしい御殿屋敷風の北海道開拓使出張所の外事課を訪れた。無名の一介の学生に対する役所の対応は現代のそれとさほど変わらない。
係役人のやや侮蔑的な笑いを浴びながら手にしたその分厚い『ケプロンレポート』は、専門用語の並ぶかなり難解な英文書であり、読みこなすには相当の英語力を必要とするものだった。
三年か四年後に翻訳本が出るからそれを読めば良いではないか、というのが外事課役人の態度であった。実際問題として、当時の勉三の語学力をもってしてはそれを待つ他なかったのだ。
二部 邂逅篇
第五章 ワッデル塾
(1)
明治九年の正月明け︱勉三は慶應義塾退学の準備を始めた。
「退学届」の「退学理由記入欄」には「語学修業の為」と記した。語学とはもちろん英語のことである。
義塾の事務員はそれを見て、呆れてモノも言えないとばかりに勉三の顔をまじまじと覗き込んだ。当然と言えば当然であった。義塾は英語・英学、洋学のメッカであり、世間では「英語は義塾」が通り相場であった。その義塾を辞める理由が「語学(英語)修業のために」というのである。確かに「非常識にも程がある」と見られても仕方ない。
しかし、明確な使命に目覚めた勉三にとって、もはや英語の語学力を身につけることだけが必要であった。法学・化学・数学などの専門を学びながら英語を習得するという義塾流語学修業は不適当であり、無駄が多かった。
勉三は兄佐二平にも、義塾中退の理由を「英語習得に限って学習し、これを完全にマスターしたい故、新しい英語塾に移りたい」としか伝えなかった。兄もまた「何か心に期するものがあるのだろう」と、この常識からは外れた弟の決断を尊重した。一つの目標に向かって、無駄なくまっしぐらに突き進んで行く弟の性格をよく理解していたからである。
結局、勉三は明治九年一月末に慶應義塾を中途退学する。勉三の義塾在学は実質僅か一年と数ヶ月で終わった。
勉三が「語学修業の為に」と移った先は英国人牧師が経営する英語専門塾「ワッデル塾」で、既に義塾を退学する前から通学を始めていた。決めたら即行動、それが勉三流である。
英学ワッデル塾は芝増上寺裏の西久保葺手町(現在の虎ノ門五丁目付近)に在った。義塾のある三田とは目と鼻の先である。ワッデルの塾舎は大きな日本風の平屋で、畳敷きのだだっ広い一部屋が礼拝堂兼教室になっていた。
ワッデル塾の先生︱アイルランド人ジョン・ブル・ヒュー・ワッデルは三十四、五歳の働き盛りの牧師であった。日本に渡って来てまだ一年半しか経っていなかったが、牧師にありがちな堅苦しい謹厳家とは異なり、実に大らかで、日本語をすぐにマスターし、日本人の習慣や宗教観をよく理解していた。何よりも下町庶民の伝道に熱心で、下町言葉を巧みに操り、オカミサン連中の集う井戸端会議にも顔を出して「主の道」を語るという変わり者であった。
ワッデルは、勉三の「耶蘇教にそれ程関心はないが、外国に渡り、外国の農業事情を学びたいので、ぜひ英語をマスターしたい」という極めて率直な申し出を笑って聞き入れた。実際その後も彼にバイブル教室や教会行事への参加を強制することがなかった。
勉三は、このワッデル塾と明治のキリスト教界周辺に身を置くことによって、生涯の友・同志となる二人の青年と運命的な邂逅を果たすことになる。
(2)
明治九(一八七六)年正月、松の内が過ぎて家々の門松が外され出した頃︱
ワッデル塾のある生徒が、恐ろしく汚い身なりの痩せぎすの青年を塾に連れて来た。冬用の羽織はぼろぼろで、所々綿がはみ出し、襟元は垢で黒光りしていた。髭面で、断髪の頭は櫛が通りそうもないほどぼさぼさである。しかし本人はいささかも臆するところがなく、堂々たる押し出しで、いかにも豪放磊落といった風情であった。ただその目の涼やかさがこの男の心根の美しさをよく物語っていた。
ワッデル先生は笑って応対した。
「ヒドク困ッタ状況ニアルコト、確カナヨウデスネ」
「はっはっは。まことにその通りで。このようなむさ苦しい仕度で、面目ない次第です。今わしは一銭も持っておらぬだけでなく、六十円もの大借金を抱え、その上今夜寝るところもなく、働くところもない有様でして…」
男の名は渡邉勝。勉三より一つ歳下の二十二歳。尾張藩槍術指南役の家に生まれ、その祖先は源頼光四天王の筆頭︱剛勇で知られた渡邉綱であるという。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋において羅生門の鬼の腕を名刀「髭切りの太刀」で切り落としたという昔話に出て来る人物だ。勝はその第三十五代目に当たるという。元藩校の名古屋洋学校に学び、明治七年に上京、試験を受けて工部省設置の工部大学の汐留修技科電信技術生となった。卒業後は工部省に七年の奉公勤めが課せられた官費給費生で、学生には月給四円が支給されていた。
彼は英語語学力の不足を補うために英語塾に通っていたのだが、帰るのが面倒になるとそこに泊り込んでしまい、寮に帰らないことが多々あった。これを規則違反と教員に咎められた。しかもその上、休暇制度のあり方を巡って当局と大喧嘩を繰り広げてしまった。結局、退寮を余儀なくされただけでなく、ついには辞職・退学せざるを得なくなったのである。しかも「中退したから」と寮費・給費六十円の返還請求が回ってきた。更に給費がなくなったことを知った英語塾からも追い出されてしまった。進退極まった彼は、友人に伴われ、ワッデル塾に転がり込んで来たという訳である。
結局行き先のなかった勝は、その日からワッデル塾に寄宿することになり、翌日から先生の助手として英語教室の手伝いをすることになった。
―下町宣教師と言われるだけあって、ワッデル先生は本当に人情に篤い人だ。それにしてもおかしな男だが、憎めない人物だ。
勉三はこの薄汚い若者に何か惹かれるものを感じていた。
翌朝、義塾に向かう途中、英語塾を訪れた勉三は庭を勢いよく掃いていた青年から突然、大声で、「おはようございます」と挨拶された。
見慣れぬ顔であった。こざっぱりとした綿入れ羽織、真新しい袴と帯、綺麗に梳かれた髪と、艶やかに磨かれた顔……。
「はて、誰か?」とあらためて眺めると、それは昨日の薄汚い青年であった。勉三の驚いて声も出ない様子が余程おかしかったのか、彼は大口を開けて笑った。
「わしですよ、わし。それ、昨日の乞食学生の渡邉勝ですよ。はっはっは」
勉三はたちまち、全く飾り気のないこの男に魅了されてしまった。この渡邉勝という得難い友人を得たことが、勉三の義塾退学の時を早めたとも言える。
人と人との出会いは不思議なものである。人は一生の間に、何万何十万という人と出会っているはずである。しかしその中のごく僅かな人との間にだけ強い絆が生まれ、篤い友情が芽生えていく。そこには何らの強制もなく、ただ自由で自然な人間と人間との結びつきのみがある。お互いの心の底に存在する「あるもの」が強く惹き付け合い、一生を左右していくのであろう。
お互いの心の底の「あるもの」︱それは同一のものであったり、お互いに補い合うものであったりし、そこから極めて個性的であると同時に必然的な人間と人間の結合︱友情が生まれていくのである。
義塾を正式に退めた日の昼時、勉三は勝をいつも通っている飯屋に誘った。老人が一人で商っている気の置けない小さな飯屋で、食事も出し酒も飲ませてくれた。
「ところで、渡邉君、例の大借金とやらはどうしました?」
勉三が聞くと、勢いよく盃を呷っていた勝は、赤い顔をさらに赤くし、
「ワッデル先生は実に偉い人だ。俺が今日こうしてここにおられるのは先生のお陰だ。俺は生涯先生の弟子になることに決めたぞ」
と、一語一語に力を込めて言った。
彼は「いよいよとなったら屯田兵にでもなるつもりだった」と語り、「先生のお蔭でそんなことにならずに済み、本当に救われた」と、繰り返し感謝の言葉を口にした。彼の話によると、ワッデル先生は勝に宿舎を与えただけでなかった。彼の英語力を買って英学初心者に対する文法教授の職も与え、さらに僅かであったが手当を出してくれ、借金返済にも便宜を図ってくれたというのである。
熱血漢の勝は、聖書を読んだことがあったわけではないが、こうしたワッデル先生の人柄に惚れ込み、既にキリスト教の信者になったつもりでいた。
キリスト教信者というより、むしろワッデル教の信者と言った方が正鵠を射ている。
第六章 故郷伊豆へ帰る
(1)
ワッデル塾に入門したその年︱明治九年の夏あたりから勉三は体調不良に陥った。
医者の診立てでは脚気の気味があり、なおかつ胃弱だという。胃弱は持病のようなもので、それほど深刻というわけではなかった。しかし、この病気を切っ掛けに考え込むことが多くなった。
︱学者になるわけでもなし、ここまで無理して英語修得に打ち込むだけの価値が果たしてあるのか?
そんな疑問が芽生えていた。
︱いずれケプロンレポートは翻訳書が出る。語学にこだわることもあるまい。それに必ずしも米国にまで出かけて行く必要もないのではないか。開拓の現場は日本であり、蝦夷地なのだ。それにまず何よりも兄をはじめ依田一族の理解と協力を得、開拓団を支えるしっかりとした態勢を作ることの方が大事だ。それが出来上がらねば大がかりな開拓事業を始めることなど到底できまい。
勉三の脳裏には写真で見たアメリカ西部の広大な牧場風景が浮かんでいた。そしてそれはいつしか未だ見たことのない「北海道風景」に変わっていった。果てしなく広がる北の草原に無数の馬や牛が群れている……。それは、田舎の人が聞いたら誰しも「夢だ、妄想だ」と一笑に付すような途方もなく広い牧畜場であった。
︱大きな開拓団を組まねばなるまい。膨大な費用・資金が必要になる。一族の、特に長兄の理解を得ることが何よりも必要だ。やはり故郷に帰るべきだ。
勉三が下した結論であった。
(2)
明治九年九月、勉三は丸二年ほどの東京遊学に区切りをつけ、ワッデル塾も退め、故郷大沢村に帰って来た。
彼はこの帰省の旅に勝を誘い、箱根・堂ヶ島を巡った。もちろん費用は勉三持ちである。勉三は既に心に決めていた。いずれは彼に北海道開拓の話をし、同志となって共に開拓の汗を流してくれるよう頼みたいものだ、と。
︱北海道開拓の尖兵屯田兵にでもなろうとした男である。北の開拓にも興味を持っているようだ。信仰者の彼には大事業を興すに必要な誠の心もある。それに何よりも熱血漢で胆力・気力も持っている。また長男ではあっても、既に家督は弟に譲っているとのことだ。自分と同じく至極身軽な身分だ。しっかりした準備と計画があればきっと同志になってくれるに違いない。
勉三はそう思っていた。だから、彼に依田家一族とその故里である大沢・松崎を見ておいてもらいたかったのである。そしてこの機会に彼を兄佐二平にも引き合わせておきたかったのだ。
勝は勉三の誘いに喜んで応じ、旅を存分に楽しんだ。大沢訪問で彼を何よりも驚かせたのは、築二百年になるという依田家母屋の圧倒的な重量感であった。庄屋造りのそれは重厚そのもので、どっしりとこの地に根ざしているかのようであった。
更に、大沢本家を中心とした依田一族の血族的結合と結束の厚さ、強さ、財力の大きさにも圧倒させられた。
彼は三日ほどの滞在の間に勉三を育てたバックグラウンドの何たるかを知り、勉三への信頼を一層深めた。
が、勉三が願った勝と兄佐二平との対面は叶わなかった。当時佐二平は県会でも実業界でも多くの任務を背負っていて、大沢を留守にすることが多かった。周囲に押され、あまり好きでもなかった県議という政治向きの公務にも就き、県内各地を飛び歩いていた。
こうした兄の多忙さは勉三にとっても予想外のことであった。特に勉三が驚いたのは、邸内の一角に新しく建てられたばかりだという大きな蚕室の存在であった。この三階建ての大蚕室の威容は、兄佐二平のこの事業に懸ける決意と情熱が並々ならぬものであることを隈なく物語っていた。
松崎村清水にも既に二十五人繰り機械設備を据えた大きな製糸工場が建っていた。上州富岡で製糸技術を習得して来た妹ミサや従妹のリクら六人の子女が先生となって村の娘達にその技術を教えていて、本格的な操業開始の準備が進んでいた。さらに来年には依田邸内の大蚕室の南側に四十人繰の製糸工場を建設することが決まっていた。
勉三が佐二平と顔を合わせることができたのは、勝が東京へ引き上げてから数日後のことである。
「なんと、政府元勲を思わせる顔付きではないか」
母屋の囲炉裏の奥にどっかり座った兄の風貌は以前目にしていたそれとはすっかり変わり、威厳に満ちていた。きちんと梳かれた洋髪、手入れの行き届いた髭、慈愛と寛容に満ちた眼差し、鷹揚を示す口元、三十歳とは思えないほどの落ち着きと風格に圧倒される思いであった。
実際佐二平は既にこの頃、松崎一帯のというより南伊豆一帯の政界・産業界の重鎮となっていた。それは決して彼自らが望んだ地位ではなかった。むしろ彼は政治向きに関しては出来る限り距離を置きたいとさえ思っていた。しかし地域の村人・有力者が放っておかなかった。佐二平もまた「郷土の為に、世の為に人の為に誠心誠意その一身を捧げる」という三余精神の申し子であった。三余先生の教えを守らねばならない︱その思いが彼にそれらの地位や任務を引き受けさせていた。
勉三が帰郷した明治九年の秋は、とりわけ忙しい盛りであった。
四月に足柄県は静岡県に合併され、足柄県の議員を務めていた佐二平は静岡県会議員になり、県令に見込まれて副議長職に就いていた。
さらに新政府が、「土地私有の承認、地券発行・土地売買の自由」「土地所有者に対する地価課税、税率一律三分の金納」を骨子とする地租改正を「明治九年末までに完了させよ」と布令した為、至る所で騒乱・一揆が起こっていた。伊豆でも例に漏れず大騒乱が起こり、佐二平はその収拾に追われていた。
伊豆では「三分」という税率もさることながら、大蔵当局の「伊豆古来の総石高十八万石を地租算定の基準とすべし」との訓令が大問題となっていた。
伊豆地域人民の代表として地租改正に関する事業調査監督の任を負っていた佐二平はきちんとした調査を行い、「伊豆の国の石高は天領・藩領・旗本領を合わせても十万石に過ぎない」ことを明らかにした。その上で、「このままでは膨大な地租の負担過重が生じる。地主・自作人だけでなく小作人もまた重税に苦しむことになる」と、伊豆四郡全土に檄を発し、一致結束を呼びかけ、抗議運動の先頭に立っていた。
佐二平は何度も上京し、政府に地租基準額の不当を訴え、算定の再改定を要求して交渉を重ねた。その結果、何とか算定石高は十三万石に減じられることになった。また全国的な反対運動の高まりもあり、税率も二分半に減じられた。
ようやくすべてが収まり、昨夜、勉三が待っている大沢村に帰って来たばかりであった。大仕事を終え、故郷の身内に囲まれ、やっと一息つくことができた佐二平は、いかにも美味そうに盃を口に運んだ。
「それにしても、近頃は外の仕事が忙しく、すっかり家を留守にしてしまい、家中のことは妻と伯父さんに任せきりになってしまった。特に伯父さんには村の用掛りや戸長の仕事まで引き受けてもらった上に、蚕糸会社の方も面倒を見てもらい、すっかり世話をかけることになってしまいましたな」
側近中の側近として、大沢本家の頭領たる佐二平を支えていた母方の伯父奈倉喜平は佐二平より十歳ばかり年上で、彼の良き相談相手であった。
「なーに、これしきのこと。とは言え、いよいよ製糸工場が廻りだしたらわしの手に余ることは確かだ。何か手を打たねばなるまい」
そう言いながら、伯父はそっと勉三の方に目をくれた。
佐二平は伯父が言わんとすることに気付きながらも、未だその行く末の見えていない弟にこう言いきかせた。
「勉三はまず体をしっかりと休ませ、体調を整え、その上でまた自分の行路を決めて進んでいけばよい。まだ先は長い。慌てることはあるまい」
そして話題を変えた。
「ところで東京から友人を案内して来たそうだが、どういう人物かね」
佐二平は勉三が勝の人となりについて熱心に語るのを聴きながら、弟が何か大きな目標に向かって突き進もうとしている気配を察し、「うん、うん」と満足げに頷いた。
勉三には、北海道移住開拓計画について、今ここで兄に話そうという気はなかった。佐二平と依田家は、今大事業に取り組まんとしている真っ最中である。他の事業が耳に入る余地はない。今はその時ではなかった。
(3)
県議会が開かれるというので佐二平が再び村を出て行った日、勉三は熊堂山の頂に向かった。何か考え事をするとなると、やはりここが恰好の場所であった。
「こんなにも小さく、狭かったのか」
あの頃と同じ風景が広がっている。が、山頂から久しぶりに見下ろす故郷の風景は彼の目に驚くほど小さく、狭く映っていた。それは、彼が東京という大都会に住み、関東平野という広大な平野を目にしてきたということもあろう。がそれ以上に、彼の視野が広がり、明治日本という新しい国家の全体像が見えるようになり、北海道開拓という大目標が脳裏に刻まれていたからであった。
彼が今生きている世界は、以前と比べものにならない程に大きく広くなっていたのだ。
︱狭い田んぼ、山裾に開かれた段々畑と、我が家のような地主ならまだしも、小作や小農は小さな耕作地に縛り付けられ、細々と生きていく外ない。日本の多くの農村風景は皆こうしたものだろう。広大な原野が広がる北海道ならば、全く新しい農村風景を作り出せるに違いない。なんとしても開拓をやり遂げたいものだ。
「ところで問題はこの話をいつどうやって兄に切り出すか、だ」
昔から勉三にとって長兄の佐二平は、あまりにも大きな存在であった。勉三との間には、七つもの歳の違いがあった。体格に雲泥の差があっただけでなく、知力にもかなりの差があった。兄弟間の対抗心があったわけではなく、比較するなどという気持ちは微塵もなかった。比較を超えたもっと大きな存在、言ってみれば「保護者」のような存在であった。かと言って「親代わり」というのでもない。確かに父母が相次いで亡くなり、二十歳にして兄は残された弟妹八人の親代わりになった。だが勉三にとっては、それ以前からこの兄は頼もしいが幾分近寄り難い〝大人〟であり、かなり重たい存在であった。
︱兄は賛成してくれるであろうか?
そんなことを考えながら、ふと眼下の那賀川に目をやると、一艘の舟が炭俵らしい荷物を山積みにしてゆっくりと下って行くのが見えた。
勉三は突然、兄にまつわる幼い頃の出来事を懐かしく思い出した。勉三はこの年上の長兄との間に、終生忘れることのできないある強烈な思い出を持っていた。
勉三が五歳になったばかりの夏のある日のこと︱
雨上がり後のお昼時であった。那賀川は川幅一杯に水が溢れ、うねるように波打っていた。家の前を流れる那賀川は昔から舟運に使われていた。四間半もある川舟に木材や薪や炭を載せて松崎の港まで運び、そこから江戸表に送り出す。普段は五、六十俵の炭しか積めないが、雨上がりには百俵近くは積み込む。港口まで一里半ほどの旅程である。いなせな船頭が川を下る舟の舳先に立ち、長い竿と船をみごとに操った。道行く人、野良の百姓衆はその鮮やかな竿捌きにしばし見惚れたものであった。
依田家でもかなり前から家の前に舟の発着場を設け、船頭・舟子を雇い、薪や木炭の輸送を始めていた。依田家はそれ程広い田畑を持っていたわけではないが、山地・山林だけはかなり持っていた。木材・木炭の収入はかなりのもので依田家が財を成すのを大いに助けていた。
五歳になったばかりの勉三は昼飯に出た舟子の留守を伺い、彼らが舟に乗り込む時にするように船着場の板敷の上を勢いよく走り、繋いであった小舟にポンと飛び乗った。その拍子にどういうわけか、杭に引っ掛けてあった艫綱が外れ、勉三の乗った小舟はあっという間に流れの中に引き込まれてしまった。
あいにくの昼時、この大事に気づく者は誰一人いなかった。勉三は驚きと恐怖のあまり声を失い、小舟の真ん中に這いつくばったままであった。随分遠くまで流されたように思えたが、実際には三十間ほど流されただけである。
近づく橋翳にふと顔を上げた彼の目に橋の上を通りかかる人影が飛び込んで来た。しかし、助けを呼ぶにも声が出ない。ただ必死で泣き叫んだが、その泣き声すら擦れ、声にならなかった。
と、その時、人影が橋の上から跳ねるように水中に身を躍らせた。素早く舳先近くに達すると舟べりを摑み、見事な泳ぎで小舟を川岸へと導いた。
「もう大丈夫だ。心配することはない」
落ち着いた声でそう呼びかけた人影は常日頃頼りにしていた兄清二郎その人であった。
勉三は思わず兄の首にかじりついた。そしてこの時になって初めて着物の前が生温かく濡れていることに気づいた。
兄清二郎はこの件について一度たりとも人に語ることがなかった。以来、この日の出来事は勉三の心の奥底に深く刻み込まれ、兄への信頼、尊敬は絶対的なものとなった。その気持ちは二十三歳の大人になった現在でも全く変わっていない。
今も、眼下の那賀川はあの頃と変わることなく、狭い平地をクネクネと走り、荷物を載せた舟が上り下りしている。いずれこの舟には繭や生糸が積み込まれ、松崎港から横浜の港に送られ、欧米各国に輸出されて行くのであろう。
「やはり兄さんは凄い人だ。村人が皆頼りにするのも当然だ」
勉三はあらためて兄佐二平の存在の重さを痛感した。蝦夷地開拓事業については、その兄に何としても判って貰わねばならない。
初めはすぐに兄佐二平に計画を打ち明け、その上で一度北海道に渡り、現地事情を見に行くつもりだった。しかし佐二平と大沢家の現状を知った今はそう容易く言い出せなくなっていた。
︱兄は明らかに誰かの、出来ることならこの勉三の手助けを願っている。養蚕・製糸の事業をこれから本格的に軌道に乗せ、松崎一帯の大産業に発展させようとしているのだ。かつて三余塾で、伊助さんたちと共に「国と郷里の為に」という大いなる夢を抱いて蚕業に取り組んだこの勉三の助けを求めていないはずがない。にもかかわらず兄は、「ゆっくり休め。そしてあくまでも自分の道を進め」と言ってくれているのだ。
秋を迎えた伊豆の空はあくまで高く、大空はどこまでも澄み渡っていた。天を仰ぐ勉三の頭上で、あの頃よりも一回り大きくなった大器晩成のタブノキが、サヤサヤと風に鳴っていた。
「大器晩成すだ。慌てることはない。なすべきことをなし、着実に進むことだ」
勉三にはそんなふうに聞こえた。
「今は、兄の事業の手助けをしよう。そうすべきだ」
勉三はそう心に誓った。
勉三が熊堂山山頂で考えを廻らせた末に辿り着いた結論は、次のようなものだった。
―北海道開拓計画において最も重要になるのは資金問題である。兄や一族の理解と協力がなければ到底準備できるものではない。依田家の財政基盤を固める上で今回の養蚕・製糸の事業は極めて重要な意味を持っている。これを成功させることは開拓事業成功の第一歩となるであろう。
またケプロンレポートが日本語に翻訳されて世に出てくるまで後二年もある。レポートにしっかり目を通した上で現地を訪れる方がより実りが深いものになるであろう。それにもう少し農業の知識を身につけ、経験を積んでおいた方が良さそうだ。しばらくの間兄の片腕になって働き、その間に北海道開拓の計画を練り上げ、適当な時期が来たら、その時にこそ兄に打ち明けよう、と。
勉三は熊堂山を下り、土屋に立ち寄り、仏壇の前に座って亡き師に長い報告を行なった。そして、あらためて先生の遺言を守り、北海道開拓計画の実行を誓った。
勉三の後ろで、ミヨがそっと目頭を押さえている。その髪にはちらほら白いものが混じっていた。
「貴方、勉三さんは貴方が託した夢に向かって逞しく着実に進んで行っているようですよ。ご心配なさらずに」
ミヨは、東京を引き上げて故郷に帰って来た勉三が病気気味と聞き、ずいぶん心を痛めていた。が、勉三を間近に見て心底ホッとしていた。彼女は、勉三の目の奥に強く光る輝きを認め、深い安堵を覚えていた。
「随分立派になって……。きっと主人も喜んでいることでしょう。私は貴方をずっと見守っていますからね」
ミヨはそれ以上のことは何も言わなかった。
その夜、勉三は三余土屋家の養子となって跡を継いでいた準次と酒を酌み交わし、農事について時を忘れて語り合ったことである。
今や立派な百姓になった準次は、彼の手がける田作り・畑作り・養蚕について熱心に尋ねる勉三の真意を測りかねたが、文明開化の首府東京で大学生活を送ってきた勉三が、片田舎で農事に忙殺されていた自分の仕事・職分に真剣な興味を寄せてくれたことが、ひどく嬉しかった。
こうして勉三の新しい生活が︱伊豆で製糸事業や各種興業を押し進める兄佐二平の片腕となって働く新しい生活が始まった。
(4)
「ゴォー、ゴォー」
西洋式糸繰り機が耳を聾するばかりの回転音を響かせている。
依田邸内に建設された最新式の糸繰り工場が動き始めたのは明治十年夏のことである。新式製糸工場に巨額の資本が投じられ、既に周辺農家も桑を植え、養蚕に転換を図っていた。郷土挙げての事業である。失敗する訳にはいかなかった。
佐二平は新たに雇い入れた工場支配人と共に経営の先頭に立っていた。
勉三に与えられた仕事は上州・常陸・信州・甲州一帯を訪れ、伊豆に適した養蚕の技術や飼育法、蚕種・桑樹種を学び、研究し、伊豆種の改良を進めることであった。
ところで、この伊豆の農山村で、本格的に養蚕と製糸業を興すよう最初に呼びかけたのは、近悳らを佐二平に紹介したあの足柄県令柏木忠俊である。
明治三年十月、新政府はフランスから技術者を招き、群馬に最新の設備を誇る富岡製糸場を建て、全国に生糸生産奨励を呼びかけた。これを受けた県令柏木は、当時伊豆南部の山奥で細々と自家消費用に行われていた養蚕・糸織りに目を付け、農家の副業として養蚕・製糸に取り組むよう訴えたのである。桑園の開拓にも援助を与え、群馬・福島からの蚕種導入を斡旋することも約束していた。しかし多くの農民は半信半疑で、なかなかこれに手を出そうとはしなかった。そんな中、一人佐二平だけがこの呼びかけに応え、「松崎や南伊豆を蚕糸の主要生産地にしよう」との決意を固めた。彼は三余先生の教えや伊助との約束を決して忘れてはいなかった。
︱もしここが蚕糸の生産地になれば農家に現金収入が入り、同時に輸出によって国庫も潤うだろう。勿論失敗もあり得る。多くの私財を失うかも知れない。しかし「至誠をもって事に当たらば何ぞ成らざるを憂えんや」だ。三余先生が仰った通り、仮に失敗したとしても至誠を尽くして行なったことであれば何ら悔いることはない。
佐二平のこの決断が伊豆松崎の養蚕・製糸業を興したのである。
明治日本にとって、海外輸出貿易によって外貨を獲得することは至上命令であった。その最大の手段・輸出品こそ外国人に珍重された日本の良質な生糸である。第二次大戦後の日本の外貨獲得の中心も繊維であったが、明治初期に生糸が外貨獲得に占めていた比重は、戦後の繊維のそれとは比べられないほど大きいものがあった。まだ「遅れた東洋の一小国」でしかなかった日本がいち早く世界の先進国欧米に追い付く為には、あらゆる産業分野で欧米から新しい機械を購入し、専門家や教授方を雇い、技術を学び取らねばならず、いくら外貨があっても足りないのである。もし国内で外貨を稼ぐ輸出品が作れなければ、外国からの借財は増える一方となり、独立国家としての存立の基盤さえ危うくなりかねない。
佐二平のこの挑戦は明治二十年になってようやく花開いた。伊豆・松崎製糸は富岡(群馬)・室山(三重)と並ぶ「日本三大製糸」の一つに数えられ、南伊豆の農家六千戸が蚕業に関わり、三千貫の繭を生産するに至った。しかもこの地で産出される繭は早場繭として相場形成に力を発揮した。品質の面でも米国・英国・伊国の博覧会で金牌・銀牌を獲得し、国際的にも高い評価を受けたのである。
佐二平が故郷の工女や農民にいかに愛されていたか、松崎にはそのエピソードが幾つも残っている。
工女の糸取り歌の一節には「大沢五十軒依田さんで光る依田さんなければ真の闇」と唄われ、佐二平が開いた大沢からバサラ峠を経て下田に至る街道は「嬉々街道」と呼ばれていた。後に女工哀史とうたわれる「機織工女」となった娘たちに会いに来た親たちは、娘が工場で喜んで働く姿を見て大喜びであった。その上、帰りには土産品まで渡され、皆嬉々として帰りの街道を下って行った。これを見て、村人がこの街道を「嬉々街道」と名付けたというのである。
また質素第一の佐二平は工女と同じ食堂で同じものを食べ、工女の訴えに耳を傾け、その待遇改善にも心を砕いた。さらに講演会などもよく開き、近くの寺の禅師や教会の牧師や学者の講話を聞かせ、時には自ら時局を語って聞かせた。後には、あのワッデル師を東京から招き、キリスト教や西洋の文化について聴かせてもいる。
勉三は佐二平の最も良き理解者であり、助手であった。勉三は佐二平の始めた事業を成功させるために骨身を惜しまず懸命に働いた。そしてその傍ら、将来に向けた準備を怠らなかった。蚕業調査研究の為に地方に赴く時は、そんな勉三にとって、絶好の機会であった。各地の百姓衆と交流し、農作農事について意見を交わし、時には実地に教えを乞い、知識を蓄えるチャンスだったからである。
掛川の友人からは、相馬藩士で二宮尊徳の弟子・助手であった富田高慶が著した『報徳記』の写本を借り受け、熱心に学んだ。荒廃した農村の復興を導いた二宮仕法には財政指導論とも言うべき側面と、開拓開墾事業指導論とも言うべき側面がある。勉三は後者の、中でも特にその農業哲学に関する言及を好んで読み返した。
しかし、後に触れるが、彼が本格的に尊徳の教えを学び、実践するのは十勝に入殖した後のことである。
(5)
「ああ、よく来てくれた。私のような古物は洋々たる前途を目指して歩んでいる君のような青年に会うと心が奮いたてられ、元気が湧いてくるのだよ」
保科近悳は涙を流さんばかりに歓喜して勉三を迎え入れた。三年ぶりの再会であった。既に五十歳になろうとしていた彼の鬢はすっかり薄くなり、顎鬚にも白いものが混じり始めていた。
明治十一年夏、上州への出張帰りに勉三が横浜の叔父鈴木真一・美遠子夫妻の家を訪ねると、宮司の職を失っていた近悳が偶々ここに身を寄せていた。
当時の近悳は政府方に「西南戦争において西郷隆盛の謀反に与せし疑いあり」とされ、都々古別神社宮司の職を解任され、不遇をかこっていたのである。
確かに近悳は西郷隆盛と連絡交流を持っていた。明治三年冬の雲井事件で弟陽次郎が捕縛された際、当時鹿児島にいた隆盛に、近悳は陽次郎と会津藩士の助命嘆願書を送っている。間を取り持ったのは海舟である。同じ西郷姓の誼もあったのか、
隆盛は「お申し遣りの件は都合よく相運んでいる故ご安堵なされ」と、丁重な返事を寄せ、近悳を感激させた。
結局陽次郎は刑死を免れはしたが十年の刑に処せられ、函館の獄に送られ、三年後に病死した。しかし、近悳は「賊軍会津藩士」に対して親切かつ丁重に対応してくれた隆盛に深い感謝と尊敬を抱かずにおれなかった。それ故に、隆盛が私学校の若者士族を率いて新政府に反乱を起こしたと聞いた時、「仇敵長州閥政府打倒の好機」と胸を躍らせたことは確かだった。
とは言え、「余生は主君容保公の守護に捧げる」と決意していた身である。その主君の容保が、新政府の「旧会津藩士は今こそ天子様を奉じる政府軍に味方し、この戦争に出陣して大功を上げよ」との号令に同意している以上、それに逆らって迄出撃することはあり得なかった。
ただこの頃、福島に来て神職見習いをしながら近悳から会津藩伝来の秘奥たる「御式内」(大東流合気柔術)を伝授してもらおうとしていた武田惣角が、西郷の意気に感じて鹿児島に下っていた。結局政府軍に会津藩士が多数参入していることを知り、やむなく引き下がらざるを得なかったのであるが、この惣角の西下が近悳嫌疑の因となったのであろう。
嫌疑を受けた近悳は潔く宮司の職を辞し東京に戻り、神田の医科大病院に入院していた息子吉十郎有鄰の介護に当たっていた。
有鄰は明治三年冬に函館を離れ、当時深川に住居していた近悳の元に身を寄せ、従兄弟の井深梶之助(後の明治学院総理)と交流を深めながら英学に励んでいた。明治四年に上京して来たかつての養父沢辺琢磨も援助を惜しまなかった。が、都会暮らしが合わなかったのか、二十歳の時、胸の病に冒されて、今や命が危ぶまれる程重い病状にあった。
師近悳は職を失ったばかりか、さらに継嗣をも失わんとしていた。勉三の目に肩を落とした小柄な古武士近悳が一層小さく見えた。自分の心の奥にしまってあった密かな渡北計画を、この近悳にだけはそれとなく伝えておこう、勉三にはそう思われた。
「先生、私は先生のお話に触発され、北海道原野の開拓に挑む決意を固め、密かにその準備を進めているところです。いずれ全ての計画を公にするつもりでおりますが、渡北する時が来ましたらその時はどうかまたお力添えください」
近悳の顔が一瞬輝き、頬にさっと赤みがさした。
「そうか。そんなことを…。勉三君ならきっとやり遂げることができるだろう。その時が来たら必ず一報を呉れたまえ。北方には知り合いも居る故、何か役に立つことがあるやも知れぬからのう」
その夜、感激した近悳は筆を執ると一気に「館林幽囚之詩」を書にし、勉三に贈った。
この詩は箱館五稜郭戦に敗れて館林藩お預けになった明治二年九月、死を覚悟した頼母近悳が、箱館の沢辺琢磨に預けて来た愛息吉十郎有鄰を想って詠ったものだ。
その長詩の最後はこう結ばれている。
請う看よ人生は燈火の如きを
百に満たざるの齢半ばまさに傾かんとす
ただ願わくば豚犬の少し事を成さんことを
君に託す他日成るやならざるや
これを詠んだ日から既に九年が経とうとしている。その昔、北に置いて来た「豚犬」︱即ち愛息吉十郎―も、今は病の床に伏し、明日をも知れぬ境遇にある。
︱息子に託した夢をこれから北に向かうという勉三に託そう。
それが書を贈る今の近悳の正直な気持ちであった。
結局息子吉十郎有鄰は、この翌年の明治十二年八月、父の必死の介護も空しく神田医科大病院で息を引き取る。二十二歳の若さであった。
期待の継嗣を失った近悳の落胆は計り知れないものがあった。吉十郎は会津戦争で一家自刃という非業の最期を遂げた保科一族の頼みの嫡子であった。生き残って新しい世に大きく羽ばたき、功を遂げ名を上げて欲しかった。それが近悳の唯一の願いであったのだ。
明治十三年二月、隆盛に与したとの疑いの晴れた近悳は主君容保に従って日光に赴き、東照宮の禰宜に就く。容保を支えるという念願がようやく叶ったのである。
彼は日光からしばしば勉三に手紙を寄せ、勉三を励ました。最後の頼みの綱であった息子を失った父親にとって己の夢を継いでくれる勉三はわが子同然であり、心の支えであったに違いない。
第七章 巡り合わせ
(1)
「勉三、豆陽中学の洋学教員に渡邉氏を誘ってはくれまいか」
明治十一年夏、兄佐二平からの相談であった。
下田蓮台寺に新しく発足する中学の英語教員として、ワッデル塾にいた渡邉勝を招くことが正式に決まった。このことが、勉三にはこの巡り合わせが何か運命的なものに感じられ、渡北の夢が急に近づいて来たように思えてならなかった。
前年の春あたりから、南伊豆一帯では中学校建設問題が大きな話題になっていた。切っ掛けは、伊豆北に当たる静岡県第九区に韮山中学が出来たことであった。
「県から伊豆国全体に予算が出ているというのに、北にだけ中学が出来て南に出来ないのは不公平ではないか。山奥だからいらないとでもいうのか」
南豆人の言い分であった。伊豆半島の真ん中に天城山系がでんと座り、それによって半島は南北に仕切られている。この天城山の南側︱南伊豆は、表街道東海道に近い北伊豆からするといかにも「僻地」であり、「山奥」である。
松崎・大沢等の那賀郡、下田・蓮台寺等の賀茂郡からなる南伊豆の第十区の人々、とりわけ教育に熱心な住人にとって中学建設は重大な問題であった。小学校を卒業した子供を上の中学校にやろうにも韮山はあまりに遠かった。もし韮山まで通わせるということになると寄宿させるほかない。かなりの出費が求められ、そう容易く進学させることは出来なくなる。しかし中学にはぜひ行かせてやりたい。何としてもこの南に一校開かねばならない。
佐二平は三余の教えを忘れてはいなかった。
「三余先生なら、向学心に燃えた若者の才能を朽ち果てさせるようなことは決して許すまい。何としても南豆に中学を建てよう」
三十一歳とまだ若かった佐二平らはそう決断すると、直ぐに勉三に相談を持ちかけた。当時、佐二平は県議会では副議長を務め、大沢では製糸工場の操業を進めており、身動き取れない状況にあった。勉三が片腕となって動かねば到底実現不可能な企てである。勿論三余塾門下生の勉三自身にとってもやりがいのある仕事であった。
佐二平と勉三兄弟はこの計画を真っ先に地元の社交親睦の会である「共和会」に持ち込み、ここをバックに南伊豆一帯にこの運動を広げていくことにした。勉三にはある予感があった。将来北海道開拓事業に乗り出していく時、それをバックアップしてくれるのは三余塾門下生の集うこの「共和会」のメンバーに違いない、と。彼等の信頼を得たいと欲する勉三にとってもこの中学建設運動は願ってもない絶好の機会であった。
既に明治九年に郷里松崎で設立されていたこの「共和会」は「社員の親睦、地方の公益を図り、弊風(古臭く悪い風習や風俗)を正し、適切な事業があればその主唱者となり、実行の労をとること」を会の目的としていた。非政治的結社で、その中心に立っていたのは、依田松崎分家の塗り屋跡取りで弱冠二十六歳の依田善六(幼名は園)。他に塗り屋分家中瀬の依田直吉、東京帝大で薬学を学んで帰郷し、実家の薬舗を営んでいた近藤平八郎、塗り屋分家浜店の依田又四郎、佐二平妻実家の奈倉惣三らがいた。帰郷してすぐ勉三もそのメンバーになっていた。村外に出ることの多かった佐二平はメンバーにはなっていなかったが、年に四回開かれる演説会・講演会には参加し、講師を務めることが多く、明治十二年に社員になっている。
後に、会は「豆南社」と名を変え、以後三十七年間にわたって郷土の発展に尽くした。彼らは皆三余塾門下生であり、三余薫陶下の青年たちであった。
さて、この中学創設運動の先頭には人望の厚い佐二平と経営実務能力に優れていた大野恒哉、区長木村恒太郎らが立ち、実働部隊は勉三が担った。
大野は三余塾で学んだ後、三余の薦めで江戸の東條一堂に師事し、幕末には塗り屋の園(善六)と共に韮山江川氏の下で農兵隊に入っていた。故郷に帰ってからは牧場を開いて牧畜業の先駆をなし、地租改正問題でも佐二平と共に運動の先頭に立っており、勉三の良き理解者でもあった。
勉三は南伊豆一帯を駈けずり回った。運動は下田・南伊豆海岸一帯にも広がった。明治十一年の夏には「いよいよ年末には開校できる」というところまで漕ぎ着けた。
この頃には、新しく創立される学校では洋学、即ち英語授業に特に力を入れていくことが決まっていた。それで「中心となるべき洋学指導の教員としてぜひ渡邉氏を招きたい」ということになったのである。
(2)
明治十一(一八七八)年七月︱
勉三は桜田鍛冶町(現在の西新橋一丁目十七番)の一角に新築されたばかりのワッデル師の教会堂に勝を訪ねた。既に手紙で洋学教師依頼の件については知らせてあった。上州の養蚕技術講習を済ませた帰り、その返事を聞きに立ち寄ったのである。
ワッデルと勝はにこやかに勉三を迎え入れた。
「勉三さん、洋学教師の件、オーケーですぞ。ワッデル先生も快く承知してくれましたぞ。わしはなんと言っても十円という月給に惹かれたいう訳だがね。英国へ遊学するにはまず先立つモノを貯めないとね。ははは」
相変わらず勝らしい言い方であった。
勉三はホッとした。
「勝クン、牧師ニスルニハ、少シ惜シイ人ネ。型ニハマラナイ人ダカラ、モット自由ナ生キ方ガ向イテイル。彼伊豆ニ福音ノ種ヲ播イテ、私時々行ッテ育テ、刈リ取ル。コレガ一番ネ」
さすがにかつて乞食のような格好で教会に飛び込んで来た勝を寄宿させ、ポンと六円を貸し与え、身なりを整えさせ、周りをびっくりさせた師である。勝の気性をよく見抜き、彼の将来を真剣に考えてくれていた。
勝はワッデル先生に拾われてから一年後の明治十年正月、早くも洗礼を受けている。教会から日用入費として月額六円を貰い、ワッデルの英学教授を手伝いながら聖書を学び、同時に師の聖書翻訳事業に協力していた。
また受洗するとすぐに名古屋の父母の元を訪れ、弟律平への家督相続を確かめ、ワッデルの下で牧師として生きていく許しを得ていた。
その上で、明治十年十月には新しく発足したばかりの築地の神学校︱「東京一致神学校」(後の明治学院大学)に特別生として入学し、牧師の資格を取る準備を始めていた。
新しい教会堂を建てたばかりであったワッデル師は、勝の協力を得て教会と英語塾を大きくし、やがては勝を欧米に留学させ、日本における福音主義キリスト教の布教と英語学校設立の中心に立ってもらおうと考えていた。だから当然、勝の伊豆行きについては師弟共々随分悩んだはずである。結局、勝の豪放磊落、酒好きで、幾分野放図な性格をよく承知していた師は、彼を野に放った方が彼らしい人生を送れるであろう、と思うに至ったのである。
勿論この時、師もその弟子も、勉三が北海道開拓の夢を抱いていることも、勝を開拓同志に迎えたいと望んでいることも全く知らない。勝が北海道の奥地十勝野の原野に入って、開拓の鋤を振るうことになろうとは夢にも思っていない。
「先生、本当に、本当にありがとうございます。私も伊豆で勝君や先生の説教を聞きたいと思っています。先生もぜひ伊豆にお越し下さい。大歓迎します」
勉三は後にこの約束をきちんと果たした。勝はしばしば共和会主催の演説会の壇に登り、ワッデル先生もまた三度にわたって松崎・大沢を訪れて演壇に立ち、聖書を講じた。
(3)
ワッデル先生夫妻が勝の前途を祝して宴を張ってくれた翌日、勉三は北行を共にすることになるもう一人の友と運命的な邂逅(巡り合い)を果たすことになる。
「はじめまして」
築地の東京一致神学校の勝の友人、鈴木銃太郎は背筋をピンと伸ばし堅苦しく頭を下げた。まだ二十一歳で勉三より三つ、勝より二つ歳下であったが、早くに洗礼を受けていた。いかにも神学を学び、将来牧師になることを願っている青年らしく、ひたむきで真面目さが溢れていた。
伊豆に去る前に、銃太郎を勉三に引き合わせたかったのは、どうやら勝のようであった。自分が最も親しく付き合っている二人である。かねがね引き合わせたいと思っていたのであろう。
銃太郎と勝は、明治十年十月に新しくできた築地の神学校で半年以上一緒に机を並べて学んだ同級生である。銃太郎には二つ歳上の勝が時として弟のように思えることがあった。勝は後に銃太郎の妹カネと結婚し、彼とは義理の兄弟となり、北海道の奥地で共に鍬を振るい、苦楽を共にするのだが、この頃既に銃太郎は彼を実の兄弟のように思っていたのである。
勝とワッデル先生との出会い、勝の信仰動機の話を聞いた時には「あまりにも荒唐無稽な話だ」と、銃太郎は呆れ返ったが、しかしそんな勝に好感も抱いた。無邪気で開けっ放しの性格が、生真面目で羽目の外せない長男特有の性格に固まっていた銃太郎には、羨ましくまた好ましくもあった。
それ故、勝から神学校を辞めて中学校の、それも遠い南伊豆の洋学教師になると聞いた時、銃太郎はびっくりもしたが、いかにも彼らしいとも思った。
その夜、勝が勉三と銃太郎の二人を案内した先は、かつて勉三と席を囲んだことのあるあの飯屋だった。当時からワッデル塾の者はこの飯屋の弁当を使っていたが、勝はここを我が家のように使っていたのである。
三人が会うのはこの日が初めてであったが、この時ひょんなことから「北海道移住」の話になり、勉三を驚かせ、かつ楽しませた。
「寮を追われ、塾を追われ、借金を催促された時、俺は西郷さんのいる薩摩に逃げて行くか、北海道に行って屯田兵にでもなろうか、と真剣に考えていたのだ」
明治九年春、巷では「薩摩の旧士族たちが征韓論に敗れた西郷さんを押し立て、新政府に反旗を翻すのでは」との噂がしきりに口の端に上っていた頃である。
「勝さんは南へ行くつもりだったの? それとも北へ?」
銃太郎が真面目な顔で質した。
「北だね。士族が士族として何かをする時代は終わったが、北には没落士族の恰好の働き場所があった。北の守り役だ。ロシアの南下は本物だ。北海道か満州か韓半島か、いずれかが狙われるだろう。最後は武力勝負になる。俺は西郷さんが北海道に屯田兵や鎮台の創設を唱え、韓半島に影響力を作り上げようとしていることには賛成なのだ。しかし、国はまだひ弱で立ち上がったばかりの赤子だ。国を強くするのは武だけでなく、財力・技術力・政治力・外交力もそうだ。北海道には広大な原野があり、資源も豊かに眠っていると聞いている。武と農との結合︱まさに屯田兵の育成こそが必要だ。国の内で争っている時ではない」
「ははは、面白い。私の父も全く同じことを言っています」
士族という立場を払拭し、あくまでも親の影響で敬虔なクリスチャンになっていた銃太郎には父親や勝のような熱い愛国の情はない。
「そんな俺が北へ行くのをやめて、キリスト教信徒になったのは、ワッデル先生のような人物に会い、日本というこの国を土台から鍛え直したいと思うようになったからさ。新政府工部省の官吏と教員は、規則を振りかざして青年の熱情に冷水を浴びせ、貧窮青年に矢のように借金返済を求め、容赦なく街頭に放り出した。それに比べて異人ながらもワッデル先生の人物の大きさはどうだ」
キリスト教信仰の普及を通じて、この日本に幸福な千年王国を創り上げたいと真面目に願っていた銃太郎も、「彼ハヤハリ野ニ置イタ方ガ良サソウデス」と語ったというワッデル先生の判断が正しいと思わない訳にはいかなかった。
この夜、普段どちらかと言うと寡黙な勉三であったが、彼らに郷里伊豆松崎のこと、三余先生のこと、農民として農を通じて国に益する生き方をしたいのだということ、今は伊豆で兄の養蚕製糸事業を手伝っているが、いずれはわが道を求めていきたいと思っていること等々を率直に語った。
がしかし、彼はこの夜も自らの北海道開拓の夢について語ることはしなかった。いつか必ず北海道開拓を現実の事業となし得たその時にこそ、彼らと思う存分語り合おうと心に決めていたのである。
銃太郎は、勉三が慶應義塾を退めてワッデル塾に入学し、そこで勝と出会ったことを聞いた時、さも不思議という顔をして尋ねた。
「依田さんはどうしてせっかく入られた義塾を退めてしまわれたのですか?」
貧乏士族の息子銃太郎にとって、それは考えられないことであった。
「私は新政府に勤めたいとか、この東京で何か事業を興したいとの希望をもっているわけではありません。農を通じて国に尽くしたいと、ただそう願っているだけです。英語を学びたかったのも西洋の農業事情を知り、その優れたところをこれからの日本の農業に活かしたいと思ってのことです。出来たら外国に行き、直接西洋の農業現場に触れてみたいと願っていました。ですからワッデル先生の塾の方が、私の留学に必要な語学を学びたいという目的と要求に合っていた、ただそれだけのことです」
「西洋の農業について学ばれるのですか?」
銃太郎はいかにも感に堪えないといったふうに驚きの声を発した。
「でも少し体調を壊したこともあり、故郷に帰ってつらつら考えた結果、西洋の農学を学ぶ前に自分の足元の日本の農業についてもっと学び、深く考えてみることが大切と思うに至ったのです。それにわざわざ留学せずとも、欧米人が欧米の農法の観点から日本の農地農耕について研究した書物やレポートも出始めていますから、なおさら自分の足元をしっかり見詰めたいと思うのです」
銃太郎は、三歳上だという勉三のその揺るぎない決断、確固たる判断に驚きを禁じえなかった。
「なんと頼もしい人物であることか」
銃太郎は勉三に強く惹き付けられるものを感じていた。
銃太郎が勉三に強い興味と関心を抱いた大きな理由は、実はその農の問題にあったのである。銃太郎にとって、というより鈴木家にとって、農の問題とりわけ養蚕問題は特別に強く興味を惹かれる問題であった。
「人はもともと皆百姓だったのであるから士族が廃止された今、よろしく農に帰するのが人の道であろう、というのが私の父の考えでした。私はそんな父と一緒にかつて養蚕を試みたのですが、思うようにはいかず、方々に大変な迷惑をかけてしまいました」
銃太郎は、こうした話題に強い関心を示した勉三に心を許し、問わず語りに自分の身の上についても縷々語った。
銃太郎の父鈴木親長は元上田藩士で、藩の財政改革に腕を振るい、武芸校大目付や藩校舎監を務めた藩の進歩派であった。まだ九歳の松平忠礼を藩主に戴かねばならなかった上田藩は藩内抗争が激しく、維新において新政府側についたものの、何ら功をなしえなかった。明治四年の廃藩置県の際には忠礼は免官となり、鈴木家もまた禄を失った。
明治五年、忠礼は早くから留学を計画していた弟と共にアメリカへ渡ってしまい、残された藩士たちは自分で自分の身を処する外なかった。四十二歳で家禄を失った親長は、妻直と長男銃太郎・長女カネ以下六人の子供を連れて東京に引っ越し、駒込に住居を定めた。「士族帰農論」の信奉者であった親長はそこで養蚕を営むことにしたのである。
当時故郷の上田では篤農家が「青白」という黄緑色の繭種を発見し、欧米人の間で爆発的な人気を博していた。親長はこれに目を付け、上田に在った妻の実家鈴木家配下の助けを借りて養蚕業に乗り出したのである。因みに妻の直は藩の奥女中に上がっており、親長は主命によって鈴木家へ婿入りしている。
親長の「武士の商法」ならぬ「武士の農法」はたちまち失敗してしまう。元々蚕種管理は難しい作業で、「武士の農法」で間に合うものではなかった。新政府の高額税制も祟り、多額の負債を抱えて事業は挫折。金銭的に支援してくれた妻の実家からは「己が才を鼻にかけて、せっかくの忠告にも耳をかそうとしない」とその失敗を責められ、夫婦仲までおかしくしていた。
明治六年正月、この挫折で「新しい時代」を乗り切って行く自信を失った親長は藩主の弟松平忠孝を頼った。そしてその忠孝から築地六番町の日本基督公会の伝道牧師タムソンを紹介され、その教えを乞うようになる。藩主兄弟のアメリカ留学という新しい生き方に影響を受けていたこともあった。
「欧米化された新しいこれからの世の中を生きていくためには、英語かキリスト教か、どちらかを自分のものにすることがぜひとも必要となろう」
進歩派親長はそのキリスト教を自分の道として選んだのである。しかし、こうした選択の困難さは現代のそれと比べものにならない。この頃の日本にはまだ「禁教令」が布かれていて、キリスト教は「邪教」として忌み嫌われていた時代である。
明治新政府の目には「キリスト教は欧米のアジア進出の先兵」と映っており、これを許すならば天皇親政体制が蔑ろにされ、日本国が欧米に侵蝕されかねない、という不安があった。徳川幕藩体制の否定は、それを支えていた官許儒学・朱子学の否定であり、一般士族の拠って立つべき精神的バックボーンの否定であった。欧米植民地主義の餌食になることを恐れていた新政府が、その精神的空白へのキリスト教浸透を恐れたのは当然であった。そこで、明治新政府は新しい国家の精神的支柱を「天皇を神と仰ぐ神道信仰」に求め、神道を「国教」とする方向へ、急速に突き進んでいくのである。
危険視されたのはキリスト教だけではなかった。徳川旧体制の保護者であった仏教、特に東本願寺も目の敵にされた。明治元年三月、新政府は早くも「神仏判然令」(神仏分離)を打ち出し、これによって「廃仏希釈運動」が高まって行く。
*廃仏毀釈運動…本来は神仏混淆を禁ずる程度のものであったが、一部の熱烈な復古神道家らによって寺院・仏像を破壊する過激な運動へと発展し、全国に十万余あった寺は半減させられ、多くの貴重な仏像・文化財が失われた。
しかしこうした過激な廃仏毀釈も仏教界が「恭順の意」を示し、新政府への協力を誓う中、やがて静まっていった。結局は明治政府も、明治六年二月、正式に「キリスト教禁教令」を廃止するほかなかった。キリスト教徒への迫害・弾圧は欧米との間に軋轢を生み出すばかりで、逆に危険を生じさせかねなかったからである。
まだ「禁教令」の高札が立てられていた頃、聖書を初めて読んだ親長は、
「イエスが人の罪を贖う為に自分の身を犠牲にしたというのは、仮に作り話であるにせよ道理があり立派なことだ。武士道と相通じるものがある」
と、その高い精神性を評価していた。
異国人である宣教師タムソンが、神の国について語るだけでなく同時に日本の国の幸福を祈ってくれたことも、大いに気に入ったようだ。
明治七年四月、親長・銃太郎父子は横浜にあった日本基督公会でタムソンの洗礼を受けた。禁教令が解かれ、キリスト教に対する関心はかなり広まっていたが、まだ信徒になる者は決して多くはなかった時代のことである。親長はしばらくの間故郷の信州上田を訪れ、「聖書売りさばき人」となって信仰の種蒔きをしている。
明治八年八月、師のタムソンの紹介で一家は横浜に移った。親長は横浜公会の執事を務め、銃太郎はブラウン塾に入って英語を学び始めた。娘のカネもまた横浜のミッション女学校に入り、横浜公会で受洗した。
受洗当時、十八歳、十六歳とまだ若くしかも生真面目な性格であった銃太郎・カネは親長とは少し異なり、キリスト教の説く博愛主義、伝道師の奉仕的な生き方そのものに強く惹かれていた。
ところで明治五年二月に、横浜に最初の教会として設立された日本基督公会は日本の風土に合わせて作られた独特の教会であった。それは福音主義を唱えるプロテスタント各派が集まって作った教会で、日本の宗教的風土や禁教制度を考慮し、宗派の違いに囚われず大同団結し、伝道だけでなく語学教育や医療活動への貢献も熱心に行なった。
*福音主義…あくまでも聖書に記されたキリストの生涯・言行を信仰の中心に置き、戒律や儀式や伝統等にあまり縛られないとの教え。
その公会が、明治十年十月、築地に新しい神学校︱東京一致神学校を設立し、銃太郎が学んでいた横浜ブラウン塾もそこに合流する。将来牧師になるべく勝も銃太郎もそこの第一期生となり、ここで二人は出合い、友情を深めていったのであった。もっとも勝が先に意気投合したのは、銃太郎の方ではなく、やはり豪胆で酒好きだった彼の父親長の方であったのだが。
勉三は、銃太郎や勝から親長の人となりを聞きながら、
「親長殿にはいつかぜひ会ってみたいものだ」と心から願っていた。
勉三は、この夜、勝にも銃太郎にも「ケプロンレポート」のことや「北海道開拓計画」についても何一つ語らなかった。それは、何らまだ具体性をもたないこの計画を「人に語るに値しないもの」と自らが見なしていたからである。
勉三のような実際的人間ならではの判断ではあった。
飯屋の祝宴がすっかり盛り上がった頃、突然、手伝いの娘が、「呑んでばかりいたら駄目だ。そろそろ飯を運んでくるぞ」と言って飯台の上を片付けだした。
一ヶ月ほど前から店に出てきて手伝いを始めた、ここの亭主の十四歳になったばかりのヨウという名の孫娘である。父母を相次いで亡くし、店主である祖父の手伝いをすることになったのだ。健気にも淋しい素振りを見せたことがなかった。爺さんはぶっきら棒な言葉遣いを直そうとしきりに注意をするのだが、全く効き目がなかった。しかし馴染みの客は皆言いたいことをまっすぐに言うこの娘が気に入っていて、時々甘いお菓子などを土産に持ってくる者もいた。
ヨウが食事を持って来ると、勉三はどんぶりに盛られたご飯の一部を予め空いた皿に移し、それから箸をとった。これを見て、彼女は怒ったように大声を張り上げた。
「うちの店のご飯がそんなにまずいのか!」
調理場の爺さんがこれを聞きつけ、慌てて飛び出して来た。
「これこれ、依田様に何ということを言う! 全く礼儀知らずの娘で申し訳ありません。それにしても依田様は、以前お取り下さった弁当もそんな風に綺麗にお取り分けなされ、後始末に私どもが頂いておりましたが、なぜそのようなことを?」
「いや、なに、大したことではないのだ。今日は酒を飲んでおり、無理して口腹に押し込むのも勿体ないので、こうして空いた皿に取り分けておいて店に返そうと思ってね。百姓が日々泥にまみれ、汗水流し、大雨大風を心配しながら、お天道様とお田神様の力添えを頂き、天地自然の恵みを賜って産した米は天下の宝であり、決して私したり粗末に扱うべきものに非ず。これが私の師の教えだったのでね」
この話を聞いた飯屋の爺さんは、
「有難い、実に有難い」と、二度三度額を床に擦り付けんばかりであった。
孫娘のヨウはこの光景を神妙な面持ちでじっと眺めていた。
「偉い! 依田さん、あなたは本当の農士だ」
勝は、いかにも感に堪えないといった風に唸り、銃太郎も深く頷いた。
それからも時々勝と銃太郎は連れ立ってこの飯屋に通ったが、あれ以来ヨウの所作や言葉遣いががらりと変わり、驚くほどお淑やかになり、周囲の微苦笑を誘っていた。勝が「俺の嫁にならんか」とからかうと、この時ばかりは「大酒飲みは嫌いよ」とはっきりとした物言いをするので、客は一斉に大笑いしたものだった。
第八章 時節到来
(1)
明治十二(一八七九)年一月︱
いよいよ私立豆陽中学(後に賀茂郡立豆陽中学︱静岡県立豆陽中学︱県立下田第一高校︱下田北高校に改称し、現在県立下田高校)は開校の時を迎えた。
校舎は蓮台寺山崎にあった旧第十区議事堂である。和洋折衷で、玄関屋上にバルコニーが付いた、大きな二階建ての堂々たる構えの校舎であった。郡役所が下田に移り、そちらに新しい議事堂が創られたため、この建物を校舎に使うことになったのである。
まだ県の認可を得るに至ってはおらず、生徒も佐二平の末弟や長男など那賀郡から来た四人だけであったが、とにかく開校を先行させた。いずれは正式な認可を受け、やがては公立中学に格上げすることが計画されていた。
初日、勉三は頼山陽の『日本外史』を論じ、三余先生譲りの至誠の哲学︱「自らの天分を発見し、真心をもって実行実践せよ」という教えを説いた。正規の教員ではなかったが、漢学を教えることになっていた教員の赴任が遅れていたため、臨時に教壇に立ったのである。
勝は英語教材『ナショナル・リーダーズ』の一節を流暢な英語で読み上げ、田舎の少年たちの度肝を抜いた。
この年の八月、豆陽中学は県の正式認可を受け、生徒数も三十名を数えた。が、正規教員は英学と漢学を担当する二人だけだった。県からの予算二百六十円ではこの二人の人件費が賄えるだけだったからだ。年間二百二十円程の不足が出たが、この不足分については南豆の有志百二十名の熱意と善意がこれを支えた。
大正六年一月にこの地を訪れた大辞典「言海」の著者大槻文彦博士は「かかる僻地に中学のあること不審なり」と滞在記に記しているが、それほどにこの地における中学設立は尋常ならざる出来事であった。
いずれにせよ、この明治十二年という年は勉三にとって、勉三の渡北計画にとって極めて意義深い年となった。何故なら、一つにはいずれは北海道開拓の同志として迎え入れたいと考えていた勝が伊豆で仕事に就き、勉三との友情をさらに深めることが出来たからであり、二つには将来同志となるべき銃太郎・親長父子との交流を持つことが出来たからである。
更にもう一つ重要な出来事があった。開拓使外事課が『開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文』の翻訳本を出し、待ちに待ったその書を遂に入手出来たことである。
日本語に翻訳された『ケプロン報文』は五百六十ページに及ぶ大冊であった。勉三は夜遅くまで、大沢の実家の離れに籠り、那賀川のせせらぎを聞きながら分厚い報文に読み耽った。四年前、義塾の書庫で初めてその一部に接した時の感激が再び蘇って来た。
この報文はアメリカ南北戦争から僅か六年後に書かれている。それ故に、北軍の勇者ケプロンが著したこの報告文には、奴隷解放を実現させた自由闊達な平等精神と、理想主義的なフロンティア精神の息吹が漲っている。その精神が勉三の魂を捉え、蝦夷地開拓へと突き動かしたとも言える。
ケプロンは力強く、確信を持って、こう断定している。
「本島の実価(掛け値なしの価値)あるや、天然の物産に富み、漁労あり、鉱属あり、地味沃饒(肥えていて作物がよく採れる)、気候清和(陰暦四月の季節のような穏やかさ)にして且材木あり。加うるに佳港(良い港)、良河ありて他邦(外国)と交通するに便あり。是をもって開拓の法そのよろしきを得ば、世界中最上位に位せんこと必定なり…」と。
―北海道はそれ程に素晴らしい土地なのだ。なんとしてもこの北辺の大地の開拓をやり遂げ、国の役に立ちたいものだ。
勉三はその思いを改めて強くせずにはいられなかった。
ケプロンと米国人顧問が行なった調査と提言は実に多岐にわたっている。地形・地質・鉱山の調査と測量、道路・運河・航路・鉄道の開削と敷設計画、村落・市街の区画、農業・牧畜・漁業・鉱業の振興計画立案と実行、民間資本や外資導入案、畑作・酪農を中心とした洋式農法の導入、農林水産物の加工・生産、外国人技術者の導入・雇用と移民法の制定、生活文化の改良にまで及んでいた。
当時日本、特に南国地方では、
「蝦夷は凍土の地でとても農作物を育てることなど出来るはずがない」
「羆や狼がうろうろしているとかで、とても普通の人間の住めるところではないそうだ」
「流刑地の蝦夷には恐ろしい囚人がうようよしているというではないか」
などといった風説が広まっていた。
英国人探検家や旅行者なども、しきりに「蝦夷地は亜寒帯に属し、シベリアの気候である」とし、「農業地不適論」を英字紙に発表していた。もっともこれは英国の米国牽制キャンペーンの一つであったのだが。
こうした風説や俗論が今後の北海道開拓計画を進める際に大きな障害として立ちはだかるであろうことは、十分予測できたことである。報文訳本の中に「気候清和なり」、即ち「陰暦四月の季節のような穏やかさである」など多分に創作気味の訳文が出てくるのも、その辺への配慮からであろう。
ケプロンは、英人報告を念頭に置き、緯度的に北海道より北に位置する欧米の農業地の例を引きながら、繰り返し「農業地不適論」に反駁していた。開拓使庁も、あちこちで既に函館・室蘭・札幌の各地で開拓が進み、道路が開かれ、畑に麦・馬鈴薯・玉葱が植えられ、牧場に牛馬が放たれているとの報告を広めていた。ただ、報文には「日本人主食の米は適作でない」との記述があり、「牧畜を盛んにし、麦を植えつけ、主食を麦粉から作られるパンと肉を中心とする洋食に切りかえていく事でこの問題は解決できる」と提言されている。
ー米が出来ないというのは本当のことであろうか。実際に蝦夷地に行って、現地の気候風土や土地柄をこの目で見ることが何よりも大切なことだ。
勉三はそんな思いを強くしていた。
(2)
勉三がこんなふうに北海道開拓の夢で頭を一杯にしていることを知ってか知らずか、時を同じくして勉三の結婚問題が持ち上がってきた。
勉三は既に二十七歳になっており、この結婚話は突然に持ちあがって来たというものではなかった。つまり、結婚相手は前々から松崎分家塗り屋のリクと決まっていて、そのリクが今年十八歳になり、適齢になったということから「具体的な話」になったのである。
勉三とリクの組み合わせは、佐二平がリクの姉フジと夫婦になり、そのフジの弟善六が佐二平の妹ミサと夫婦になった時から、何となく周囲の口の端に上り、やがて暗黙の了解事項となっていた。
依田家に限らず、この地方の旧家では、分家を出し、その分家と本家の間でお互いに養子・婚姻関係を結ぶ例が多かった。一族の間で土地財産を守り、継承していくという一つの智恵、仕来りでもあった。
勿論近親結婚の弊害もある。後に、蒲柳の性質に生まれた愛息俊助が僅か二歳で早死したり、開拓に協力した兄弟が若死にしたり、リク自身も病弱だったりしたという不幸はそれと全く無関係だったとは言えない。
「婚姻の儀は今年の四月五日に」︱こうした申し合わせを最も熱心に推し進めたのは、塗り屋の当主でありリクの兄であった善六である。
善六は佐二平と並ぶ「三余塾の逸材」といわれ、塾を卒えた後、韮山の江川氏の農兵隊に参加したこともあり、周囲から「至誠にして剛毅果断の人」と称されている人物であった。
その善六は、「共和会」を主催しながら勉三の働きをじっと傍らで見てきた。そして、この男は狭い郷土でなく、いずれもっと大きな世界に出ていって何事かを成し遂げる人物になるに違いない、という期待を寄せるようになっていた。それだけにこの結婚を契機に、勉三が新しい人生を切り開いていくことを強く願ってもいた。
「気心の知れ合ったリクが家庭を守ればこそ、勉三も思い切ったことが出来るはずだ」と。
勉三もリクとの結婚をごく当たり前のことのように考えていた。自然の流れであった。また、自分が北海道開拓に入る時は当然一緒に行くものと決めていた。それがリク自身にとってはどうかということについては、考えてもみなかった。「夫唱婦随は当たり前」という封建的な道徳観からそうであったということだけではない。ケプロンの報文を読み、ますますこの開拓計画に熱中していた彼には「反対される」という意識がほとんどなかったのだ。
「きちんと調査をし、しっかりとした計画案を持てば、誰しもが賛同してくれるはずだ」
彼はそう考えていた。
ある意味では、こうした思い込みがあればこそ開拓という難業難事が成し遂げられたとも言える。しかしこうした激しい「思い込み」がまたその後数多の「行き違い」を生む原因になっていったことも事実である。
リクもまたこの結婚を極めて自然のことと受け止めていた。三余夫人のミヨからは「勉三さんは無口なだけに一層その心に深く一途さが蔵されている」と聞かされ、兄善六からも「将来が期待される男だ」と聞かされていた。しかし、先々のことなど考える余裕などなかった。夫となる人は九歳も年上である。十八歳の娘にはまだ勉三を理解するだけの才知はなかった。ただ「この人の下で一所懸命尽くそう」と固く心に誓うばかりであった。
結婚式は極めて質素なもので身内が参列しただけである。総領息子の場合はそうもいかなかったが、田舎の次男三男の結婚式は大概そうしたものであった。「質素・倹約・正直」を家風にしていた依田家一族の場合は特に質素を極めていて、佐二平や善六の結婚式も驚くほど簡素なものであった。
勝は、勉三から二ヶ月も後になって婚姻した事実を告げられ、さすがに驚いた。
「水臭い、予め知らせてくれればお祝いでもしたのに……」
そう愚痴を零しつつも、「いかにも依田家の家風らしい」と苦笑いした。
しかし、この結婚は勉三に自分の年齢というものを強く意識させ、渡北開拓への意欲を一層掻き立てた。
この年の四月末、政府から「北海道送籍移住者渡航手続」が出された。これによって「送籍(転籍)者」には家作料・種子料・農具を支給し、開墾地の私有を認め、七年間は税を猶予するという従来からの保護に加えて、更に渡航費用が助成されることになった。この記事に接した勉三の目には、ケプロン報文の翻訳本発行といい、今回の決定といい、いかにも新政府が北海道開拓を急務とし、一層力を入れ始めたように見えた。
またこの明治十二年の十一月、横浜で第一回生糸・繭共進会が開かれ、松崎繭は高評価を受け、松崎一帯の養蚕・製糸事業もようやく軌道に乗り始めた。
そして、翌十三年春︱共和会の中で、前年から正式に会員に加わっていた佐二平の提案で、新たに松崎︱沼津︱下田︱横浜の航路開発が論議にのぼり始めていた。
「どうやらここでの自分の役割は、もう果たし終えたようだ。そろそろ渡北計画に向けて動き出しても良さそうだ」
勉三は心の中でそう思い始めていた。
(3)
明治十三(一八八〇)年夏︱転機がやって来た。
大沢村共有の入会地に低木・雑木が生え茂っている荒地があった。あまりにも山奥にあり、使い道のない原野であったため、地租改正の折にもついに国有化されなかった土地である。日ごろ治山治水の重要性を訴えていた佐二平の発案で、ここを開墾し、そこに数千本の杉苗を植えることになった。いつものように資金の大半は佐二平が負担し、村人の負担は僅かなものであった。佐二平は自らを誇ることなく、
「こうして村人が協力し合えば、山や水源や下流地が洪水から守られるだけでなく、後世の大沢村子孫に大なる財産を残すこともできる」
と説き、村人を奮起させた。
勉三はこの山の原野開拓作業に率先して取り組み、思いがけず、村人から賞賛を受けた。勉三にしてみればこの仕事はいずれ北海道開拓計画に連なる恰好の演習であり、自然に熱が入ったのである。
佐二平もまた勉三のこの熱の籠もった働き振りに目を奪われた。
「勉三はこのような仕事に特別の興味を持っているのかね?」
遂にチャンスがやって来た。勉三は居ずまいを正して佐二平に向かった。
「興味というより、もっと強い関心を持っています。ぜひ兄さんに聞いて貰いたいことがあります」
勉三は、慶應義塾でケプロン報文に接して以来のこと、北海道への入殖・開拓事業計画等など、胸の中に溜まりに溜まっていた思いの丈を一気に語り、吐露した。
そして最後にこう付け加えた。
「三余先生は『勉三には果たすべき使命がある』との形見の言葉を遺して下さいましたが、今は北海道開拓こそが私の使命・天職と思っているのです。しかし、これは決して私一人の力で軽々に行なうことの出来る事業ではなく、一族の、特に兄上の協力がなければ到底成し遂げられるものでありません。いずれは相談せねばと思ってきましたが、とにかく一度渡北し、現地を視察したいと考えているところです」
佐二平は、いつまでも幼い弟と見なしていた勉三が、心の奥にこのような大望を抱き、じっとそれを温め、時節の到来を待っていたという事実を初めて知り、驚くと同時に「済まないことをした」と悔いる気持ちに襲われもした。
︱「自由にやれ」と言いながら、ついつい片腕として頼りにし、重宝に使ってきてしまった。ケプロン氏の報告に啓発され、義塾を退めてからもうかれこれ十年が過ぎようとしているのか。それにしても相変わらず一途な奴だ。三余先生が見込んだだけの男ではある。
佐二平には勉三が急に頼もしく見えた。
「そうか。よし、一度じっくりお前の思案計画を聞いて皆で相談してみることにしよう」
勉三の顔がパッと明るく輝いた。頬に赤味が差し、顔面が上気していた。
(4)
明治十四(一八八一)年正月三日︱
大沢村依田本家でもたれた新年の祝宴には、佐二平の声掛かりで一族の主立った類縁の者全員が集まって来ていた。渡邉勝は、例年お正月には上京し、ワッデル先生の教会堂の手伝いをすることになっていて、この正月も留守だった。
本家の当主佐二平を中心に、その弟である勉三、渡辺家に養子入りした要、塗り屋分家浜店に養子入りした善吾、大石家に養子入りした唯四郎、家の手伝いをしていた末弟の文三郎。そして分家塗り屋当主善六、その弟で三余土屋家に養子入りした準次、分家浜店の又四郎、分家中瀬の直吉。その妻子。準次の養母三余夫人ミヨもまたこの席に招かれていた。
宴もたけなわになり、夏の入会地の原野開拓と植林に話が及んだ時、
「ちと、皆の衆に聞いてもらいたいことがある」
と、佐二平が座を制した。
「入会地の植林もさることながら、この四百戸からなる大沢村の田地は百二十余町歩、山地の畑も百余町歩しかない。那賀・賀茂郡の村々も似たりよったりで、近頃のような勢いで人口増加が続いていくと、耕地の狭さが如何ともし難い困事になることは必定だ。伊豆沖の島々の活用も検討してみたが、これは結局東京府の所属ということに決まった。養蚕も桑畑の広さに限りがあり、いずれ頭打ちは避けられまい。そんな中で、勉三の方から北海道の開拓開墾事業に取り組みたいという話が出されて来たのだ。のう、勉三」
「ええっ!」
「ほほう!」
大広間に声にならぬ大きなどよめきが上がった。
勉三は一座の視線をいっせいに浴び、祝い酒で赤らめていた顔を更に赤くしながら、つと立ち上がった。
「かねてから、何か郷土の、国のお役に立ちたいと思い、この間ずっと北海道に渡って新天地開拓に取り組むことを考えて来ました。人間事を成すは黒頭にあり︱すなわち頭の黒い若いうちに事を起こせという詩がありますが、私も今年数えの二十八歳。兄に相談し、許しを得て、いよいよこの事業に着手することに決めました。蝦夷地北海道には手付かずの広大な原野が眠ったまま放置されています。私はそこに何万坪もの耕地を拓くつもりです」
「えっ!」
という驚きの声が上がり、広間の酔いはいっぺんに醒めてしまった。
「面白そうな企てだな。いかにも勉三らしいではないか」
まず、塗り屋の当主善六が賞賛の言葉を放った。それは、彼がこの勉三の北海道開拓事業計画に賛同し支援を惜しまない、との意思を示すものであった。
「勉三さん、いよいよね。おめでとう。主人が生きていて、このことを知ったらどんなに喜んだことか……」
そう言うとミヨは着物の袂でそっと目頭を拭った。この席にいる者は皆「勉三には果たすべき使命がある」という三余先生形見の言葉を知っていた。だからミヨが目頭を熱くした意味もよく判っていたし、勉三の意気込みが通常のものでないことも知っていた。
「しかし、北海道は熊や蛮人が住む寒冷地で、ごく一部でしか農作が出来ないとも聞いているが、その点は大丈夫なのかね?」
農事に精通する準次が心配げに尋ねた。
「米国人顧問ケプロン氏が報告文で、天然の物産に富み、漁労あり、鉱属あり、地味沃饒、気候は初春のように清和で、かつ材木あり。加うるに佳港、良河ありて他邦即ち外国と交通するに便あり。是をもって開拓の法そのよろしきを得れば、世界中最上位に位せんこと必定なり、と言っている位です。熊の生息は山奥の話で、里に出てくることなど滅多にないそうです。蛮人というが原住民アイヌは数も少なく、自然と調和した生活を好み、今では和人ともすっかり慣れ親しんでいるということです」
勉三はそう答え、更に様々な「北海道農地不適論」に対するケプロンの反論を我が反論として激越に語った。そして既に現地ではケプロン氏の提案に基づく洋式農業が導入され、現実のものとなりつつあることを熱を込めて話して聞かせた。
「そんなふうに開拓使の黒田長官が、洋式大農法を採り入れた開拓計画を推し進めているということですが、それがどこまで成功しているのか、入植して開拓をするとしてその地をどこに定めるか、それはやはり現地に渡り、この眼で現地をつぶさに観察した上でないとなかなか結論は出せません」
佐二平は勉三のこの発言を引き取った形でこう続けた。
「この夏辺りに、一度勉三が北海道を視察して来て、その報告を受けた上で、最終的結論を下そうと思う。一族挙げての後援が必要になろうが、その際はあらためて皆に相談したい」
この日の祝宴は北海道に関する話題で持ちきりとなり、勉三は英雄扱いとなった。子供達は勉三の周りに群れ、北海道には大雪が降る話、厚い氷が海を閉ざすという気候風土の話、アイヌの風俗習慣の話、人を襲うという恐ろしい羆や狼の話等々を盛んにせがんだ。
リクの受け止め方も子供たちと大して違っていた訳ではない。
翌朝、既に落ち着いた気分に戻っていた勉三は、若妻のリクに、
「驚いたか? しかしもう決めたことだ。一緒に苦労して貰いたい」
と、ごく普通に声を掛けた。
「驚きましたが、前々から貴方は何か大きな事をする人と兄にも土屋の叔母にも聞かされていましたから、やっぱり、と。いよいよ、なのですね。おめでとうございます。私もしっかり準備をしなければ……」
彼女はそう言って臨月の近づいたお腹をそっと撫でた。しかし、勉三の目はそれを見ていない。
「夏、三ヶ月ほどの周遊になるだろう。これは視察だけで、本格的な準備は来年に入ってからだ。忙しくなることは間違いない。家内のことは頼んだぞ」
「はい。私も……」
勉三は若い妻がお腹を見詰めながら何事かを言おうとしていることに全く気付かなかった。
「そうだ、このことを早く渡邉君や近悳殿に報せねば……」
そう言うと早くも机に向かい、紙を広げ、筆を執っていた。
勉三のような人間にとって、家内のことはどうしても些事と見過ごされがちであった。リクの方も、そのことに対して愚痴を零すでもなく、夫について行かねばと覚悟し、ただひたすら前に進んで行くのだと思うばかりであった。
(5)
正月を東京のワッデル先生の元で送っている勝に北海道開拓事業のことをどう話したものか。
「大きな問題だ」
勉三は、開拓の同志にと考えていた勝に早くこの開拓計画を報告し、相談したかった。が、躊躇もあった。まだこの企ては立案の段階であって、その実行が決まった訳ではない。そして、勝は勝で一つの夢を持っている。しかもそれは彼一人の夢ではなく、ワッデル先生の夢でもあるのだ。
昨年の夏、勝の友人が米国留学に旅立つことになった際のことである。
「わしもいつかは米国へ留学したいと思っている。しかし、片道二百数十円の旅費を貯めるのは大変だ。禁酒禁煙して、その上飯を節約しても後しばらくはかかりそうだ。はっはっは」
勝は自嘲めかしてそう言って笑ったが、半分以上は本気だった。実際、勝の語学力は勉三の目にも極めて優れたもので、伊豆の片田舎の中学教師にしておくには勿体無い程であった。彼は欧米の原書を読み漁り、英文をよく書いた。長い休みがあると横浜や東京に出かけ、欧米からやって来ていた宣教師らと交わり、語学学習に時間を割いていた。
彼はいかにも明治のロマンチストであった。尾張の洋学校を飛び出したその時から、いつか狭い日本を飛び出し、見聞を広め、何か大きな仕事を成し遂げてみたいという夢をずっと持ち続けていた。電信技術学校に行ったのも、ワッデル塾に飛び込んだのも、すべては洋学・英語修行のためであった。
規則ずくめの工部官僚の世界も、聖人君子たることを求める牧師の世界も、彼には窮屈過ぎた。ワッデル先生はそれを理解したからこそ、彼を教会から解き放ったのである。ワッデル先生の脳裡にも、彼が米国留学を果たした暁には教会ではなくワッデル塾を任せ、これを本格的な英語学校に発展させるべく、思う存分に運営させてみたい、という思いがあった。
勉三は、勝の「外国への留学を果たし、国のために何事かを成し遂げたい」という目論見や、ワッデル先生の将来計画を知らないわけではなかった。だからこそ、いよいよとなった今、勝に北海道開拓の計画を語り、同志として共に開拓の鋤鍬を振るわないかと誘うことに、いささかの躊躇が生じたのである。
慎重の上に慎重を期する必要があった。勉三は四月になってようやく、それもごく軽く「北海道周遊」の件を勝に伝えた。
「夏頃、北海道に渡り、現地を探査し、現状を観察して来ようと思っている」
勿論この渡北が、ケプロンレポートに接して以来自分が夢見て来た入植開拓計画の第一歩であることも、ケプロン報文が描いて見せた西洋式農業の青写真についても、熱情を込めて語り聞かせた。しかし、まだ「一緒に入殖して開拓事業をやらぬか」と誘うことはしなかった。
「とりあえず、まず現地を探査し、現状をつぶさに観て、入殖するかどうかは、それからのことなんだがね」
実際、最終的にこの事業が一族の賛同を得て実行に移せるかどうかは、探査結果を俟ってのことであった。
さすがの勝もこの話には驚いた。
︱それにしても、勉三さんは義塾を退めた時からずっとそうした計画を持ち続け、時節到来を待ち続けて来たのか。なんという一途さ、忍耐強さであろうか。
勝は勉三の「農に生きる」という決意が生半可なものでなかったことを初めて思い知らされた。
「面白そうな話じゃないですか。うん、なかなか愉快な計画だ。周遊から帰ったらぜひ詳しく話を聞かせて貰いたいものだね」
そんな勝の弾んだ声を聞き、勉三は嬉しさのあまり、思わず身震いした。そして、あらためて、この男をぜひ同志として迎えたいものだ、との思いを強くしていた。
しかして、この勉三の打ち明け話は、勝の心中に思いがけなくも驚くような変化をもたらした。
いつしか彼の脳裏に、北海道の平原に出現するであろう西洋風の新天地︱農場・牧場に囲まれた街が、白ペンキ塗りの学園校舎が、ポプラの並木道が、そこを行き交う着飾った人々と馬車の群れが、高い尖塔に十字を飾った教会等々の情景がくっきりと浮かび、やがては北の新天地で開拓の鋤を振るい、伝道に勤しむ己の姿が浮かぶようになっていた。
明治十四年七月二十九日︱
曇天の早朝、生まれてまだ間もない俊助を抱いたリクに見送られ、勉三は一人密かに大沢村を出立した。彼は出立に先立って旅日記の冒頭にこう記した。
「この行(旅)は一遍の周遊にして風土人情を視察するに過ぎず。しかれども良土にして吾人の棲息する(住み着く)に足るを得ば、まさに耒耜(農具の鋤)を荷うてここに耕耘し(田畑を耕し草を刈り)、以ってわが郷里の如き人口夥多(人口過剰)の地よりこれを北海道の如き無人の地に移植し、その欠乏の万一を補わば、余が如き天下の無用者も変じて有用の者にならんとするの意を有せり」と。
勉三の目は既にわが郷里だけを見てはいない。その目には「天下」の至る所に存するであろう「郷里の如き人口夥多の地」が映っていた。
「三余先生、見ていて下さい。この勉三、天下の無用の者から必ず有用の者になって見せます」
勉三は、そう呟きながら、一度だけ、遥かな南伊豆の山々を振り返った。そして、それっきり二度と後を振り向くことなく、猫越峠を越え、篠突く雨の山中を北へ北へと、力強くその歩みを進めた。
時まさに明治十四(一九八一)年夏︱明治政府中央と北地は「官有物払い下げ事件」と「政変」に沸いていた。
道史Ⅰ 開拓黎明期
【巻末に北海道の近代史】
主人公依田勉三が生きた時代とはいかなる時代で
あったのか。依田勉三の生涯は彼の生きた時代を
抜きに語ることは出来ない。『北海道の近代史』
は、勉三の生きた時代、その生涯の歴史的背景を
明らかにしたものである。それぞれ、適当な個所
に挿入すべきものであるが、かなりの長文である
ため、本文の自然な流れを阻害することになりか
ねないため、『北海道の近代史』はそれぞれの巻
末にまとめて掲載した。
三部 北遊篇
第九章 北の大地
(1)
明治十四(一八七一)年八月二十日︱
「おお、あれが蝦夷地北海道か!」
船内の息苦しさに耐え切れず、波しぶきが飛び散る甲板に出た勉三の目に、遥か前方、低い尾根を連ねる山陰が飛び込んで来た。室蘭から苫小牧、勇払、日高に至る山並みであろうか。
夏八月の高い空の下、青めいた山稜が延々と伸びている。眼前に拡がるその風景は、島というにはあまりにも大きかった。
「ようやくここまで来たか」
この時、勉三二十八歳。伊豆の熊堂山の頂に立ち、師三余の形見の言葉を胸に刻んでから、既に十六年が経とうとしていた。
「長い道のりだった。がしかし大器晩成という言葉もある。慌てるには及ばない。何事も着実に実行に移していくことが大切なのだ」
熊堂山山頂に聳える大樹︱「大器晩成」と名付けられたあのタブノキと茫洋たる師の顔が目に浮かんだ。
「そうだ、大器はともかく、大事なことは晩成ということだ。時間がかかってもよい。怠ることなく、ひたすら己に課せられた使命達成に向かって進むだけだ。それが先生の教えだ」
八月十八日に勉三を乗せて品川港を出航した瓊浦丸は、およそ二日間走り続け、今まさに舵を西方に切り、津軽海峡に突入せんとしていた。ここまで海は思ったより静かであった。それでも船に弱い勉三は、ずっと胸を衝く不快感に苦しめられ通しであった。その上、船内は驚くほど混雑し、喧騒乱雑を極めていて、その不快感は並みたいていのものではなかった。
幅五間、長さ二十八間︱この船に四百余名の客が乗っていた。寝ている者同士の頭と足が、口と尻がくっつきかねない有様で、荷物の上に親が足を載せ、その下の隙間に幼児が押し込められている。船内の雑踏、暑苦しさと鼻を突く臭気の原因は、乗客の大半を占めていた近畿・中国地方からの移住民にあった。老若男女三百四十余名からなるこの移民団は、神戸から汽船に乗って一昼二夜走り続けて品川港に着き、そのまま上陸せずにこの船に乗り換えさせられたという。風呂を使う暇もなかったということで、体が臭いのも無理はなかった。
初めての長旅に疲れた幼児は泣き叫び、女達は気短に怒声を上げている。景気付けのつもりか歌ったり叫んだりする大人がいれば、食に当たって下痢をしたり、船酔いで嘔吐したりして隣人の顔を顰めさせる者もいた。勉三も昨夜頭の上でそれをやられて一睡もできずじまいだった。
勉三は頭から夜着を被り、二重三重の不快さに耐えながら、開拓移民の大変さ、その事業の容易ならざるを実感した。
「下の放縦は上の責だ。上に立つ者は志を高く持ち、移民団をしっかりと導びかねばならないのだ」
勉三は自らにそう言い聞かせた。
昼時、いよいよ船が津軽海峡大間岬沖に入るや、突然強風が襲い、海は一変した。激浪が甲板を激しく洗い始めた。皆窓を閉じ、荒れ狂う波の音を聞きながら、真っ暗な船内で不安のひと時を過ごした。
夕方四時頃、函館沖に至りようやく嵐は収まったが、初めて北辺の地を訪れた者に、あらためてこの地の気候風土の厳しさを教えた。
北の夏八月の夕暮れ間近︱海はまだ明るく、波は静かだった。津軽海峡に入った船はやがて北に舵を切り、陸に向かって突き進んで行く。眼前の山並みは低くなだらかな稜線を走らせ、それらの山嶺の南側斜面が緩やかなスロープを描いて海辺に下っている。北東方面に目を向けると原野が延々と続いている。これらは渡島半島のごく一部の風景に過ぎなかったが、確かにここは「島」というよりも広い「大地」を思わせる。
船は陸の手前で右旋回し、更に右に舵を切って舳先を南に向け、十二、三隻も浮かぶ外国船の間を縫うようにして港に入って行く。函館港は南向きに海に突き出た拳のような半島の内側にあった。いかにも「巴の港」(巴という字形に似た地形)であった。
湾内に入ると正面に深緑に包まれた臥牛山︱函館山の北斜面が迫って見える。山の下方には家々の屋根が連なり、中段辺りに東本願寺の巨大な瓦屋根が見える。岸壁付近には赤いレンガ壁の倉庫が何棟か並んでいる。斜面上方の処々に尖塔・円蓋の屋根を頂く白い洋館が見える。ハリストス正教会、ロシア領事館、カトリック教会堂、英領事館の建物であろうか。それらの白壁に夕陽が映り、ほんのり紅色を差している。
「なんと綺麗な街なんだろう」
甲板に立つ乗客は皆一様にこの言葉を口にし、ため息を漏らした。
蝦夷地北海道の第一夜を、勉三は港近くの宿でゆっくり過ごし、風呂に浸かり、船旅の疲れを癒した。そして翌朝、さっそく函館会所町にあった田本写真館を訪れた。写真館の主人田本研造は、遠い北の大地に初めて足を踏み入れた勉三の、この異郷における唯一の知り合いである。
「早速、お邪魔させて頂きました」
「ついにやって来ましたか。大いに歓迎しますぞ」
「本当に、心強いかぎりです」
「しかし、よくぞ参られた。しっかり観察していかれるが良い。できる限りのお手伝いを致そう。鈴木さんは元気かな。そうそう、頼母殿からも大志ある若者故、案内くれぐれもよろしくと聞いておりますぞ」
あらためて此度の渡北に当たっての保科近悳の親身な配慮が思われ、胸が熱くなった。
「とは言え、こんな有様で申し訳ありませんがの」
田本は満面に笑みと喜びを浮かべ、仮建築中の自邸に勉三を招き入れた。一年半前の大火で、それまでの瀟洒な洋風の二階建て写真館は全て燃えてなくなり、ちょうど再建の最中にあった。
田本は齢既に五十歳になっていて、勉三とは二十二歳も離れていたが、この田本と勉三もまた奇妙な縁で結ばれていた。
田本研造(号は音無榕山︱故郷の音無川に因んで使用した)は天保二年、紀伊国南牟婁郡神川村(現和歌山県熊野市神川)の生まれである。生家は林業・農業を営む大家であった。似たような出自故もあってか、かなり年上であったが、田本は勉三に特別の親近感を持っていた。
田本は医者になるべく長崎に出て西洋医学を学んでいた。その医術の師の言い付けで長崎通辞に同行し、函館に移る。ところが函館で凍傷に罹り、それが因で壊疽に冒されてしまった。
そんな田本に救いの手を差し伸べたのが、ロシア領事ゴシケビッチであり、彼の右足切断の手術を施したロシア医師ゼレンスキーであった。彼等はまた写真の愛好家でもあり、写真術に詳しかった。田本は右足を膝頭から切断する外なく、結局医学の道は諦めざるを得なかった。そんな田本にロシアの友人たちは写真技術を伝授してくれた。
幸い田本の周囲にはこれらのロシア人から写真術を伝授された木津幸吉や横山松三郎というような先達がおり、親切に相談にのってくれた。木津などは上京することになった際に写真機一式を全て譲ってくれた。横山は横浜の写真師下岡蓮杖と親しく行き来しており、そこから伝えられる新しい技法を惜しみなく教えた。田本はその横山を通じて横浜の蓮杖と交流を持つようになり、蓮杖の弟子であった勉三の叔父鈴木真一とも親しく交わるようになっていたのだ。
田本は、前に記した通り、榎本武揚や土方歳三の肖像写真を撮り、これらの写真は今日では明治期を代表する歴史的作品としてつとに有名である。更に開拓使お抱えの写真師としても著名な存在であった。長官黒田は破格の給与で田本を雇い、開拓事業の様子、西洋風の農場風景、官営工場、鉄道等々の写真を撮らせ、政府への報告、世間への宣伝に利用した。それ故、田本は道内・日本国
内のみならず米国でも名を知られた有名写真師であった。
勉三はそんな田本と写真師の叔父真一を介して顔見知りになっていた。
ところで、勉三と田本の二人を結びつけた人物として、もう一人西郷頼母近悳がいる。
幕軍との交流浅からぬものがあった田本は桑名藩主松平定敬の函館宿舎にもよく出入りしていた。定敬は会津藩主容保の実弟で、京都所司代として守護職の兄を助け、会津城︱五稜郭と転戦して来た根っからの佐幕派藩主であった。頼母近悳も弟陽次郎も定敬を敬い、我が主とも思っていた。その定敬の宿舎があった箱館神明宮(後に山上大神宮と改称)に近悳も田本もよく出入りしていた。そして、その神社の宮司こそが沢辺琢磨、即ち近悳が息子吉十郎を託した男であった。
箱館戦争の当時、田本は神明宮をしばしば訪れた近悳とも親しくなった。田本は近悳から息子を沢辺に預けて敵軍に下るということも聞かされており、後に沢辺が一時函館を離れた際は陰ながら吉十郎の守護に動いていた。近悳にとって田本は函館の大事な恩人・友人であった。
近悳は、勉三が渡北すると聞き、急ぎ筆を執り、その案内方を田本に頼まずに居れなかったのだ。言うまでもなく近悳は依田家を介して写真師の鈴木真一と親しく、近悳妹の未遠子は真一の後妻に入っている。その真一がまた同じ写真師田本と交流を持っていて、勉三と田本の二人を結び付けてくれていた。勉三・頼母近悳・研造・真一の四人は奇妙な縁で二重三重に結ばれていたが、その結び目の核に蝦夷地北海道があった。
田本と勉三の初顔合わせは、田本が初めて上京した明治十四年春のことであった。田本は上野で開かれていた第二回内国勧業博覧会の見学と新しい写真機を購入するのが目的で、東京には三ヶ月ほど滞在した。この時、田本は真一の居る横浜の写真館にも顔を出し、北海道周遊を準備中であった勉三も面会の機会を得ることができた。勿論、叔父真一の計らいであった。もっとも、この時の勉三は初対面ということもあり、計画中の北海道周遊については開拓地の視察・観察が目的であることを告げただけで、それ程詳しい相談をした訳ではない。
あいにくこの時、田本は近悳とは会うことが出来なかった。真一夫人の未遠子を通じて消息を伝えただけであった。当時、近悳は東照宮宮司に就いた松平容保・定敬兄弟と共に日光に居て、自由が利かなかったのである。
人と人の出会いの妙、結びつきの妙はいかにも偶然の出来事のように見える。しかし、そんな偶然にもその根底には必然性が貫かれている。必然は必ず偶然を伴って現象し、その偶然はまた必ず必然に何らかの作用を及ぼしていくのである。しかしてその偶然を必然に結び付け、転化させ、一つの〝意味ある現実〟にさせるものは、必然を意識した人間の決意・決断の力である。
もし、勉三に「国家・社稷・人民のために尽くそう」「蝦夷地北海道の開拓をなし遂げ、世に出そう」という、己の使命に向かう激しい意思・意欲︱必然性がなければ、決して彼らとの偶然的な出会いは〝意味ある現実〟とならなかったであろう。
(2)
田本は勉三を函館の街に連れ出した。横浜ほどの華やかさはなかったが、二つの街は同じ雰囲気を持っていた。横浜で勉三から渡北の企てを聞かされて以来、すっかり勉三の支援者になっていた田本は、片脚が義足であること等全く意に介する風もなく、いかにも嬉しげに歩き回っていた。
市中見物を楽しみ、ロシア風肉料理の昼食を終えた後、田本は勉三を函館山の裾野を巡る散歩に誘った。小高い斜面を横切って走る散歩道からは、眼下に海と函館の街が見える。小道の脇には伊豆で見慣れた杉の木立が続いていた。桑もまた大沢より一ヶ月ほど遅くはあったが見事な生長を遂げていた。そんな見慣れた樹々の姿が、北の異郷をぐっと身近なものに感じさせた。
八幡神社の入り口まで来ると、函館湾が一望できた。
「どうだね、この風景は」
立ち止まって、田本が指差した北の方角に、勉三が今まで見たこともない、広く大きい緑の大地が広がっていた。東の彼方の山峰蝦夷駒ヶ岳は聳えるというほどに高くはなく、なだらかな山脚がゆるゆると海浜まで延びている。裾野には緑の原野、牧場地が広がり、あるいは樹林が点在している。そんな平原の真ん中を有川の清流が悠々と下り、河口付近に建つ亀田の瓦製造工場の煙突から一筋の煙が上がっている。
「この風景は本邦のものとは思えませんね。いつか『米国小史』の挿絵に見たことのある米国西部一帯の風景と恐ろしく似通っており、驚きました」
「北海道の風景は何処もこんなものだ。開発はまだ始まったばかりだが、先人の苦労苦闘が実を結び始めてもいる。彼らから大いに学んで今後に活かすべきだ」
開拓使お抱えの写真師として北海道各地の開拓開発風景を見ている田本の言である。それなりの重さを持って勉三の胸に迫った。
散歩道の東端は海岸沿いにある谷地頭温泉に繋がっていた。田本が贔屓にしていた温泉宿浅田楼は豪勢な大邸宅を思わせる造りで、函館発展を象徴していた。勉三を歓待した田本が、この楼上で酌み交わしながら聞かせてくれた北海道の気候風土や開拓事情は、若い勉三にかなり具体的な北海道の印象をもたらした。
が、この夜、田本が最も力を入れて語ったのは「官有物払い下げ」の話題であった。政治向きのことに疎く、野を拓き、野を耕すことばかりを考えていた勉三には、それほど関心の持てる話題ではなかった。言うまでもなく、開拓使お抱えの写真家であった田本にとって、この問題は己の写真事業のこれからと深く関わっている。それ故に深い関心を抱いて当然のことであった。
「開拓使の払い下げ問題のことは既に知っていると思うが、これがどうやら大きな政変問題に発展しそうなのだ。ちょうど陛下が北海道巡幸の旅に下られ、今小樽に向けて船旅をされておられるというのに、本当に困ったことだ」
本当に困りきった様子であった。
勉三がこの函館に足を踏み入れる一ヶ月前の明治十四年七月二十六日、東京横浜毎日新聞が「薩摩閥による北海道官有物払い下げ」という暴露記事を大々的に取り上げていた。
前年の明治十三年十一月、政府は開拓使発足から十年目に当たる次年度をもってこれを廃止することにし、開拓使経営の官営工場や鉱山施設の民間への払い下げの方針を打ち出していた。そうした中で、開拓使長官黒田や薩摩閥が企てた事は、大半の事業を薩摩の政商に引き継がせ、自分たちの手で「開拓使事業」を引き続き推し進めていくことであった。
問題はその「払い下げ条件」にあった。それは、開拓使が巨額を投じて造った工場・船舶・牧場などめぼしい開拓使公営施設を、捨て値に等しい三十八万余円、無利子三十ヶ年の年賦払いで薩摩出身政商五代友厚の関西貿易商会に払い下げるというものだった。
東京横浜毎日新聞がこの実態を暴露すると、これに郵便報知新聞が続き、反対の世論がワッと沸いた。
「開発十ヶ年計画」の総仕上げとして天皇の北海道巡幸を一ヶ月後の九月に企画していた時の内閣は、黒田の「払い下げ案」を承認し、強行突破を図ろうとしていた。これに真正面から反対を唱えたのが、国会開設を叫ぶ参議大隈重信であり、板垣退助ら在野の自由民権家たちであった。彼らの多くは「傲慢薩長閥」を嫌う土佐(高知)・肥前(佐賀)をその出自としている。今や「士族反乱」は「自由民権運動」へと進化発展を遂げつつあった。
「これが大きな政治問題に発展すれば、日本国を揺るがす大事件となり、黒田長官の政治生命も危ういものになりかねないのだ」
黒田に目を掛けられ、黒田の推し進める開拓事業を写真に撮り、それを生業にしてきた田本にとって、決して他人事の話ではなかった。
結局、この「払い下げ事件」は「明治十四年の政変」へと発展し、北海道と日本の歴史を大きく転換させていくターニングポイントとなる。同時に、その後の北海道開拓事業に大きな影響を与えていくことになる。
田本は、勉三がこの話題にあまり興味を示さないのを訝ったが、深く追求せず、話題を変えた。
「ところで勉三君の此度の周遊計画を聞かせてもらおうか」
勉三は出発前から練り上げていた旅程を話した。
「函館・勇良払・室蘭一帯を見学した後、船で根室に渡り、海浜沿いに歩いて十勝方面に下ります。そこから襟裳を経て浦河・日高を通って札幌に出て、小樽から船に乗って帰途に就くという行路を予定しています」
田本は、根室から浦河に直行する船便を使わず、わざわざ十勝一帯を遊歩するとの計画を耳にし、思わず聞き返した。
「わざわざ根室・十勝方面へ?」
当時東部奥地は手付かずであった。大半の移住者は当然のように比較的暖かい道南・道央・日高方面への入殖を求めていた。
最東端に在る根室は漁業開発が中心であった。漁業以外の開拓事業もあったが、全てロシアに対する軍事的備えを目指したものである。
十勝川流域一帯に広い原野︱未開の十勝野が存在していることは既に知られていた。が、開拓使も調査だけにとどめており、道路も通っておらず、入殖は余程資本力のある者に限られるだろう、と見られていた。
「いえ、まだ何も決めてはいません。ただ如何に困難とは言え、広大な未開荒蕪の地の開拓をしないのであれば日本人が北海道開拓に挑む本当の意味がないように思われてならないのです」
勉三は脳裏に深く刻み込まれていたケプロン報文について、熱っぽく語った。
「地質・鉱物資源調査担当のライマン氏は石狩川上流を遡り、石狩岳東側の峠を越えてオトブチ河(音更川)上流に達し、これを下って十勝原野に到達しています。そのライマン氏が札内ブト(サツナイ河とトカプチ河との合流地点)の河畔に立ち、そこで見た光景をこう記しています。
『我が曹(チーム)が通過せる草野はほとんど開闊(広々開けている)にして、平均少なくも…四万エーカー(約一万六千町歩)なるべし。…余輩(自分たち)の食らうべき菜はほとんど欠乏せり。然れども、近隣の土人村より得たる野菜にてかなり満足せり。土人の園圃(畑)はすなわち山林にしてここに肉あるいは野生の菜を得て食物となすなり。殊に野ゆりの一種は…蕃薯に代用するに最も好し。また牛蒡その他二、三の良菜あり』と。
幕末に十勝を探査した松浦武四郎氏もまた、『この地追々第一繁盛の地となるべし』と賛嘆し、『このあたり馬の車のみつぎもの御蔵をたてて積ままほしけれ』と詠っていることはご存知のことと思います」
︱このような広大肥沃の地を放置したまま、ただ易きをもって近きを開拓開墾するのみで良いのか?
勉三の使命感、気概、あるいは「辛酸を常に楽しむは我が家の流」とする依田家の家風がそう言わせたのである。
「近悳殿の見立て通りの人物じゃワイ」
田本はあらためて勉三の決然たる言葉に深い感動を覚えた。
「東京でお目にかかった時は、正直まさかそのような考えを持っておられるとは思わなんだ。近頃は、あなたのような開拓志望者にはお目にかかれなくなった。さあ、前途を祝してもう一度乾杯といこう」
勉三をこのように高く評価した田本は単なる一介の写真師ではない。開拓使お抱えの写真記録者のこの人物は、新しく開かれた北海道をつぶさに目撃しかつ観察して来た、北海道を代表する第一級の報道写真家なのである。
別れ際、脚の悪い彼は、手配してあるので道案内人として弟子である函館の写真師井田梯吉、札幌在住の写真師武林盛一を大いに頼るよう伝えた。更に「西洋農法の採用で有名な開進社第一会所には言付をしてあるのでぜひ訪ねて行くように」と言ってくれた。
こうした田本の勉三に対する好意は生涯途絶えることなく続いている。
(3)
数日後、勉三は田本の好意を無にすることなく、早速開進社に向かった。
開進社は元老岩倉具視の勧めで、華族銀行と士族銀行の幹部連中が資金を出して創設した士族授産と開拓が目的の結社であった。本社を函館に置き、五つの拠点で開発を行なう道内隋一の開発会社であり、資本金二百万の大プロジェクトであった。
農耕馬に引かせてハロー(西洋式の鋤)やプラオ(土ならし機)を走らせたり、函館近郊にあった官営の七重勧業試験場の協力を得て新種作物を作ったりと、大々的に西洋式農法を採り入れていた。
もっともこの開進社は明治十八年四月に至り、利益が出ないことに嫌気がさした華族の援助が打ち切られ、あっけなく解散してしまう。勿論この時はまだ先進農場としての輝きを放っていた頃で、田本の口添えは勉三にとって願ってもないことであった。
開進社に向かう途中、道に迷い、偶然にも五稜郭に出た。平地に掘られた星形城の堀は赤く濁り、辺りは草茫々として人の姿を見ず、まさに「兵どもの夢の跡」であった。かつて近悳らが「北海道共和国」を夢見たという面影はどこにもない。あれから既に十余年が経ち、この北辺の大地は今全く新しく生まれ変わろうとしているのだ。
―何としてもこの北の大地の一角に新天地を開きます。
勉三はあらためて胸の中で近悳に誓った。
開進社は広い函館平野部の真ん中にあった。田本の名を出すと支配人は「さあさ、どうぞ」と喜び勇んで農場を案内してくれた。およそ百町歩の耕地を四人の社員と五十二、三人の雇夫で耕作・管理し、大豆・麦・馬鈴薯・小豆・麻・甘藷・蕎麦を作り、結構な収穫を上げているという。その日は、広い農場を歩き回っているうちにあっという間に日が暮れた。勉三は支配人の強い勧めでここに宿泊させてもらうことになった。
夜遅くまで談論を重ねた社員・雇夫から聞いた話は、北海道の耕地の土質についてであった。
この地の本来の土質は火山灰が多く分布し、決して美なるものではない。とは言え平野部ではその上を腐植土の黒土が厚く蔽っており、初期は無肥料で十分収穫が見込める。連作は避けたとしても、いずれは徐々に養分は失われていく。それでもイワシ粕や堆糞肥料を使えば畑作地としては申し分ない、とのことであった。
またこの南方に数百町の牧場があり、そこでは既に二百六、七十頭の牛馬が飼われていて順次洋種に変えられつつあるという。やはりこの地には牧畜が一番合っている、というのが彼等の主張であった。
開進社を訪れた翌々日、田本の弟子である写真師井田が勇良払(遊楽部)にアイヌの写真を撮りに行くというので、ついでに尾張徳川家の開墾場に連れていってもらうことにした。そこには近悳がぜひ訪問するようにと手配してくれた農場があった。
尾張の藩主徳川慶勝は会津藩主松平容保及び五稜郭に落ち延びた桑名藩主松平定敬の実の兄である。この頃、近悳は日光東照宮宮司に就任した容保に就いて禰宜になっていたこともあり、尾張関係者とはよく連絡を取り合っていた。中でも小林知行とは若い頃からの知り合いであった。
明治十一年に知行が開拓農場大番頭としてこの勇良払近辺(後の八雲村)の開墾に入ってからも、人を介して連絡を取り合い、勉三のことを予め頼んでおいてくれたのである。
「頼母殿にはこちらに来て共に開拓の事業に取り組まないかと誘ってみたのですが、容保公をお守りするのが自分の務めとついに動くことはありませんでした。いかにも頼母殿らしいとも言えます。貴方のことは頼母殿からよく聞いております。われわれ士族上がりと違って貴方のような農の出の拓士ということならきっと大きな成功が得られましょう。とりあえず、ここは百五十万坪を払い下げてもらい、十五戸七十余人で開墾に着手し、三年経ってようやく四百余町を拓いたところです」
牧畜にもかなり力を入れていて、津軽南部から五百七十円かけて牝牛十頭を仕入れ、更に七重の官営試験所から洋種の牡牛三頭を借りてかけ合わせ、耕作用の大きな牛を産出させるというようなこともしているという。牧畜に関心を示す勉三に、彼は牛馬の仕入れから育て方、冬の雪の頃の飼育方法、篠笹や飼料の量のことなど、実に丁寧に説明を加えてくれた。
また勉三が養蚕に詳しいことを知ると、ここでは蚕には天燃の桑を食わせることや気候天候対策のこと、原紙一枚の種から一石七升もの繭が取れること等を伝え、北海道農業の前途は洋々たるものがあると断言した。
彼はこの寒地での稲作の可能性についても熱心に語った。
「日本人にとって、やはり米作は必要不可欠のものです。開拓使は米作不可能論を押し付け、無駄なことはするなと言っていますが、そうはいきません。徳川の時代にもこの地方では稲作が試みられており、また千歳方面では中山久蔵という人物が水田を開き、温めた貯水を使うなどの独特な方法で収穫を達成し、少しずつ周辺に広まっていっているようです。東風が冷たいここでも陸稲の発育は良好で、今水田にも取り組んでいるところです。今年は失敗しましたが、いずれ立派に米も穫れるようになるでしょう」
勉三は既に多くの先覚者がこの北の大地で日本の農の発展のために奮闘している事実に接し、身が奮い立つ思いであった。
別れ際、知行は遠い昔を思い起こすかのように、海浜に近い丘を指して言った。
「あの丘からは故郷に続く海と新しく開いたこの開拓地が一望できます。初めて上陸し、ここに移住すると決めた時、私はこの地を自分の墳墓の地にすると心に決めました。それで、移住団が最初にここに入殖した日、この勇良払の土くれとなってここを見守っていこうと、そういうつもりで真っ先にあの丘を墓地と定め、密かに墓代わりの杭を立てたものです」
勉三は近悳に聞いていた彼の来し方を思わずにおれなかった。知行もまた西郷頼母近悳同様、苦渋に満ちた幕末維新期を送っていたのである。
維新前夜、彼が籍を置く尾張徳川藩は江戸と京の中間に在って尊皇か佐幕かで揺れ動いていた。当時、隠居しながら幼い藩主義宜に代わって実権を握っていた慶勝は御三家の一角にありながらも大局を見据え、密かに勤皇方に組すると決していた。彼は重臣三人を含む家臣十四人を一方的に佐幕派と断じ、「朝命により死を賜るものなり」と一切の弁明を許すことなく首を刎ね、箝口令を布いてこれを闇に葬むり去った。世に言う「青葉松事件」がこれである。
維新後、一部の旧藩士はこの事件に関わった知行らの責任を厳しく問うた。慶勝は彼を名古屋に留めておけば面倒なことになると、「北辺の防衛」「旧藩士の救済」を名目に、新政府から百五十万坪の土地を譲り受け、彼らをこの荒蕪の地に逃がしたのである。
日光で慶勝とも顔を合わせる機会があった近悳は、そうした北地入殖に至った事情をよく知っていた。彼は、勉三にこうした士族移民の裏話をよく語り、移住士族の心情を教えていた。彼らとの付き合いに役立てて欲しいとの老婆心からであった。
この日、知行は盛んに勇良払近辺への移住を勧めたが、勉三の十勝方面への密かな関心を捨てさせることはできなかった。
別れを惜しみ、室蘭・札幌に至る街道まで送ってくれた彼の日焼けした浅黒い顔は、もはや武士のそれではなく、まさに農夫のそれであった。が、その目には武士としての誇り、矜持が満々と漂っていた。「北辺を衛る」という気概は未だ忘れ去られてはいなかった。
翌朝、井田と別れた勉三は長万部から礼文華を経て紋瞥に至り、伊達家を訪れた。ここには朝敵として領地を没収された仙台亘理藩の旧主伊達邦直が移住し、自ら先頭に立って開拓に励んでいた。邦直は偶々札幌に出ていて留守だった。が、邦直の代わりに元家老の田村顕允が快く出迎えてくれた。
ここも田本の紹介であったが、近悳との縁もまた大いに役に立った。奥州列藩同盟の主力たる会津と仙台は共に西軍に抗した仲であり、当然会津藩元家老西郷頼母近悳の存在は、この地の開拓指導者となっていた仙台亘理藩元家老田村顕允の知るところであった。
顕允は自ら案内の先頭に立ち、隈なく農場を見せてくれた。彼が真っ先に見せたのは、プラオやハロー等の洋式農具が広大な農地を走り回る光景であった。それらの農具は既に東京の官園で目にしていたものであったが、逞しい馬に引かれた西洋農具が広い大地を勢い良く縦横無尽に駆け巡る光景は、まさに圧巻であった。
伊達農場は藩主自らが先頭に立つ士族経営であったが故に、旧来の日本農法に縛られることが少なく、ある程度の資金を集めることも可能であり、大胆に西洋式農法を導入することが出来たのである。とは言え、ここに至るまで、どれほどの艱難辛苦があったことか。しかし、毅然たる顕允はその苦労話を決して語ろうとはしなかった。
こうして、勉三は室蘭方面への十二日間にわたる小旅行を行なった後、根室行きの船便が未定で、再び函館に戻った。
(4)
根室の港は朦朧たる霧の中にあり、冷たい雨が降りしきり、落ち葉が寒風に舞っていた。僅か二日前に函館を出るときにはまだ暑さが残っていて扇子を使っていたというのに、何という違いであろうか。
勉三が、函館を発ち、根室に向かったのは明治十四年九月十七日のことである。船には鮭漁に臨む漁夫ら三百余の客が乗船し、一部乗客は波しぶきの襲う甲板に寝泊りしていた。
出港した日の夕暮れ時、船は襟裳岬に差し掛かった。風が南から北に向かって激しく吹きつける。陽は既に水平線に近く、柔らかい日差しが岬を照らしていた。海の上から見ると、日高の山々が一際高く聳え、蝦夷地を東西に隔てているのがよく分かった。西は未だ明るい陽光を浴びているのに、東は既に黒く暗く翳っている。鮮やかな東西の対照であった。
船縁から眺めると、目の前から岬まで黒い岩が点々と筋のように連なり、陸地からぐっと手前に張り出した岬の崖下に達している。確かにそれはの鼠尾のように見えた。更に、その尾を付けた高い岬の上には、こんもりと盛り上がった円い小山が載っている。その全体の姿はまるで険しい日高の山嶺に挑む鼠のように見えた。
勉三はその鼠に北の大地に挑まんとする自分を重ねた。後に彼はエリモというアイヌ語が鼠を意味することを知り、アイヌの魂に通じたような不思議な感動を覚えたことであった。
荒波の襟裳岬を過ぎ十勝野の沖に達した頃はちょうど真夜中で、しかも小雨が降り出していた。ライマンが紹介する十勝野は遠く闇の中に沈み、その姿を見せてはくれなかった。
根室港には米国・露国の捕鯨船が三、四隻碇を下ろしていた。マストには彼らの母国の国旗がはためいている。港には役人・軍人が行き来しており、「北の鎖鑰」という言葉が身に迫った。
根室一帯は鮭・昆布漁業と牧畜の地であり、農作物はせいぜい蕪と馬鈴薯が育つのみ、他の作物の育ち具合は惨憺たる有様であった。
原野に近い牧場には、およそ民有の馬四百頭に牛九十余頭、官有馬四、五百頭が放たれていた。
ただ、港の近くでは、一日千五百缶を製するという鮭の缶詰工場が盛んに動いており、漁業の町としての発展を窺わせていた。
田本の「ほとんど農事の為に地を願うものはない」という話は本当だった。
第十章 十勝原野
(1)
勉三が根室を発ち、釧路を経て初めて十勝の国に入ったのは、明治十四年十月二日のことである。
十勝原野の奥から流れ下って来た十勝川は下流平野部で本流・支流の二つに分かれて海に流れ込んでいる。小舟に乗って十勝本流を渡り、一里半ほど歩いて更に支流大津川を越えねばならなかった。
大津川の渡し場から港のある村落に出ようと、南に下る途中、道を見失い、気が付くと小高い山の頂に出ていた。勉三は来し方をふと振り返り、名状し難い感動と興奮に襲われた。
眼前の十勝川河口の平原は、海辺に沿って東方向に二里余り続き、十勝川の上流北方向に遡ること八、九里に及んでいる。その中原を、十勝本流と大津支流が曲線を描いて悠々と流れ、至る所に沼を造り、岸辺に葦原や木々を茂らせている。
「何という広さ、豊かさであろうか! この奥にライマン氏がいう四万エーカーの大平原が横たわっているのか。ここに大沢・松崎の村々なら幾つ入るであろうか。しかも一面萱の原で、樹林も疎らだ。牧畜には最適であろう。やはりここだ。この十勝野こそわが入殖の地に違いない。かつて静岡藩の移住者がこの地で鋤を振るい、汗を流したことがあるというのも、何かの因縁に違いなかろう」
勉三もつい最近知ったことであったが、明治の初め、ここ十勝、中川、河東、上川の四郡は、徳川宗家十六代家達を藩主とする静岡藩の支配下に置かれていた。新政府と開拓使は一時期、国有直轄地外の奥地︱十勝一帯を、静岡・薩摩の二藩に命じて管理させようとしたことがあった。薩摩は早々と手を引き、後事はすべて徳川の一族たる一橋・田安家に任された。一族にとっては土地開拓などは問題外のことで、経営の関心は専ら商場にあり、漁業・交易の監督がその任となった。
*商場…元は松前藩が藩主の直営あるいは藩士への知行として設定したアイヌとの交易のための場所。家臣はそこで米・酒・漆器などとアイヌの毛皮・干鮭などとの「物々交換」を行い、莫大な収入を得た。やがて松前藩は運上金を取ってその経営を内地商人に任せるようになる。この商場制度は明治の初期にも残っていた。
それでも静岡藩は大津に役宅を置き、白野夏雲を現地責任者として旧藩士六戸七人を移住させ、商場管理だけでなく、役宅付近に一町五反ほどの畑を拓かせた。言うなればこの静岡藩の移住団こそ最初の十勝野開拓団だったと言えなくもない。
夏雲は藩命によって帯広一帯の地勢調査を行なっている。どうやらオペレペレプ(あるいはオベリベリ)というアイヌ語地名に「帯広」の漢字を当てたのはこの夏雲のようである。
明治七年五月、十勝もまた国の直轄地に編入された。徳川一族、静岡藩の移住団はこの時大津を引き払い、この地を去って行った。
その大津村は、今や河口の港の周囲に戸数八、九十戸を数えるこの地方最大の村落となっていた。戸長役場、駅逓があり、船宿や雑貨店や蕎麦屋、貸し座敷等もあった。貸し座敷と言っても板張りの粗末なもので、鮭獲り人足の遊び場のようなものである。この村に集まってくる商人たちの目当ては鮭と鹿であり、この二物がこの地の生業の元だった。
*駅逓…駅逓制度は北海道独特の制度で、旅人を泊めたり、人足や馬を貸し出したりした宿泊所。やがて郵便の仕事も取り扱うようになる。江戸時代には通行屋という制度があったが明治維新によって廃止され、開拓使が規則を整備して重要地点に新たな駅逓所を設置した。運営には半官半民の請負制がとられ、その運営は取扱人に任された(一定の地位・財産のある者が指名された)。開拓使が廃止されるまでに全道で百十一もの駅逓所が作られている。
勉三が大津村に入ったのは明治十四年十月二日昼︱
勉三は蕎麦屋で飯を食った後、店の主と立ち寄りの商人二、三人が興じていた茶飲み話の輪に加わった。
「いずれは適当な地で開拓事業を始めたいと思っている」
と自分の北海道周遊の意図を語り、彼らが炉辺で茶を啜りながら交わす世間話に耳を傾けた。
「明年あたり、北海道開進会社がこの辺に一万町歩を選んで拓くと言っているそうだ」
「田内という男がサツナイブトに九州天草から二百戸ほど移住させて来るという話もあるべ」
「十勝川上流には十里四方の平原があるのさ。この川筋を小舟で何里も遡って行かねばなんねぇほど奥深い所だが、見事な萱の原が果てしなく広がっているのさ」
「トシベツにも百戸ほど入り、オサウシには水田を拓こうという男が入るという噂もあるぞ」
「トシベツ、オトフケ、オベリベリ辺りは暖かい所なのさ。他は五尺の積雪があるというのにその辺は二尺くらいしか積もらず、冬場に野鹿はこの二ヶ所に集まって来て冬の寒さを凌ぐらしいと。大津川下流の海に近いこの辺りは風や寒気が強くて農事に向かないが、上流は山並が四方を包んでいて、気候もここより緩やかだから農作に適しているのさ」
「武四郎さんも、オベリベリの川筋一帯は肥沃な平地で、将来の繁盛は間違いないと太鼓判を押されており、間違いなかろう」
「しかし問題は道路の開削だべ。道路が付かなければ奥には入れまいて。何百戸が移って来るとか、何万坪が拓かれるとか景気の良い話はいくらあっても実現した例がないのも道理だべさ」
「上流にはアイノの部落もあり、鹿が多く、鮭・鱒・イトウもよく捕れていたが、近頃はどうだろう。あまりいい話が聞かれなくなったのう。カムイコタン、つまり神の国と言うほどに善い所とアイノは自慢しておったのだがのう…」
「うん、一昨年の大雪で鹿がたくさん死に、その上開拓使の鮭漁禁止の通達が出て取締りが始まり、これですっかり暮らしが苦しくなってしまったようだ。いずれアイノも野っ原を拓き、百姓仕事に就くほかあるまいて」
「ここ二年ほど、殿様バッタが異常発生し、辺りの草原を食い漁り、山菜も根こそぎやられているのさ。去年などは大群が日高の山を越え、日高、胆振、札幌の方まで襲いかかり、移住者は皆震えあがっていたそうだと」
「そう言えば近々札幌から開拓使派遣の調査官が十勝に入り、バッタ発生の実態と土地の調査を行なうそうだ。これを機に、開拓使がもう少し十勝の国の開拓に力を入れてくれると良いのだがなぁ」
「なに、バッタ対策も札幌や道南地方の為にやるのであって、十勝に金を注ぎ込む気なんぞあるもんかね」
「その札幌だが、十ヶ年計画が終わる来年から、国の始めた幾つかの事業が民間に払い下げされることになったものの、その払い下げ先を巡って黒田長官が随分新聞で叩かれているそうではないか」
「東京・大阪から政商が黒田長官に面会を求めて押しかけてきたというに、薩摩の五代商会が一人占めしてしまったのさ。結局いつも甘い汁を吸うのは薩長閥の係累と政商ばかりだべさ」
やがて話は政談に及び、官庁への不平不満と愚痴話に至った。勿論勉三は払い下げ問題が世間を騒がせていることは知ってはいたが、どうにもこうした醜聞めいた話には興味が持てなかった。
勉三は北の潮の香りがする茶をぐっと飲み干し、腰を上げ、そっと外に出た。
︱やはり十勝野だ。ケプロン調査団の報告通りだ。ここ以外にない。それに牧畜に適しているというのも確かなことだ。
ケプロンは、「北海道農地不適論」を頻りに流していた英人探検家やジャーナリストに、正面切って反駁している。世界の人口密集地範囲を示す区分け上部線は北海道北端より更に十五度も北を走っており、地質・気候的に稲作には適さずとも牧畜・畑作には保証付きの有望地である、とまで断言していた。
︱ケプロン氏の言っていることは、この地に入り、この地のことをよく知っている商人連中が語っていることと同じだ。南部太平洋に近い十勝野が牧畜農作に適さないはずがない。それにしても、良い開拓開墾適地を手に入れようと思うならあまりおちおちしても居られないようだ。早く帰り、開拓団結成の準備を進め、もう一度この地に来て本格的な土地選定を進めなければなるまい。
勉三は今日中にここを発ち、日高・札幌に向かうことに決めていた。十勝野辺りに開墾地を求めると決した以上、今ここでうろうろしている意味はない。無駄なことだ。本格的な土地調査と選定を行ない、開拓団を結成し、開拓庁に早く開拓願いが出せるように準備することが先決である。
とは言え、彼は決して焦っていたわけではない。勉三にとって「無駄」は三余先生の嫌った「姑息」「怠惰」と同じことを意味していた。「合理主義」ともやや違う、勉三一流の即断即決主義であった。
(2)
ところで、明治十三、四年当時、この十勝野に世間の注目が集まることになった最大の原因は、蝗害即ちバッタの害であった。昨年も今年も、十勝の奥地から日高山脈を越え、日高・胆振・石狩一帯をバッタの大群が襲った。粟、稗、黍、麦、牧草など青草であればなんでも片端から食べ尽くし、農事に携わるものの心胆を寒からしめていた。
驚いた開拓使は発生源を突きとめるために吏員を全道各地に飛ばした。その結果「十勝国の河西・中川両郡」が問題の地であるらしいことが判った。そこであらためて、内田瀞・田内捨六の二人の吏員を派遣し、内陸十勝野の地勢調査を行なうことにしたのである。
勿論それまでも内陸十勝野が全くの未調査地だったわけではない。寛政十二年には幕府の命で胆振勇払詰八王子同心皆川周太夫が大津から十勝に入り、日高山脈を越えて沙流川上流へ抜けている。安政五年には松浦武四郎が石狩川をたどり、十勝川筋を下って道東へ抜け、肥沃の平野地の存在を確認している。静岡藩士白野夏雲の調査もある。そして明治七年にはケプロン調査団の一翼を担うライマン一行が石狩上流から石狩岳東の峠を越えて音更川を下り、十勝野の大平原を調査している。
ただ、開拓使が本格的に十勝野の地勢調査を始めたのは蝗害が深刻になった明治十四年秋以降のことである。
根室から十勝大津に入った勉三を追うように、開拓大書記官調所広丈の命で、札幌農学校第一期卒業生で開拓使御用係の内田・田内の二人が十勝野の地形地質調査に入っていた。彼らが、三ヶ月にわたる調査の結果を『復命書』(調査結果報告書)にまとめ上げたのは、翌明治十五年一月、つまり勉三が北海道周遊を終えて伊豆に帰った後のことである。
「総じて十勝全国は林野草野かれこれ相半ばし、あたかも天造(自然が作ったもの)の大なる牧場の如し。西北に高山ありて北風を防ぎ、雨雪を減ずるを以って土地高燥(土地が高くて乾燥している)、気候温和、牧草甘味にして最も水利に富む。けだし本道十一州中の最も牧畜に適したる所ならん」
これが彼らの見立てであった。
つまり、彼等はこの地が「開拓適地」、とりわけ「牧場適地」であることを再発見したというわけである。「開進社やら田内やらが入殖願いを出した云々」の噂も当地に田内・内田らが調査に入ると人づてに聞いた者達の世間話から生まれた誤解だった。
明治十四年の十月に十勝大津を訪れた勉三が、翌年一月に提出された内田・田内両人の『復命書』の中身を知る由はない。それを考えると、勉三の「十勝野は牧畜適地であり、必ず入殖すべし」との決断が、いかに卓見であったかがよく判る。
それを可能にしたものこそ、勉三の大いなる使命感と、ケプロンがレポートに記した助言の数々、そしてライマン一行の調査報告に他ならなかった。
話は少し外れる。
勉三は既に第一回目の渡北において「十勝野入殖」を決断している︱この説に異を立てる史家は少なくない。後に、内田・田内の『復命書』を読み、それに拠って初めて十勝野入殖を決断した、とする見解である。しかし、勉三自身が明確に語っている。
明治二十年九月二十四日に記した、「十勝国晩成社履歴」に曰く。『明治十四年勉三は函館に航し、沿海根室に到り、石狩をし跋渉し(方々を歩き巡り)、十勝の耕牧に適するを信じ、ここに牧畜を起さん事を期す。同十五年晩成社を設立す』と。
また明治二十四年七月の「履歴書」(北海道屈指の歴史研究家河野常吉が筆写した資料)に曰く。『西別地方(西側の函館・胆振地方)より花咲厚岸(根室と釧路の間にある地域)釧路十勝と沿海を歩行す。十勝川の大なるを見て地域の大なるを察し、小山に登り沃土を眺め、又川源に十里の沃野あるを聞き、この地に開拓せんことを決す』
また明治二十五年三月に勧農協会に提出した晩成社幹事の名による「晩成社沿革史」にも曰く。『明治十四年伊豆の人依田勉三本道に来たり、渡島・後志・石狩・胆振・日高・十勝・釧路・根室等の国を視て、独り十勝に来たりて農作せんと欲し、帰りて郷友に謀るに、皆曰く、一社を立て衆を率いて移住すべしと。依りて社員を募り同十五年一月より晩成社を起こしたり…』と。
これらの文書において勉三が敢えて虚偽を記す理由など何一つ存在しない。
「勉三は第一回渡北の際に十勝入殖を決断していた」と断定して何の不都合もない。
(3)
大津を出て、太平洋の波洗う海浜を四里ほど歩くと勇洞に着く。そこでは「旅の途中ここが気に入り、そのまま居ついてしまったのだ」という佐藤嘉兵衛という中年の男が粗末な旅人宿を開いていた。口が重く、元は松前藩の家臣であったということ以外に自分の素性については何も語ろうとはしなかった。
後に勉三が生花苗に牧場を拓いた際には懇ろに付近を案内してくれ、以後勉三とは終生肝胆相照らす仲となった男である。
この時も嘉兵衛は、
「今晩あたり雨が降るだろう。雨が降れば歴舟川は洪水が溢れて四、五日は動けなくなる。急ぐなら今日中に川を渡っておいた方が良い」
と、親切な助言を与えてくれた。
宿主としての利益を度外視して示されたこの彼の厚意は勉三の心に深く刻み込まれ、忘れ難い思い出として残った。
嘉兵衛が忠告した通り、陽が海に没するや雨が降り出し、天はたちまち暗黒と化し、激雨となった。夕方に歴舟川の船着場に入ったころには旅人は皆すでに宿に休んでいた。勉三は嘉兵衛の助言に従い、危険を冒して川を渡りきった。既に対岸は闇の中にあった。道を見失い、叫べど呼応する者はいない。疲れ果て、手足は凍え、倒れんばかりになってようやく人家を発見し、一夜の宿を得た。
貧しい、漁を生業とする小屋の主が「これで体を温めるとええ」と差し出してくれた一本の徳利酒。主の歓待の温情と熱く燗された酒精とが、冷え切った彼の体と心を温めた。ふと「十勝の国と人と美し麗し」という言葉が浮かんだ。
彼は改めて心に誓った。
「この地に必ず人の羨むような別天地を造り上げよう」
明治十四年十月三日︱広尾を通り過ぎ、近藤重蔵が開いたという山道から波飛沫の襲う海浜を伝って留守別・猿留に出る。
更に二日がかりで険しい路を歩き、襟裳岬方面に落ちる日高山脈の背を越え、猛烈な勢いで吹き荒れる暴風に耐え、幌泉に抜け、ようやく文明の香り漂う西側地域に入る。
第十一章 西の別天地
(1)
日高は十勝野同様、太平洋に面している。が、日高一帯はそれ程広い平野地に恵まれているわけではない。風は少々冷たいが、道内では最も温暖で、雪も少なく、暮らし易い土地柄である。昆布・鮭など魚介も豊かで、養蚕にも十分適していた。麦・粟・稗・黍・茄子・大豆・小豆・蔬菜類は良く成熟を遂げ、更に西瓜・瓜、麻・煙草も上作で、既に水田が開かれ、反当たり七俵もの収穫を上げていた。
地味は火山灰の上に腐植土が混じった黒色砂質壌土で、決して肥沃とは言い難く、どちらかと言うと田畑には不向きであった。豊かなミヤコ笹が群生しており、気候的にも牧畜最適地であった。
明治十四年十月七日、幌別川の畔にある茶店で一休みした際、店の親父が、
「上流二里ほど入った所に臼杵村・西舎村があり、今年五月に神戸から赤心社という、何でもキリスト教の団体らしい人々が入殖している」
と教えてくれた。
勉三はふと、クリスチャンである勝や親長・銃太郎のことを思い出し、その村を訪れてみることにした。
確かに、この日高地方は比較的温暖で、それなりの苦労は伴うにせよ、北の気候風土に慣れない内地人が入殖するにはうってつけの地と見られていた。札幌・函館周辺は既に多くの移住者が入っており、もはや開墾に適した土地が手に入らなくなっていたのだ。実際内地からの移住者が日高一帯に次々と入殖していた。勉三が注目した赤心社もまたそうした移住団の一つであった。
現地責任者の赤心社副社長加藤清徳氏は不在で、しかもまだ移住は僅かに六、七戸に過ぎず、特に見るべきものはなかった。それに近々やって来る第二次移住団七十戸はここでなく、もっと地の利の良い浦河付近に入るということであった。
勉三が赤心社の名前を知ったのはこの時が初めてである。この社がどのような経緯で、どのような趣旨をもって設立されたのか、全く不案内であった。しかしながら、この時から数ヶ月後に伊豆で発足する晩成社は、一年程前に結成されていたこの赤心社から非常に多くのことを学ぶことになる。
赤心社がどのような開拓団であるか少し触れておこう。
赤心社創立の先頭に立ったのは鈴木清という人物で、勉三より四歳上の三十三歳、摂津国三田(現在の兵庫県三田市一帯)藩主九鬼家の重臣である。藩の造志館で文武を学び、馬術を最も得意にした。維新後、三田の蘭学者川本幸民に英学を学び、神戸に出て貿易業に携わり、ここでアメリカ人宣教師デービスと出会う。
当時多くの日本人がキリスト教を忌み嫌い、暴力をもって迫害する中、鈴木は「犬や狼が道を阻むといえども我は行く」といささかも怯まず、キリスト教に入信し洗礼を受けている。神戸・三田の地で熱心に福音を宣伝し、明治七年には同志十一人を集めて日本初の組合派教会である摂津第一公会(現日本基督教神戸教会)を設立している。
彼は熱烈な信者で、熱心に布教を続けつつ、また事業経営にも力を注ぎ、貿易業や缶詰の製造・販売で大いに成功を収め、財力にも恵まれていた。
そんな彼の元に、ある日加藤清徳という男がやって来た。彼は岡山の豊岡村(現在の加茂川町)で神主の息子として神官修業中であったが、維新で日本の欧米化が進み神戸に邪教が横行していると聞き、「邪教キリスト教撲滅」を果たさんと鈴木の元にやって来たのである。が、逆に「今日本人は欧米に負けない立派な日本国を創るために、小異を乗り越えて大同団結し、赤心を以って国家に尽くすべきである」と諭され、心機一転する。
鈴木はかねてより抱いていた「アメリカ・ピューリタンの新世界開拓に倣って北海道開拓を」との計画を加藤に持ちかけた。加藤は鈴木の説得を受け入れ、明治十三年三月の開拓会社赤心社設立に参画、社長鈴木を助ける副社長に就き、日高幌別川上流の開墾地に入ったのである。
明治十四年の秋に勉三が訪れた時、見るべきものがなかったというのは、それなりの事情があってのことであった。加藤ら数人の先発隊は明治十三年十月に浦河に入り、浦河西舎に入殖地を選定した。加藤は第一次移民団の受け入れ準備を進めるべく、そのまま現地に残った。
赤心社第一次移民団五十余名が加藤らの待つ現地に到達したのは、勉三が訪れた時から五ヶ月程前の明治十四年五月半ばのことであった。この移民団は最初から幾つかの不運に見舞われていた。まず強風のために二十日間も函館で足止めを食らい、滞在費用自弁の移民団にとって大変な経済的負担となった。また現地に残った加藤の小屋掛けもまだ完成途上で、寝る所にも事欠く始末であった。更に航海中チフスに感染した者があり、十余名の患者を出していた。その上に、農具・家財道具を満載した帆船が暴風で千島まで漂流し、日高に到着した時には既に播種期が終わっていた。移民団はやむなく札幌辺りに出稼ぎに出なければならず、開墾どころではなかった。
勉三が訪れたのはそうした苦境の最中であった。「見るべきところ何もなし」というのも無理からぬことであった。
勉三がこの赤心社に強い関心を抱き、その「設立の趣意書」を手にするのはこの周遊から帰った後のことである。後に勉三が注目したその「趣意書」にはこう記されていた。
「同志集まり、無資無産の貧乏人であろうと、容易に参加し得るようにして小より大へ、低きより高きに達し、遂に国家の衰運を挽回する大事業にしよう」と。
その主たる目的は貧乏士族の救済、開拓事業の経営であったが、確かにその趣旨は晩成社の、勉三と三余門下生の「世の為に人民の為に」という理想に通じていた。
それにしても、勉三がこの北海道周遊の途中、この赤心社の存在を知り、現地を訪問したことは実に意義深いことではあった。
(2)
臼杵・西舎を出た勉三は、冷たい秋雨の夕暮れ間近、日高門別海浜を走る砂道をしきりに急いでいた。
明治十四年十月十日︱夏盛んな伊豆大沢村を出立してから既に二ヶ月余が過ぎようとしていた。
北の十月は寒い。足は海浜の砂粒に捕えられて重く、雨混じりの冷たい西風が容赦なく吹き付ける。背を丸めて必死に歩を進めて行く勉三の目に、机状台地の崖に這いつくばる密集した槲の木の樹林群が飛び込んで来た。近づいて見ると、何とも奇妙な形状の樹木であった。丈は三、四間もあろうか。皆一様の背丈である。海風が容赦なく吹き付ける崖の斜面一面に繁茂し、遥か彼方まで延々と続いている。
その槲の木々の姿形は、内地の高く素直に伸びたそれとは全く異なっていた。幹は黒く、根元は太く、がっしりと大地を捉えている。その幹は更に二つ、三つ、四つと分かたれ、風雪に鍛えられた鋼の如くに頑健極まりない。しかもそれらは右に折れ左に折れ、怪異に曲りくねり、いたる所で瘤をなし、辛苦辛酸の痕を留めている。左右横に張った枝先には黄色い、あるいは赤茶い枯れ葉が残っていて、烈風に耐えている。
美ではない、壮と言うべきか。いかにも北辺の大地︱寒地烈風の蝦夷地に生息する樹木の群であった。
勉三はふと兄佐二平が好んで口にする「辛酸を楽しむは我が家の流」という言葉を思い起こした。おそらく自分も、この槲の木々同様、大自然の辛酸、即ち過酷極まる風雪風雨の脅威に晒され、嵐に揉まれながら荒蕪の地と血みどろの格闘を繰り広げていくのであろう。しかし、その辛酸を恐れず、それを楽しむ境地に至ってこそ己は鍛えられ、事は成るのだ。
海から吹きつける潮混じりの秋風秋雨に凍える勉三の体内で、依田家の血が熱く滾った。崖に這う黒い槲の林はその強風にじっと耐え、勉三の行く手を励ましていた。
(3)
「一度アイヌ人と話してみたいものだ」
日高門別から佐留太(現富川)に入り、沙流川橋のたもとの商人宿に靴を脱いだ勉三がこう洩らすのを聞いた宿の主は、
「この脇を流れている沙流川の上流に平取という部落があります。彫刻者イモンパの店がありますから、そこで買い物でもしながら話し込んでみたらどうでしょう」
と、助言してくれた。
勉三は前々からアイヌの生活の場に触れ、実際にアイヌが食しているものを口に入れ、その人となりに接してみたいという願いを抱いていた。旅の途中に時々アイヌとすれ違うことはあった。が、彼らと親しく接するという体験はついぞ持てないままであった。
言葉も生活習慣も風俗も違う彼らは元々は「異族」であった。アイヌに「和人」と呼ばれた内地人は彼らを「土人」と書き表し、一段下等な者に見なしていた。十勝川上流には多くのアイヌが住み、鹿や獣を狩り、鮭や魚を獲り、山菜や根菜を採って暮らしているという。いったい彼らとどのように付き合っていったらよいのか。勉三にとって決して蔑ろにできる問題ではなかった。
佐留太の宿主が紹介してくれたイモンパは、この辺りではよく知られたアイヌの彫物師で、鮭の木彫りやら盆などを彫り、土産物として売っていた。
翌日、イモンパの店目指して沙流川を遡って行くと、偶然「義経神社」の前を通り掛かった。付近に居た旅人から「義経さんは平泉からこの地に逃れて来て、アイヌを助けた後、さらに大陸方面へ落ち延びて行った」という「義経伝説」を聞かされ、その判官贔屓には苦笑させられた。
もっとも、後でこの辺りのアイヌ古老に話を聞くと、彼は「シャクシャインが騙し討ちにあった後に和人が広めた作り話だ。昔からこの村では、財宝やメノコを奪って行く悪い魔神を退治した英霊神オキクルミのユカラが詠われて来た。そのオキクルミの話が義経にすり替えられたのだ。アイヌが和人を有難がるようにとな」
と、吐き捨てるように語った。
この話を聞いた時にも、勉三は和人とアイヌの心の溝の深さをあらためて思い知ったことであった。
平取は七百戸ものアイヌの家がある全道一大きいアイヌ部落であった。
勉三は、道を聞くために寄った家の老婆が多少は内地語が通ずるというので、遠慮がちに、
「ここでアイヌの料理を食べさせて貰えないか」
と頼んでみた。
彼女は「とんでもない」と言って断ったが、その断り様はまるで大名に対するかのように遜ったもので、勉三をひどく恐縮させた。
彼女が勉三をイモンパの茶店に連れて行き、事の次第を話すと、イモンパの家の老婆が彼を接待してくれることになった。暫くすると、イモンパの老婆はまず板敷きの床の上に高さ一尺程の高台を設えた。その後で朱漆塗りの脚付盆に金蒔絵を施した立派な赤椀を載せ、それをあたかも貴人に捧げるかのようにして運んできた。椀には少し黒い油汚れが付いていて、幾分不潔な感じが免れなかった。
一つの椀には南瓜と炙魚を混ぜて煮詰めた糊のようなものが盛られ、もう一つは南瓜の煮物であった。料理には塩味というものが全くなかった。傍らに置かれた小鍋には黍粥を炊いたものが入っていたが、口に入れてみると黍滓が口の中に溜まり、これも決して美味と言える代物ではなかった。
すると、ここに案内してくれた老婆がやって来て、「こればかりだが」と言って家から持って来た隠元の煮豆を一皿差し出した。勉三が感謝の印にと銅貨と弁当の半分をやると、今度は再び珍しい小魚を携えてやって来て「土産に」と言う。恐縮して紙幣を渡すと今度は家から小刀を持って来て土産の小魚の腸を抜き、小枝を刺して携帯できるようにし、更に蕗の葉で蓋まで作ってくれたのである。
結局イモンパ本人には会えなかったが、勉三は接待に応じてくれた二人の老婆に礼を尽くし、見事な鮭を彫り刻んだ茶盆を買い求めてアイヌ部落を後にした。
勉三はアイヌの人柄の良さ、損得に囚われぬ、あるいは損得に疎い親切心に溢れた接待に驚き、心温められた。が、その帰りすがら、世知辛い生き馬の目を抜くような今日の時代を、彼らがあのままに生き抜いていくことができるのかどうか、強く危ぶまざるを得なかった。
「彼等を侮蔑することは絶対に許されないことだ。ぜひとも仲良くせねばならない。そして、彼等と共に農事を行なうことが出来たらどんなに良いことか…。いつか、必ずそうせねばなるまい」
平等主義者三余譲りとも言うべき勉三のその思いは、たとえば吉田松陰が嘉永五年春に津軽を訪れた際、現地の日本人商人が、集落を作って住んでいたアイヌをまるで犬か牛馬であるかのように扱うのを見て、「習俗や慣習が違っても同じ人間ではないか」と、激しい怒りを吐露したことに通じていた。
(4)
明治十四年十月半ば、北海道稲作開発の先人中山久蔵に会うべく、勉三は勇払・苫小牧を経て美々から広島村島松に入った。
久蔵に会うことを強く勧めたのは、開拓使専属の写真師として道内各地を歩き回っていた田本である。田本は、ケプロンの進言を聞き入れた開拓使が米作に否定的であったにもかかわらず、久蔵が自らの信念を貫き、果敢に寒地稲作に挑戦し、これを実現させたことに甚く感激していた。
勉三が面談を求めた寒地稲作の第一人者中山久蔵は実に快活な男で、その顔付きは自信に満ち溢れていた。そして、すこぶる上機嫌であった。ちょうど二ヶ月前、明治天皇がここを訪れた際、自作の米、馬鈴薯、胡瓜、ぶどう等を昼食に提供し、お褒めの言葉を賜り、大いに面目を施したばかりだったからである。
河内国(現大阪府南河内郡)の片田舎の農の出であった久蔵は、同じ農の出である勉三の「農としての気概」をすぐに見抜き、懇切丁寧に自分の経験を語り聞かせてくれた。
久蔵はこの時齢五十三。二十五歳年下の勉三は恐らく息子のように見えたことであろう。勉三にとっても久蔵は〝農夫勉三の父親〟といったような独特の感情を抱かせた特別な存在であった。
勉三が訪れた明治十四年当時︱
「今では良作の年は反当たり米二石から二石四斗の収穫があるのだ。また大麦・小麦だって反当たり二石以上の収穫がある」
久蔵はそう語り、開拓使や農学校の学士が唱える「米作危険論」を一笑に付した。
そして彼は、寒冷の地における稲作成功の鍵となった、水を温めるための水路の長い貯水池を見せ、その工夫の数々を教えた。
「依田君、日本人はやっぱり米を食わんと力が出んのだよ。米と漬物さえあれば何とかやっていける。それに藁がなければ縄が綯えない。米や藁を一々内地から運び込まにゃならんということでは開拓は進まん。それだけではない。もう一つ、忘れちゃならんことがある。酒、酒だよ。北海道の寒さを防ぐには酒が一番。アイヌの酒飲みを笑う者がいるがとんでもない。ここの冬の夜の凍れ方は大変なものだ。仕事終いの後は、うんと酒精を注ぎ込んで体を燃やさんことには生きた心地がしないのさ。ここでは酒は必需品と言わねばなるまいに。上等な酒でなく、濁酒で結構。とにかく米さえあればいくらでもできるというものだ」
久蔵はそう言って大笑いした。
勉三は、夜雨の中、暦舟川を渡った所で道に迷い、寒さに震えあがったこと、助けてくれた宿の主が差し入れてくれた一杯の酒が、その時芯から身と心を温めてくれたこと等を、あらためて懐かしく思い起こした。
勉三にとって、久蔵は実に身近な人物に思えた。この人もまた、自分と同じように、農として世に尽くそうとの決意に燃えている。あらゆる困難と反対と批判に抗し、北の大地を熟田の地に変えんと、ひたすら実践躬行に励んでいるのである。
︱ここにも手本とすべき人物がいる。
勉三は、久蔵の歓待に深い感動を覚え、初対面の彼に十勝野開拓の志を告げた。久蔵は目を輝かせ、勉三の肩を強く叩いて言った。
「その意気だ。その大志を忘れずにな。後は為すのみだ。何事も為せば成る。この俺がその証だ」
勉三は、久蔵に別れを告げると心躍らせ、寒風をものともせず、札幌に向かって勢いよく歩きだした。
(5)
勉三が北海道の首府札幌に入ったのは、明治十四年十月十五日のことである。
この大都で、彼を温かく迎えてくれたのは、田本の友人で、同じく開拓使写真御用掛に任命されていた武林盛一であった。
武林は実に社交的な男で、顔も広かった。さすがにこの三年後に上京し、東京麹町に写真館を構えて成功を収めただけの人物である。実際、勉三があちこちの開拓使施設を隈なく見学することができたのは、この武林のおかげであった。
勉三がここで観察することが出来たのは、農学校所轄の家畜房、屯田兵村の共同養蚕所と開拓使養蚕所、開拓使工業課の水車・蒸気を使った鋸器械と木工所、鍛工所、鋳造所、麺粉製造所、織物工場、製糸場、紡績所染工場、ビール製造所、葡萄酒醸造所等など、目を見張るばかりの洋風施設の数々であった。
しかし、最も勉三の関心を強く惹いたのは、エドウィン・ダンが設計した真駒内牧場で見た洋風農具と新しい酪農経営法であった。十七万坪・百九十トンの牧草も洋式器械を使えば、刈入から乾燥貯蔵まで四匹の馬と人間三人で僅か十日の内に片付けてしまうというのである。洋風農具の威力にあらためて目を啓かれる思いであった。
もっとも、後に知ったことであるが、アメリカから持ち込んで来たこれらの大型農具使用には問題もあった。アメリカ西部の農場程広くもなく、また処々に木の根や岩石が残る日本の農場にはうまく合わない点が多々あった。要するに小回りが利かな過ぎた。これら洋式農具が北海道の農場で本格的に活躍するようになるのは、明治末期から大正の初めにかけてである。この頃、道内の農民・大工・鍛冶屋・器械製作所が研究と工夫を重ね、農業器械の小型化を実現し、ようやく「北海道式農機具農法」を確立するのである。
またこの札幌真駒内牧場では乳牛百三十頭を飼育し、牛乳生産だけでなくバター・乳粉・チーズの製造も試みていた。内地に販路を広めるためには、やはり製品加工がぜひとも必要だったのだ。
それは兄佐二平が養蚕だけでなく製糸工場を作り、農山村の産業育成を図り、より安定した収入を確保せんとした方針と同じであった。
それはまたケプロンが農家の自立自給への道として、その報告において繰り返し強調していたことでもあった。
ところで、勉三が十勝原野へ入殖を企てていることなど、武林には思いもよらないことであった。頭から札幌近辺に入るものと思い込んでいるようであった。それ故、彼は札幌近郊を案内しながら、札幌の冬季生活について事細かく教えてくれた。
湯屋や暖房のため大量の薪が焚かれ、黒煙が街全体を被い、煤が流されっぱなしになっていて、不衛生極まりないこと。冬は皆大根を漬けるため近隣農家と契約するのだが、近年その大根が細くなっており、この辺りの畑の地力の衰えが目立って来ていること。雪室など寒地特有の雪や凍れを利用した野菜の貯蔵の仕方。更には貧しい家は防寒の為に多く火を焚くことから空気が濁り、その上脂っこい安魚ばかり食し、湯に入ることも稀なため、疱瘡になる者が非常に多いということ。羆も出ることがあり、かつて乳児が襲われ、殺した羆の胃から子供の手足や頭巾が出て来たこと。札幌の移住者は元士族が多いせいか、とにかく麦を食べることを恥ずかしがる者が多い。それ故麦を作る者が少ないため、官庁は麦一斗と米八升を交換しているという。それでようやく近頃は麦を植える者が多くなってきたこと、等々。
こうした武林の話は勉三にとって貴重な情報となった。見知らぬ街で武林が示した親切心は勉三を励まし、北海道移住への意欲を更に掻き立てた。
勉三の初めての北海道周遊の旅も、ようやく終わりに近づいていた。
明治十四年十月二十二日、札幌に早くも冬が訪れようとしていた。この日は、雹混じりの雨・雪が舞い、晴れ間が出たかと思うと一転にわかに掻き曇り、墨を流したように暗黒となり、気がつけば一転して辺りは白い雪に覆われ、一面の銀世界であった。
勉三の故郷伊豆ではついぞ見た事のない天候激変の光景であった。
「これが北辺の地北海道の北海道たる所以か」
勉三は北海道開拓の厳しさをあらためて思った。
「十勝野はここよりも遥かに奥地にあり、しかも未だ文明及ばざる地である。計り知れない困難がある。しかし、何としても十勝野の荒蕪の地をこの手で拓き、祖国と人民のために尽くしたいものだ」
勉三の心は既に十勝野に飛んでいた。
勉三が小樽を出航し、函館の港に寄り、更に品川の港に帰着したのは、明治十四年十一月二日未明のことである。故郷大沢村を出立してから二ヶ月半に及ぶ、長い、だが充実した北海道周遊の旅であった。
道史Ⅱ 中山久蔵と寒地米作
四部 創業篇
第十二章 同志集う
(1)
中学の授業終了後、下田に書籍を買いに出かけた渡邉勝が学校に帰ると、
「吉村でお客様が先生のお帰りをお待ちしているとのことです」
との伝言があった。
明治十四年十一月二十三日午後のことである。
吉村というのは豆陽中学のすぐ南にある旅館で、この辺りに所用で来る者はたいていここに宿泊した。勉三も佐二平もここを定宿にしていた。中学の宴会もすべてここを使っており、人懐っこく、開け広げの性格の勝は、ここでもすっかり好い顔になっていた。
「親父、お客って誰だい?」
突然の訪問客であり、全く予測がつかなかった。
主は笑いながら、
「会えば分かりますよ」
と、二階に案内した。
「ワッデル先生! おう、勉三さんも!」
こんな所にいるはずのない二人が並んで座っていたのであるから、勝がびっくりしたのも無理はない。
「私は二十日ほど前北海道から帰り、開拓結社を作るための準備であちこち飛び回っていたのです。実はワッデル先生をお連れしたのもその準備のためです」
「マ、話ハ後ニシテ、マズ依田サンノ無事帰還ヲ祝ッテ乾杯シマショウ」
勝は怪訝な顔のまま盃を挙げた。
勉三はそんな勝を前に、北海道周遊の経過、蝦夷地の内地と全く異なる風土・風俗について、或いは当地の開拓事情について、詳細に熱く語った。勝は勉三の話に驚きつつも、夢中で聞き入り、強く惹きつけられていた。
―果て知れぬ原野が延々と続き、大河がゆったりと平原をくねり、豊かな森が山を覆い、鹿や狐が群れをなして駆けて行く。広い放牧地には馬の群れが遊び、のどかに草を食んでいる。なんと雄大で、悠然たる光景であろうか。
勝はいつしかその未開の北の地に自分の夢を重ねていた。森林に囲まれ、西洋風に造られた街が広がり、その真ん中に教会堂が建っている。安息日の日曜日には、街に住む老若男女が大勢集まって来て、先生や自分の説教を楽しげに聴いている。街には市が立ち、人々の顔が輝いている…。
勉三は頃合を見計らったように、こう切り出した。
「私はずっと前、そう、ワッデル先生の塾にお世話になった頃から、いつか北海道開拓に取り組みたいと考えていました。そして、それが本当に確かな計画になった暁には勝君にも相談し、ぜひ同志に加わってもらおうと思っていたのです」
「私ガ今日ココニヤッテ来タノハ、勉三サンニソノ話ヲ聞イタカラナノデス。貴方キット私ニアドバイスヲ求メルデショウ。コノヨウナ大切ナ話、会ッテ話スノガ一番ネ」
勝は声も無く俯いた。嬉しかったのである。勉三がずっと何かを心に秘めていることは知っていた。いつかきっとその思いが実現する時が来るに違いないと見守って来たのである。だから、彼が北海道開拓を求めて周遊の旅に出たと聞いても決して驚かず、いよいよその時が来たことを祝福する気持ちでいた。
︱しかし、「共に開拓の事業を」というところまで自分を認め、信頼してくれていようとは…。先生も、わざわざこんな遠方にまで来て下さり、こんなにまで親身になって考えて下さるとは…。
勝の偽らざる思いであった。
「有難いことです。開拓、それも北海道の開拓と聞くと、胸が騒ぎます。昔夢見たこともありました。でも、私はこの伊豆の地で信仰の畑を拓き耕すことに決めたのです。それなのにまだ大してお役に立てないままで……」
ワッデルは、大きな片手を振ってそれを遮った。
「伊豆ニ居ヨウト、北海道ニ行コウト、貴方ハ貴方デス。ソレニ、何処ニ行ッテモ、神様ハ私達ト共ニ居ラレマス。信仰ヤ布教ハ国モ人種モ場所モ選ビマセン。ソレニ、貴方ハ何時、何処デ、何ヲシヨウト自由デス。開拓ハ新シイ街ヤ村ヲ創造スル魅力的ナ事業デショウ。貴方ガキット惹カレルハズト分カッテイタカラ、コウシテ勉三サンニ同行シテ来タノデス」
「ワッデル先生もそう言って下さる。どうだろう、この話、受けてもらえまいか」
「ワッデル先生の許可が頂けたとなれば一も二もありません。是非にお願いします」
勝が差し出した手を、勉三はしっかりと握り締めた。
この時、四十三歳になっていたワッデルは、十三、四歳も年少の二人の青年が手を取り合って喜ぶ姿を目の辺りにし、自分の若き日の「向こう見ずな挑戦」を懐かしく思い出していた。
アイルランドの教会牧師の子として生まれたワッデルも、二十九歳の時、日本へ来る数年前の一八六九年(明治二年)、自分の教会を手伝うようにとの父親の命に背き、キリスト教伝道師として中国北部の奥地に赴き、布教活動に情熱を注いでいた。風土病に罹り、結局二年ほどの滞在に終わったが、今でも時々彼はその向こう見ずな時代の体験を思い起こし、それを勝の身の上に重ねることがあった。
翌日昼、ワッデルは豆陽中学を訪れ、目にするのはこれが最後になるであろう勝の授業風景を見学した。その後で、このような日が来るのを予め知っていたかのように、東京から持って来ていた、自分の大切な使い古しの新約・旧約聖書の『註解』を取り出し、勝に渡して言った。
「新シイ門出ノプレゼントヲ上ゲマショウ。北海道ニ移住ノ後ハコレヲ私ノ分身ト思ッテ耳ヲ傾ケ、頼リニシ、神ニ奉仕スルヨウニシナサイ」
ワッデルはにこやかな笑みを浮かべて別れを告げ、天城峠を越えて修善寺に至る山道に消えていった。事情を知らない旅館吉村の主は、その後ろ姿に何とはなしに寂寥が漂っているのを見て、
「何故でしょう?」
と傍らの勝に問うた。
勝は胸の奥から何か熱く込み上げて来るものがあり、ついに一言も発することが出来なかった。
(2)
勉三は、旅から帰るとすぐに、汗と脂と泥にまみれた分厚い『北海道周遊記』を佐二平に差し出した。これにはさすがの佐二平も驚いた。日誌には、旅中のその日に観たこと聞いたことがびっしりと書かれていた。見事な見聞録であり、報告書であった。
「いかにも、一度進む道を決めたら徹底してやらねば気のすまない勉三らしい」
佐二平はこうした弟の目的に向かってまっしぐらに突き進んで行く流儀、常識離れした合目的的なやり方にあらためて感心し、できる限りの応援をしてやろうと、心に決めていた。
明治十四年十二月初め︱
佐二平は松崎分家塗り屋の依田園改め善六を呼び、三人でこの問題を真剣に議論することにした。善六は佐二平の四歳下、勉三の三歳上の従兄弟だ。妹リクの夫であった勉三を大いに気に入っていて、何事においても勉三への協力を惜しまなかった。そしてこの三人こそ三余塾門下の俊才であり、三余の思想と精神を最も色濃く引き継いでいたのである。
勉三の理路整然とした、また実地検分に裏打ちされた「北海道入殖論」はそれを聞く佐二平と善六の二人にとって十分に説得力のあるものであった。残された問題はどのような移民団を組むか、どこに入殖するか、費用はどうするかであった。
勉三には一案があった。
北海道から戻った勉三は品川に着くとその足で開拓使の御用雑誌とも言うべき『北海道開拓雑誌』を買い求めていた。田本・武林らとの話にしばしば登場したこの雑誌は、前年の明治十三年一月に津田仙が創刊したもので、極めて実践的な北海道移民・開拓の手引書となっていたのである。
明治初期の本格的な北海道移民の中心は士族移民だった。その代表例が明治二年の会津藩士の余市入殖であり、仙台亘理藩伊達邦成主従の有珠原野への入殖であり、明治四年の稲田一族の静内入殖であり、明治十年の尾張徳川家の遊楽部川周辺(後の八雲村)への入殖である。明治四年には薩摩の西郷隆盛もまた桐野利秋を北海道視察に送り込み、後には屯田兵団設置を提案している。
新政府は、家禄を返還した士族には授産金を下付し、彼らに開拓事業への取り組みを奨励した。開拓使もまた「山林荒蕪地払下規則」を制定し、これらの藩主・士族移民団に対しては特別に「開拓地無代下付」の処置を採っていた。
明治十年代に入ると、出資者を募る「結社移民」即ち会社組織による移民が始まる。明治九年、渡米して西洋農法を学んで帰国した元幕臣の津田仙が学農社を設立し、「出資者を募り、大資本を集め、欧米式大農法を」と呼びかけたのがきっかけであった。その代表例こそ、勉三が先の渡北の旅で訪れた開進社であり、日高の赤心社であった。もっともこうした移民結社もまた士族が中心であり、やはり「失業貧困士族救済」の色合いが濃かった。
アメリカ帰りのキリスト教徒であった津田は雑誌の創刊号にこう記していた。
「今の北海道は異日(他日)のカリホルニヤ州なるは吾輩のする預信する(予め信ずる)ところなり」。然るに「北海道の人情、風土、物産等の新状況を記録して有志者の参考に供しその有為(事を為す)の志を翼成する(助けて成功させる)の書、甚だ乏しきを以って…ほとんどその巨細(こと細かい状況)を得るに苦しむ。…是を以って吾輩今この雑誌を編集し、北海道十一ヶ国開拓の模様は勿論、彼の地に適する草木蔬菜の培養より六畜(牛・馬・羊・鶏・犬・豚)飼育の方法、衣食什器の製造方法に至るまで、いやしくも利益あると認むることは紙筆を惜しまずその要を論述し、また海陸物産の収穫状況と遠近町村の人情風俗とは委しく雑報欄内に掲載してその都度これを世間に知らしめ、別にまた開拓使録事(事件を記す書記役)の一欄を設けて同使の布令報告等にて緊要の条目は新古漏らさず記し、こと北海道に係るものは是が報道を怠らざらんとする嗚呼」と。
二号では、政府の強制・保護を嫌い、あくまで自主独立の民間人による開拓を主張していた。更に津田は「アメリカの祖先なるピュリタン宗教メイフラオル船より上陸して移住の道を開きたる図」との説明がついた挿絵を掲載し、こう訴えた。
「わが国人は元来愛国の心厚く、義のためまた道の為には死をも顧みざるは、古来の常習にして、今猶幸いにその遺風余俗(昔から残っている風俗・習慣)の存するあれば、この精神は以って宗教の精神に易う(取り換えられる)べきなり。故に吾輩は有志家に移住の門戸を開き、それをして充分の力を伸べしめば、住民怨望する(恨めしく思う)の悪徳なくしてピュリタンに法るに足らざる実効(ピュリタンに学ぶ以上の実際的効果)あるべきを信ず」と。
即ち、道の為、義の為、国の為には死をも恐れぬという武士道精神はアメリカ開拓の宗教精神︱ピュリタンのそれに取って代わり得るものであり、絶対に成功すると、檄を飛ばしたのである。
彼のこの雑誌は、明治十四年九月三日付第七十三号まで継続され、見事その使命を果たした。
この雑誌中に、勉三はあの浦河で観察した赤心社(本社・神戸)の記事を見出し、移民結社について詳しい知識を得ることができたのである。出資者を募るこの新しい移民組織こそ、勉三が漠然と求めていた当のものであった。当時まだ商法もなく、こうした結社は「私設の移民組織」でしかなかったが、後の合資会社・株式会社・法人会社そのものであった。
佐二平・善六も、勉三が語るこの新しい移民結社に関心を寄せ、赤心社に興味を抱いた。
善六は勉三に尋ねた。
「赤心社とはどのような結社なのだ! 本社は神戸にあるというが、どのような人々が集まって結社を起こしたのか?」
「社長として先頭に立っているのは元摂津三田藩士の鈴木清という人物で、元藩主九鬼公が株主に名を連ね、後ろ盾となっているとのことです。九鬼公は、早くから摂津に西洋文化を持ち込み、藩内の英蘭塾塾頭川本幸民先生を通じて福沢諭吉先生とも親交を結んでいます。鈴木氏もまた自ら福沢先生の助言に従って神戸に出て志摩三商会を起こし、医薬・食料品の輸入貿易に当たっているという開明派です。それに九鬼公はワッデル先生や銃太郎君の師ブラウン先生もよく知っている米国宣教師デービス先生と交流が深く、神戸教会・神戸英和学校(後の神戸女学院)の設立に協力を惜しまなかったようです。三田藩士にもキリスト教徒が多く、鈴木社長も熱心なキリスト教徒で、この雑誌を創めた学農社の津田殿とも、同じキリスト教徒として互いに提携し合っているということです。株主の中にも、北海道に渡った耕夫・小作人の中にも、キリスト教徒が随分多いと聞いています。ただ、この設立趣意書・規則を見る限り、赤心社は教会とは全く別の開拓移民結社として起こされています」
勉三はそう言って、七号雑誌に掲載された鈴木清起草の「赤心社設立趣意書」と「同盟規則」を広げ、読み上げた。
「…そもそもそれ北海道の地たるや地味肥沃にして土壌広大、真にわが国の宝庫なるは学農記者を始めとして措かざる所(もはや不動の事実)なれば、今更吾輩の贅言を待たず(言うまでもないこと)。かつ当路(重要な地位にある人)の諸賢も夙に(早くから)ここに見るありて、巨額の官費を投じてその開拓に下手する(手を下す)や、ここに年(何年間かの期間)あり。また近くは開進社のごときもまさに大いに為すところあらんとするは、著しく世人の知るところなり。然れどもその事業たるや素より遠大の鴻業(大事業)として一朝一夕に奏功す(出来上がる)べきにあらず。随って資本も莫大なれば……吾輩のごとき貧人に至ってはたとえ後来(将来)大なる利益ありて自家の富楽を来し、往々国家に鴻益(大きい利益)あるを知るも、目下資本に乏しきを以ってただ徒に遥貌(遠くから望み見るに)して他人の快楽を羨むのみなれば、その業の進むに随い、富者はますます富み、貧者はいよいよ貧に陥り、遂に国家の衰運を招き来さんとす。これを以って、吾輩同志相集り、無産無資の貧人をして容易にこれに従事するを得て、小より大に進み、卑しきより高きに達し、遂に国家の衰運を挽回するの大事業を興起せん(盛んにし興す)と、同盟の人々、申し合わせ規則を設立する事左の如し」
「満期以後といえども、決して本社を解放するを欲せず、社員は各自奮発勉励して永続の方法を謀り、同盟者は子孫永々同心協力して、小にしては各自の生産を経営し、大にしては日本帝国の財政を隆豊(盛んで豊か)ならしめ、万一有事の日に際せば北門枢要の衝路(敵の攻めて来る北方の重要な道)に当たり、屍を北海の浜にさらし、日本男子たるの本分を尽さん事を最後の目的とす。ああ、わが同志愛国の諸君よ、僅かの酒飲料の一部を投じて永く子孫の生産を図り、併せて報国の赤心(国の為に尽くすというまごころ)を奮起するの意なきか云々」。
「なる程、なかなかの趣意書だ」
佐二平も善六も、一読し深く頷いた。
「赤心社という社名はこの〝報国の赤心を奮起する〟から採ったもので、大した意気込みです」
勉三はいかにも感に堪えないと言うように呟いた。
「恐らくは家禄返還によって僅かな下付金を得た士族諸氏を糾合して北海道開拓を志したものであろう。あくまでも貧民士族の富裕を図るものであるが、国家に報いんとの赤心・真心もまた見事なものだ。勉三、お前もこのような士族結社に負けないような社を組み、世の為人の為に至誠を尽くすことだ。三余先生もあの世からきっと見ておられるに違いない」
佐二平のこの言葉に、善六もまた同意した。
「そうだ。農たる者の誇りを忘れず、農として、農を通じて立派に社稷に報いる。名利を求めず、無私献身を貫くこと︱それが三余先生の教えだった。勉三君、君の背後にはわれわれ三余塾門下生がついていることを忘れないでくれ」
佐二平と善六は、それぞれに、これから先どんなことがあろうともこの一途で大いなる使命に燃える勤勉一筋の勉三を支え抜いてやろうと、あらためて心に固く誓っていた。
「ありがたいことです。私も三余先生の名を辱めないよう命懸けでやります」
勉三は遥か遠くをグッと睨み、自らに言い聞かせた。
(3)
「ところで」と佐二平が尋ねた。
「勉三、お前は入殖地を北海道のどこに選定するつもりなのだ?」
勉三は断定的に答えた。
「実は、既に十勝野にと心に決めております」
勉三がこの時まで「十勝野」と言い出さなかったのは躊躇があったからではない。まず北海道開拓の事業を興すことが決まらねば何も始まらないからであった。入殖地選定の問題はそれからの話だった。
「十勝野? 十勝野と言えば随分奥地ではないか」
善六は驚いたように聞き返した。
「困難が予想される十勝野を選定するからには、それだけの理由があろう。それを聞かせてもらおう」
佐二平も勉三を促した。
「既にお話ししましたように、松浦氏もライマン氏も、十勝川上流には広大肥沃の平原地が眠っていると記しており、私は渡北前からそれに関心を持っておりました。
実際、この目で十勝川の河口付近の原野を視察して来ましたが、その広大さと草木の豊かさは目を見張るばかりです。河口付近ですらこうなのですから、中流・上流は推して知るべしでしょう。
大津周辺の者も中上流は比較的温暖で昔から鹿猟の宝庫としても有名だと申しておりました。
あの開進社もこの地に目を付けているようです。いずれあちこちの移民団体が入殖を始めるでしょうが、とりあえず私は中原に一万町歩の牧場地を拓きたいと考えています」
「一万町歩とはな! これは驚いた。想像もつかぬわ!それにしても既にそこまで考えておるとは……」
善六は目を見張って勉三の顔を覗き込んだ。
「開進社と競り合おうというのか? 焦っているのではあるまいな」
佐二平はあくまで冷静であった。
「その点はご心配なく。何も功を一人占めしよう等という気持ちは毛頭ありません。それに、函館の田本氏の話では、開進社は現状で手一杯で、とても十勝野に手を着けられるような状況にはないそうです。おそらく、十勝野に道路が開削されるまでは、誰もなかなかあそこに入殖しようという事にはならないでしょう。それに、開拓使は対露防備の軍事的価値がないということで、全く動こうとしていません。それだけになおさら、今こそ十勝野を世に出す為に壮大な企画を立てて世に問うことが必要なのです」
勉三が「一万町歩の牧畜場開拓」という途方もない企画を打ち出したのには、それなりの理由があった。
ケプロン調査団は、北海道には広大な平地があり、気候的にも牧畜・畑作に適していると、繰り返し指摘していた。が、問題は道路であった。
ケプロンは「北海道開拓の要は道路にあり」と指摘し、「道路は国の血脈なり。脈絡なければ木偶(木彫りの人形)の如く活動あるなし。これをこそ開拓使の最も緊要にして急務の事業とす」と強調していたのである。
十勝野を世に出す要はこの道路問題にあった。しかし、未だ新政府にその機運はない。如何にすべきか?
―もし十勝野奥地に実際に牧場地が拓かれれば、政府も開拓使も日本の国民もこの地に強い関心を持つことになる。そうなれば、必ず道路の開削が進むはずだ。まずは何としても大計画を持って奥地開拓に先鞭をつけることが大事である。牧場は畑作と違って開拓開墾が容易であり、十勝野のような奥地を一気に拓くには最適であった。まず牧畜を軌道に乗せ、その後で畑や田の開墾に取り組んでいけばよい。
つまり、勉三が敢えて「一万町歩の牧場地開拓」という壮大な企画を公言しようとする真の目的は、政府・開拓使をして十勝野の道路開削に目を向けさせることにあった。その為に、まず自らが先兵となって十勝野に入り、旗を立て、道を切り開く決意であった。
「畑作地の開墾は困難ですが、牧場地の開拓はそれ程のことはありません。もっとも、最初は自給自足の為の畑作地の開墾がぜひとも必要で、これは何としても軌道に乗せねばなりません。問題は米です。ケプロン氏は小麦適作論を唱え、米作は不適にして益無しとしていますが、道内各地で稲作が試みられ、中山久蔵氏などは南西部一帯の寒地稲作に一定の目途を付けています。十勝野でも決して不可能ではないはずです。勿論少し先の話になるでしょうが、いずれぜひ挑戦してみたいと思っています」
「ほう、そこまで考えておるのか。これなら成功間違いなしだ。のぅ、佐二平さん」
「うん。だが道路が開けておらねば、運送運搬の問題がしばらくは大きな壁になる。この問題をどうするかだ」
「それについては、アイヌの人々に倣い、十勝川の舟便を利用することになります」
佐二平は、先ほどから感心しきりといった按配の善六の顔を見ながら、笑って応えた。
「そこまで掌握しているのであれば問題はない。一族挙げて協力しようではないか。新しく作る結社の趣意書・規則その他はお前に任せよう。渡邉君とよく相談して作るがよかろう」
この日、次のことが決まった。
新しく創る移民結社の資本金は五万円とする。最初に依田一族を中心にして有志より半分の二万五千円分の株を集める。残りの二万五千円分の株は順次、現地自耕者より募集していくこととする。明治十五年の五万円は現代のおよそ四、五千万円に当たる。ちょうど近々佐二平と善六が中心になって豆南汽船会社を興すことになって
おり、依田一族だけで全てを負担することは難しい。それに三余門下に助成を請うことは、それなりに意義を有することであった。この事業をやり遂げることは「日本国の農としての誇りを忘れず、世の為に人民の為に尽くせ」と教えた三余先生門下の底力を示すことにもなるからだ。
勉三はすぐに結社の『規則』の執筆と仕上げに取り組み始めた。既に構想は出来上がっていた。彼は、その巻頭に簡潔極まりない筆致で、次のような呼びかけを掲げた。
「北海道の開否(開かれるか否か)は、わが全国の形勢上、重大の関係あるところなれば、国民の義務としてその責任を担当せざるべからず。これこの社を起こす所以にして又わが同胞人民の賛成を請う所以なり。熟々(よくよく)全道を察するに、周囲八百里、沃野渺茫(果てしなく広々とした様)として極まり無きも、人口わずかに二十万人。商に漁に稍(少しばかり)緒を発くと言えども未だ耒耜(すき)をとるもの甚だ稀なり。その偶々これあるも唯に三、四州に過ぎず、而して(そしてしかも)他の七、八州は実に無人の地なり。今この曠野をして秋成(秋の取入れ)を速やかにせんと欲せば、牧畜に若くはなし。況やや穀菜はある緯度のみ適するも牧畜は遥かにその緯度を越えて蕃息(盛んに増大)すべきに於いておや。故に先ず牧場を開き、ようやく人口を加殖(増やす)して熟田(耕作された田)となして国帑(国の財産)の万一を補せんとす。仰ぎ願わくば諸君幸いに本社の微衷(わずかな真心)を容れ、協力賛成あらんことを」と。
勉三の入殖目標地ははっきりしていた。「他の七、八州は実に無人の地なり。今この曠野をして秋成を速やかにせんと欲せば、牧畜にしくはなし」―即ち奥地たる十勝野の開拓開墾である。
そして、士族移民団や士族結社に必ず顔を出す〝北の守り〟を意味する「北海道は北の鎖鑰」という言葉はな
く、「わが全国の形勢上、重大の関係あるところなれば」と軽く触れるにとどめている。平民にして百姓であった勉三の開拓目的は、開進社や赤心社とは全く異なり、農そのものが目的であり、農を通じて国に貢献することにその本志・本懐があった。
(4)
「ほぅ、雪か!」
渡邉勝は窓の外に目をやった。旅館吉村の二階部屋のガラス戸越しに、ちらちらと粉雪が舞っていた。伊豆は温暖の地ではあったが、たまに雪が降った。昨年の冬は猫越峠が雪で不通になった。それにしても、このように十二月半ばの雪というのは珍しい。
「北辺の地十勝野の雪はどんなものであろう?」
勝の目には、勉三が熱く語って止まない十勝野の広大な平原に燦々と降り積もる大雪の光景が浮かんでいた。
この日、勝は朝早くから開拓雑誌に載った赤心社の記事に目を通していた。彼は何かじっくり読みものをしたり考え事をしたりする時、よくこの吉村の二階部屋を使った。宿の主も、昼間は大抵空いているこの部屋を、自由に使わせていた。学校の寄宿舎に寝泊りしていた勝にとって、吉村はいわば「別宅」のようなものであった。
勝は生徒に洋学を教えながら、勉三の北海道周遊記、ケプロン報告書だけでなく、津田仙の開拓雑誌や赤心社に関する資料を懸命に読み込んでいた。赤心社に関する記事をぜひ読むようにと勧めたのは勉三であった。「士族でキリスト信者である勝君には、津田氏の主張や赤心社の開拓趣旨などがしっくり来るのでは…」と。勝には勝の開拓に向かう思慮と思いがあるはずで、それを大切にすべきだと考えたからである。
実際、勝は「英雄渡邉綱の末裔」であるという血筋を誇る士族であり、米国ピューリタンに通じたキリスト信者であった。つまり赤心社の鈴木清や学農社の津田仙らとはその身分的思想的背景をほとんど同じくしていたのである。勉三は、三余精神を以って自らの開拓精神の根本とした。が、それはそれとして、当然個々の参画者の思慮は尊重されるべし、と考えていた。
︱津田仙が雑誌上でしきりに説いているように、あるいはケプロンが繰り返し強調しているように、困難の伴う開拓事業を成し遂げるためには、開拓団の幹部たちに強い不屈の精神力が求められる。篤い義心が求められ、大変な犠牲的精神が求められる。強制・強圧に拠らず、自らの意思と思慮を持った自主独立の人としてその事業に臨んでいくことがぜひとも必要なのだ。勝君を支える義や道がキリスト教や士族としてのそれならば、それはそれで尊重されるべきだ。
勉三の本心であった。実際、勝だけでなく、後に参画することになる鈴木親長・銃太郎・カネらにとって「アメリカピューリタンの開拓精神」は非常に身近なものであった。
勉三は、三余の教えから、人が大事を起こし大事を成す上で最も大切なものはその人間の志、思慮、信念︱その精神・思想にあることを了解していた。即ち私を去り公に徹したその意識・信念こそが大いなるエネルギーの根源であり、大事を成し遂げていく根源的力であることを感得していた。
勝は津田や赤心社の文書に眼を通しながら、これらの文言はまるで自分のために書かれたようなものだ、とさえ思っていた。だからと言って勉三の「趣意書」に不足不満を感じたわけではない。逆だった。勉三がまとめ上げた「趣意書」にはこの開拓事業によって己が利益を得ようとか、名を上げようとかという私欲私心が全くといってよいほど見られなかった。
︱私利私欲によって動くことは卑しいことであるという思慮は勉三さんの第二の天性になっているようだ。むしろ神戸で貿易商を営んでいる鈴木氏ら赤心社の方が株主・耕夫の「利益」や「富楽」についてより多く求めているように見える。勉三さんが「国民の義務として責任として」と言うとき、それは文字通りの意味を成しており、私個人の立場というものは見事に投げ捨てられている。だからこそ、正面きって「わが同胞人民の賛成を請う」と呼びかけることができるのであろう。
︱「先ず牧場を開き、ようやく人口を加殖して熟田となして国帑の万一を補せんとす…」か。無人の曠野となっている沃野十勝野を、一日も早く拓き、農業地として世に出そうと心に決めているようだ。そうすれば、国帑
即ち国の財産の一部を補うことができるのだから、と。これもいかにも勉三さんらしい。
勝は、勉三のそういった純粋で頑固なまでの公徳心・公益心に頭が下がり、敬服していた。
「何があろうと、勉三さんの片腕になって十勝野開拓に尽くそう。そして出来得るならば十勝野の大地にワッデル教会堂を建ててみたいものだ」
ふと窓外に目をやると、伊豆の空に粉雪が激しく乱舞していた。
(5)
勉三は佐二平や善六と相談しながら、長年温めて来た「会社規則」の下書きを一気に書き上げた。明治十四年の年の瀬︱ついにそれは完成を見た。佐二平は感慨深げに呟いた。
「見事なものだ。よくここまで漕ぎ着けたな」
佐二平の脳裏に、ふと懐かしい三余先生の面影が浮かんだ。
師三余がこの世を去って既に十六年が経とうとしている。この間、おのれも戸長・郡長・県議の役にも就き、幾つかの学塾を興し、学校を建て、製糸工場を操業させ、郷土の為に尽くして来た。しかしながらそれらは依田家の総領としての義務的な仕事でもあった。師がしきりに説いたのは、日本の農として、国家の大本たる農を興し、農を以って国に尽くせ、という教えであった。どうしたらそれに応えることができるのか。思いは幾つもあった。しかし、本家総領の立場がそれを自由に探求することを許さなかった。だから、弟勉三が「十勝野開拓の結社を興したい」と申し出て来た時は、本当にわが事のように嬉しかったのだ。
「三余先生の思いがいよいよ実現していこうとしている。勉三と共にこの事業を必ず成し遂げよう」
佐二平はそう心に決めていた。
静かな年の暮れの夜更け、佐二平は「会社規則」と大書された小冊子をゆっくりめくった。
「会社規則」の中身を見てみよう。
「晩成社の営業は十五年をもって満期とし、資本金は五万円とする。一株の金額を少額の五十円とする。内二万五千円は明治十五年中に募集を完了させる」
この二万五千円分については伊豆の依田一族と有志者がこれを持つことが決まっていた。
「残りの二万五千円は十ヶ年間の募集とし、これは開拓現地の自耕者より集める」
現地に移住する農民・耕夫を新しい株主にしていくことが最大の眼目であった。
「資本金の運用金利を社の運営費・開墾費にあて、十五年満期には資本金はすべて出資者に戻す。開拓事業において金利分だけでは不足が生じた場合、五千円以内であれば社の資本金から借り入れることとする。株主によって構成される会社(地主にあたる)が土地を所有し、そこで自耕する農夫は株主であろうと借地人であろうと、皆が二年目から地代として収穫の十分の二を会社に納める」
しかしながら、赤心社と異なり、勉三の場合、この耕地を増やすことや地代収入の増収を図ることはその主たる関心事ではなかった。勉三の最大の関心事は次の規定にこそあった。
「本社は一万町歩をその筋より願い受け、まず牧場となし、人畜(人と家畜)繁殖の形状により、漸次牧場を変じて耕地となすべしといえども、結社十五年間にしてことごとくを耕地にすべからず」(十一条)
「耕作者は余力を以って共同して牧畜に労働すべし。本社は年末に至り、人毎に日当なりあるいは牧草を買い取るなり、便宜に随い、金員(金銭)を支給す。耕作者は該金(当のその金)を領取支消するなど各自の随意たるべしといえども、なるべく本社へ入金して借地人は株主となり、株主はますます株数を増加するを要す」(十五条)
勉三の脳裏にはつぎのような将来計画が刻まれていたのである。即ち、あくまでも先ず自給するための土地を開墾し、その上で牧場を開き、これをもって経営を発展せしめ、牧場の一部(あくまでホンの一部だけ)を耕地に変えていく。また社の耕地と機械諸具一式を農民に貸し付けて牧草を作らせ、それを社が買い取る。更に社の牧場地開拓や牧畜業務に携われば日当を出す。こうすれば、借地人(耕夫農民)はその収入で株を購入することができ、自らが会社の株主となることができる。
つまり、これによって現地農民主体の結社、即ち現代で言うところの農業共同化法人のようなものに発展させることができる、というわけである。
あくまでも、主たる事業は牧畜である。その為には社の存続が不可欠である。満期に至った時には牧場や耕地は適当な方法で公平に株主に配分するが、「なお本社を存して維持するも社員の集議に決すべし」と付記し、共同結社として存続させる道を残したのはそれ故であった。
︱会社(農業共同化法人のようなもの)がそのまま耕地・牧場・牧畜を保有・経営し、ケプロンの欧米式大農法を目指していくことが出来れば…。
それが勉三の心からの望みであった。
佐二平は勉三が書き上げた「規則」を一読し、勉三の志の高さと綿密な将来計画に驚いた。
︱確かに、開拓用地一万町歩の下付願いは、赤心社のそれが三百数十町歩であったことを思えば、途方もない広さに見える。ライマン氏はこの地には四万エーカー、即ち一万六千町歩もの原野があると主張しており、一万町歩はその六割に過ぎない。決してあてずっぽうの数字を弾いたというわけではなさそうだ。会社営業満期十五年も、下付願い地の広さからいえば赤心社の十年より随分短い。しかし、比較的開墾容易な牧場地が主である。道路が開かれ、開墾・耕作のための米国式農業機械の導入が可能になれば、これも決して不可能な数字ではあるまい。それに出資金の大半を請け負うことになっている社員一同にしても、この事業から収益を得ようとか、資本を早く引き上げて他に回して儲けよう等という考えは全くない。したがってこの満期がいくらか延びたとしても大した問題になるはずもない。
実際、勉三は十分な成算を持っていた。だから、敢えて次のような条目を付け加えたのである。
「社としてできる限り積み立てを行ない、その積み金は社員集議の上、小にしては本社殖民地のために学校・病院・道路費および救恤(貧困者・被災者等の救済)等を補助し、大にしては国家の義挙に応じ、本社は国民の義務を竭さん(尽くさん)として成立するの主意(主要な意義)を振張(大いに発揮する)するものとす」(八条)
「積み金は本社の主意を振張する義金なれば満期解社のときといえども各自へ配布するを許さず。而して該金は満期に至れば一時に国家のため応分の事業に支消(支出)するも、また永続して時々の義挙に応ずるも社員の集議に決すべし」(九条)
「いかにも勉三らしい」
佐二平は唸った。既に外は白み始め、夜が明けようとしていた。
「これを口にするのは容易いことだ。しかし、われわれ三余門下生は何よりも実践躬行(自ら進んで実際に行動し範を示して行く)の徒だ。やると言った以上は最後までやりぬかねばならん。我が一族も、それだけの覚悟を持って事に当たらねばならないのだ」
佐二平にこの「規則書」を見せられた善六もまた、佐二平のこの言葉に深く頷いた。
明治十五年元旦︱依田一族の恒例の新年会が、まだ名前の決まっていない勉三開拓結社の事実上の創設宣言の日となった。この日、依田本家の長佐二平と松崎分家の長善六︱今や南伊豆を代表するこの二人の実力者が、勉三の開拓事業を全面的にバックアップすることを公表し、宣言した。
広間に集まった一族を前に、仁王立ちした勉三は、北海道周遊出立に際して詠んだ自作詩を、朗々と謡い上げた。
ますらおが心定めし北の海
風吹かば吹け浪立たば立て
祝宴の場は一瞬しんと静まり返り、やがて盛大な拍手が巻き起こった。一族の者すべてが、仁王立ちして謡うその勉三の姿に、彼の開拓事業に対する並々ならぬ固い決意を感じ取っていた。
もっとも、理由あってのことではあるが、勉三姉妹と一族の女衆の多くは、
「そんな恐ろしい蛮地に、何故、わざわざ出かけて行かねばならないのか」
「温暖の地で育った女子供が、凍え死んでしまいそうな寒地で本当にやっていけるのかね」
と、それ程好意的ではなかった。後に明らかになるが、彼女らの心配は単なる杞憂に終わらなかった。
そんな女衆の中で勉三の尋常ならざる心境を誰よりも深く理解していたのは、招かれて祝宴に加わり、亡き夫三余の「形見の言葉」を思い起こし、そっと涙を拭いていたミヨ夫人であった。
(6)
明治十五年正月元旦︱
依田一族が勉三の北海道開拓結社創設を祝っていた頃、勝もまた東京でワッデルや教会仲間と共に開拓団参加を祝っていた。そして数日後、勝は横浜に向かった。当時横浜の石川町に住んでいた鈴木親長・銃太郎父子に会い、開拓団への参加を勧めるためであった。勿論、勉三・佐二平とは相談の上のことである。
かねてから親長は北海道開拓に強い関心を持ち、機会があれば開拓団に参加したいと、周囲に漏らしていた。親長がそう言い出した切っ掛けは明治十年に起こった西南戦争である。とりわけ尊敬する西郷の憤死が親長を突き動かしていた。
「西郷さんが早くから建言していた通り、北海道に鎮台を置き、あちこちにもっとたくさんの屯田兵団を進駐させ、路頭に迷った没落士族を送り込み、北辺の開拓事業に就かせておれば、こんな馬鹿な結果にはならなかったはずだ」
そう言って西郷贔屓の親長はしきりに悔しがった。
その頃、親長はたまたま元加賀金沢藩士林顕三が明治七年六月に著した『北海紀行』を入手し、これを愛読していた。それは明治の愛国人士が記した「北海道見聞録」とでもいうべき書であった。林はその序にこう記していた。
「吾が邦の外患は必ず露国」となるであろう。故に「憂国の輩は然れば北海南北の両島(樺太と北海道)を開墾し漸次盛大にすべき」である。しかし「その地理・景況を記載するもの若干ありと雖も、皆昔日に属し、現今漸々(次第に進む)開化の実際を記載せるもの世に少なし」。自分は「青年より久しく兵役中にあって文筆に疎い」が、一念発起し「北海の地を跋渉」し、「見聞の記事」を「皇国人民」に供することにしたのだ、と。
彼もまた、対露軍備を唱え、失業士族たちに北海道移住を強く訴えていた。が、渡北して見聞を広めた林は、開拓使が既に「メリケン人農学教師ケプロン氏」を顧問として雇い、「洋人をして全島一円の度数(温度や緯度など)を測量し、地図を精祥(細かく詳しい)にせん」としていること。既に七重村に四百万坪の勧業試験所が拓かれ、開拓支援が進んでいること。この地における養蚕は前途洋々たるものがあること等々、明治六、七年頃の北海道の開拓事情を詳しく紹介し、農事開拓を強く薦めていたのである。
親長はその書を一読し、特に北海道の養蚕に関する詳しい記述に惹きつけられた。そんなこともあり、二年半程前の明治十二年夏、親長は「没落士族は須らく開拓農民となって殖産興業に励むべし」と訴え、周囲に北海道移民団の結成を呼び掛けていた。残念ながら、最終段階で、出資渡北するはずだった士族仲間が尻込みし、この話は立ち消えになってしまったが、親長の胸には今なお、北海道開拓の野望が燃え盛っていた。
ただ、此度の上京では、勝は親長だけでなく、当時ある事件で失意のどん底に居た銃太郎を開拓団に誘うことが大きな目的になっていた。
勉三と蓮台寺にやって来たワッデルから、旅館吉村に泊まった夜「実ハ…」と聞かされたのは、銃太郎が埼玉和戸教会で「ある不祥事」を起こし、それが原因で一ヶ
月ほど前に牧師を辞任したという驚くべき事実であった。
教会内部でも詳細はあまり明らかにされていないようであったが、各方面の話を総合すると、生活上の細々とした事柄について信者の家の世話になっていた二十四歳のまだ若い銃太郎と、その家の夫人との間に「嫌疑の風聞」が立ち、基督公会の調査が入ったということのようであった。
どういう嫌疑だったのか、結局銃太郎は自らの落ち度を認め、一年と一ヶ月で牧師を辞めざるを得なくなっていた。
勉三は、勝から「銃太郎失意」の件を聞かされていたので、「彼を北海道開拓事業に誘いたい」との話が出された時、一も二もなく賛成した。
「何があったか知らないが、真面目な銃太郎君のことだ。新天地に移り、初めからやり直しすれば、また牧師として説教台に立てる日も来るだろう」
そんな配慮からであった。
明治十五年正月九日︱
真一の横浜写真館に泊まっていた勝が教会仲間であった中啓介氏の宿に寄ると、そこへ偶々銃太郎がやって来た。思った通り、銃太郎の表情は冴えないものであった。
勝が「実は、親長殿にお目にかかり、お話ししたいことがあるのだ」と言うと、銃太郎は「例の話をするつもりか?」と、驚いたように聞き返した。銃太郎は、勝が自分の妹のカネに好意を寄せており、いずれ結婚の申し込みをしたいと言っていたことを思い出したのだ。今までずっと、勝から「いずれ私がきちんと親父殿にお願いに伺うから」と口止めされていたので、このことはまだ誰にも、父にも本人のカネにも話していなかったのである。
「例の話って? ああ…」と、勝は顔を赤くし、強く手を振り、慌てて言った。「そう、そう、その例の北海道開拓団の話なのだ! 実は、ワッデル先生とも相談の上のことなのだが、我輩は勉三さんと一緒に北海道に入殖することにしたのだ」
勝は、驚く銃太郎に、勉三がこの夏北海道に渡って下検分を行ない、入殖の準備を始めていること。伊豆蓮台寺の旅館でワッデルを含めた会談を行ない、その結果自分も開拓団に加わることにしたこと等を伝えた。
「親長殿はかねてより北海道入殖にずいぶんご執心の様子。勉三さんもぜひ一度話してみてくれというので、こうして出向いて来たというわけだ」
勝はそう言って銃太郎に顔を向けた。敢えて銃太郎を誘う言葉は口にしなかった。
「願ってもない話だ。父は昨年十一月からカネの通っている横浜女学校で漢文を教えているのだが、北海道入殖の夢が忘れられないらしく、未だに林顕三氏が公刊した書籍を持ち出し、しみじみと眺めていることがある。ただ母は恐ろしい囚人と熊が住む北の蛮地などに行くのは真っ平ごめんという人で、なかなかすんなりとはいくまいが」
銃太郎はそう答えながら脳裡で何かが閃くのを感じていた。
後日、勝は、その銃太郎から「その時、そう答えながら自分の頭に不意に聖書のマタイ伝福音書のある一節が啓示のように浮かんだのだ」という興味深い話を聞かされた。「人もし我に従い来らんと思わば、己を捨て、己が十字架を負いて、我に従え。己が生命を救わんと思う者はこれを失い、我がために生命を失う者は、これを得べし」︱これがその時脳裡に浮かんだ一節だったという。
「銃太郎君、どうかしたのかい?」
勝の呼び掛けでハッと我に返った銃太郎は、身が震え、茫然として声も出せずにいた。
「いや、何でもない。とにかく、明日我が家に来て貰おう。父を交え、ゆっくり話を聞こう」
この日、銃太郎は何事かに心を奪われたかのように沈黙し、早々と友の宿を辞し、急ぎ家に帰って行った。
中はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「親長殿もいよいよ渡北か。父親思いのカネさんはきっと寂しがるだろうな」
勝は友のその呟きを耳にし、何故か「ふうー」と溜息を漏らした。
︱自分にも、北海道に渡る前に乗り越えねばならない高い壁がまだ残されているようだ…。
脳裡に純情純真そのものといった風情のカネの白く愛らしい顔が浮かんだ。
︱それにしても、この話、どうしたものか…。また、ワッデル先生に頼む外なさそうだ。
一方、銃太郎は横浜石川町の家に向かって歩きながら、先の「啓示」について頻りに考えていた。
︱恐しい蛮地…己が生命を捨て…そして十字架を背負って…。
突如舞い降りた聖書の一節が頭にこびり付いて離れなかった。その最大の原因はやはり和戸教会の不祥事にあった。
―指弾されても致し方ない軽率な振る舞いであった。新天地に移り、一から自分の信仰を鍛え直すべし、ということかも知れぬな。
銃太郎は次第に「北の新天地」に惹きつけられていく自分をどうにも押しとどめることができなくなっていた。
︱教会堂の中の牧師ではなく、荒野の伝道師として生きるのも悪くはない。汗を流して開墾の鋤を振るい、畑を拓き、穀物の種を播き、収穫の秋を喜ぶ。主への罪を償いながら、蛮地の片隅に種播く人になるのが一番自分に相応しい生き方なのかも知れぬ。心配している父もきっと喜ぶことであろう。
これは、彼にとって全く思いがけない成り行きであった。
「開拓地では、神の教えに従い、悩める者、弱き者、貧しい者を救うためにできる限りのことをしよう」
そう思ったら急に気が楽になった。運良く勉三の開拓団に参加できそうなことがむしろ「神の導き」とも思えた。家に着く頃には銃太郎の心はもう既に決まっていた。
翌日、親長夫人直が北海道開拓話を毛嫌いしていて、自宅で談じ合うなどとてもできそうにないというので、勝は鈴木父子の待つ友人の下宿屋に再び向かった。
勿論、勝はまだ銃太郎が渡北移住の決意をしていることを知らない。
親長は勝を前にすると、興奮を抑えきれないように唾を飛ばした。
「依田君がいよいよ結社を起こしたか。さすがに豪農依田家の血筋じゃな。一、二度言葉を交わしただけだが、大望を腹蔵した一途な男とわしが見込んだ通りじゃ。それにしても北海道開拓を目論んでいたとはな。随分前からの企てだったそうじゃな。忍耐して時来るまで待ち、時到らば断然と行なう。いかにも大器晩成の彼らしいやり方じゃ」
親長はよほど勉三が気に入っていたようである。
「渡邉君、君までもが入殖し開拓に乗り出そうとはな。結構、結構。北門の防備は国家の大事にしてその鍵は北島の開墾勧農にありとは林顕三氏熱誠の陳述だ。士族青年はすべからく開墾勧農にいそしむべし、とな」
親長はキリスト教徒ではあったが、やはり根は士族であった。
「それにしても、依田一族がこの開拓事業を支えるということであれば成功は疑いなかろう。大農場を拓くということになれば、やはり先立つものは資金だ。国家も盛んに入殖を奨励し、便宜を図るというが、つまるところはまとまった自己資金がなければ動けないのが実情なのだ」
親長は、先の入殖計画ではあまりに事を急いだ結果、肝心の出資者の開拓魂がふらついていることを見落としてしまったと、苦い顔でその経験を語った。
勝は二人に、勉三が開拓結社の規約規則を練っていること。今年夏にもう一度渡北し、まだ誰も手を染めていない奥地の入殖地払い下げを願い出ようとしていること。来年四月には第一次開拓団を出発させる予定であること等々を告げた。
「それでよい、それでよい、拙速は禁物じゃ。じっくり時をかけて準備するが良かろう。わしらも来年の春には皆と一緒に出立できるよう、しっかり手配していくつもりだ。渡邉君、依田君にわしも、そして銃太郎もぜひ開拓団に加えてもらいたいと、きっと伝えてくれ」
親長は両の手に力を込めて勝の手を握った。
「えっ、銃太郎君も開拓団に! これは驚いた。勉三さんも大喜びだろう」
勝は大仰に驚いて見せた。今更理由など聞くまでもなかった。
「よろしく頼みます」
と、銃太郎は幾分顔を赤くして頭を下げた。
「全て神のご加護さ。主に感謝しよう」
銃太郎の目に熱いものが込み上げた。
第十三章 大器晩成の社
(1)
明治十五(一八八二)年二月初めの月の夜︱
久しぶりに東京から大沢に帰った勉三は、食事を終えた後、酒も飲まず、ゆっくり風呂に浸かり、自室に籠もった。満月に近い大きな月が白く冴え、ガラス戸越しに月光が差し込んでいる。
既に規則草案は出来上がっており、明日来る勝に渡し、清書をしてもらうことになっていた。後は社の名前を書き込むだけである。名前は決まっていた。
︱「晩成社」
この日の朝、勉三は湯ヶ島の宿を早くに発ち、大沢村を目指していた。横浜で鈴木親長・銃太郎親子に会い、開拓団への参加を確認し、必要な打ち合わせを済ませて帰る道すがらであった。
二月の伊豆山中は寒かった。足を速めて猫越峠を越え、仁科川沿いに山道を下り、まだ落日残照の中にある松崎村に入った。黄金色の夕陽を背にして那賀川沿いに街道を上る。川のせせらぎが耳に心地よく響く。微かな土の匂いが鼻腔をくすぐる。左右に迫る山並みが夕暮れの中に沈み始め、カラスの群れがねぐらの森に急いでいる。
ふと目を上げると正面にあの懐かしい熊堂山が飛び込んで来た。葉を落とした山肌は灰褐色を帯びていたが、山頂は残照を浴びて赤く光り輝いていた。その山頂にひときわ高く突き出た常緑の樹が見える。
「そうだ、あれは大器晩成の大樹タブノキだ!」
︱三余先生がそう名づけたあの大樹が今までどれだけ自分を励ましてくれたことか…。
不意に「大器晩成」の文字が頭いっぱいに広がった。
「大器晩成……自分は決して大器という器ではない。しかしせめて晩成はせねばならない…そうだ晩成だ!晩成社だ!」
十勝野開拓はいわば国家的大事業である。一朝一夕に成るものではない。長い年月を要するに違いない。これ以上ふさわしい名前はあるまい。
「そう言えば、親長殿も盛んにこのことを強調しておられた」
数日前の会談で親長が語った、「十勝野もお主も大器じゃ。大器が成る為には時が必要であろう。須らく大器は晩成すべきものなのじゃ」
という助言が思い出された。
勉三は、勝から鈴木親長・銃太郎父子の開拓団参加決意を聞き、自ら上京して鈴木親長・銃太郎父子と会っていた。二人の開拓団への参加の意志を最終確認し、今後の段取りについて話し合うためであった。既に林顕三の「紀行」を読み、一度は北海道入殖を計画したこともある親長は、その後の蝦夷地の事情にも詳しく、勉三の考えを実によく理解した。勉三にとって、この年長者である親長の参加はこの上ない励ましであった。
勉三が横浜石川町の鈴木家を訪れた日、渡北に大反対の親長夫人直は、用事を作って外出していた。しかし親長の決意は変わることなく、新たな挑戦に心を弾ませていた。
勉三の訪問を待ちかねていたその親長が真っ先に問うたのは、「いったいどこへ入殖するつもりなのか」ということであった。
「余程のことがない限り、私は十勝野に入ろうと考えています」
勉三が断固たる口調で答えると、親長は目を丸くして言った。
「これは驚いた。さすがに農の出の勉三殿じゃ。うん、これはたいしたものじゃ」
親長は十勝川上流に広大な肥沃の原野が全く手付かずのまま拡がっていることを既に知っていた。そして、開拓使の手厚い援護下にある西側地域と違って、まだ文明の及ばぬ東の奥地の開拓を成し遂げるには、相当な決意と覚悟と資力を要することも。それ故に、勉三が迷いもなく「十勝野」と言い切ったことに甚く感激したのである。
「よかろう。大志山を砕くと言う。男子たる者はこうでなくてはな。しかし、万事大器は晩成するものじゃ。勉三殿、お主も十勝野も大器じゃ。大器が成る為には時が必要であろう。焦らず怠らず、信念を持ってやり抜く事が大事じゃ」
齢五十を過ぎた年配者の贈ってくれたこの助言の言葉がその後、勉三をどれほど勇気づけたことか!
熊堂山山頂の「大器晩成のタブノキ」が、真っすぐに彼の目に飛び込んで来た背景には、確かに親長のこの言葉があった。
勉三は筆にたっぷりと墨を含ませ、半紙に向かい、一気に書き上げた。
「晩成社︱良い名だ。よし、何年、何十年かかろうと、十勝野開拓をきっと成し遂げ、十勝野を世に出そう。決して中途で投げ出すようなことはすまい」
まだ墨の乾かないこの「晩成社」の三文字をしみじみと眺めながら、勉三は心の中で、そう誓った。
この時、実践躬行を旨としている勉三の胸中に、師三余の座右の銘が浮かんでいた。曰く、「言って行なわない者は国の賊、言わずして行なう者は国の宝なり」と。
明治十五年二月十九・二十・二十一日の三日間︱松崎分家塗り屋依田善六宅に同志相集い、「晩成社規則」が討議され、北海道開拓移民結社「晩成社」の創立が正式に決定された。参加者は依田勉三、兄の佐二平、弟の渡辺要(渡辺家養子)と依田善吾(塗屋分家養子)、勉三従兄弟の依田善六、準次(土屋家養子)。そして塗り屋分家浜店の善吾、塗り屋分家中瀬の直吉。依田一族の主立った者である。勿論、渡邉勝も加わっていた。
「晩成社創立の日」は、前年明治十四年の大沢依田本家新年会の日︱勉三が北海道開拓移住の決意を宣言した正月元旦とされた。
明治十五年四月初め、発起人依田佐二平、善六、善吾(浜店)、発起人総代依田勉三の四名が調印し、晩成社はここに正式に発足する。
社長は依田善六が務め、副社長は現地の勉三が務めることになった。
(2)
少しばかり横道に逸れる。
ある「通説」︱勉三・勝・銃太郎の晩成社三幹部は、明治九年一月にワッデル塾で巡り会い、ここで友情を結び、北海道入殖を誓い合ったという「通説」に触れておこう。
当時西久保葺手町(現在の東京タワー近辺)にあったワッデル塾で、明治九年一月頃、勉三と勝が顔を合わせたことは確かな事実である。がしかし、そこで二人と銃太郎との交流があった、とは記されてはいない(渡邉勝日記)。既に述べた通り、勝と銃太郎の初めての顔あわせは、築地にあった東京一致神学校でのことである。
この問題に明確な解答を与えたのは今は亡き十勝郷土史研究家前田弘氏である。『トカプチ』創刊号(一九八九年三月刊)に発表した論文『渡辺勝とワッデル』がそれである。
英語に堪能な氏は外国図書にも当たり、確かな裏づけ調査の下、新しい史実を次々と発掘し、「勝と銃太郎は明治十年十月に開校された東京築地の一致神学校において初めての出会いを成している」と結論付けている。
ただ、氏の論文にも勝と勉三と銃太郎三人の出会いの場所や年月については、全く触れられていない。勉三と勝と銃太郎の三人が初めて出会った日時と場所を特定する資料は今のところない。
筆者は、勝と銃太郎が神学校で出会ってから一年後の明治十一年七月、勝が豆陽中に教員として赴任することが決まった頃、東京で三人が一堂に会したと推測する。
勝が在京している頃でないと三人が顔を合わせることは極めて困難であり、勝が間に入って勉三と銃太郎が顔を合わせ、三人の友情が結ばれた、と考えるのが一番自然である。
ともあれ、三人がワッデル塾で巡り合ったという事実はない。
三人が北海道開拓を誓い合ったのはいつのことか︱これについても諸説がある。
渡邉勝の明治十四年八月四日付日記に「依田勉三氏初めて北海道に行く」との記述が出て来る。が、この記述は日記の「欄外」に鉛筆で書き加えられたものである。蓮台寺の学校にいた時のことである。どうやら本人から直接聞かされたことではなかったようだ。
翌日の日記に「勉三君より紙入れを貰う。氏は十日前北海道へ行かれたりと」との記述がある。この日、佐二平の長男新四郎と網直しの仕事をしている故、多分新四
郎が勉三贈呈だという紙入れと北海道行の情報をもたらしたものと思われる。
ともあれ、勝の日記に北海道開拓に関連した記述が出てくるのはこの時が初めてである。勉三の北海道開拓計画については一族の女衆の反対もあり、彼の最初の渡北出立は、どうやらごく密やかなものにならざるを得なかったようだ。そんなこんなで、この件に関するニュースが勝の耳に届くのが幾分遅くなったのであろう。
勝の日記に北海道に関する記述が頻繁に出て来るのは明治十四年十一月二十三日以後のことである。この日、豆陽中学の隣にある吉村旅館で、北海道周遊の旅から帰って来た勉三と、急遽東京から同行してきたワッデルとが、勝を待っていた。
この時、ここ吉村旅館で、初めて勉三が勝を北海道開拓に誘い、勝もこれを了承したと思われる。ワッデルの了解抜きに勝が決断できないことをよく判っていたため、勉三はワッデルに頼み込み、ワッデルに伊豆まで来てもらい、三人で会うことにしたのであろう。
勉三が心に秘めていた北海道開拓の夢を初めて勝に語り、参加同行を求めたのは、勉三が北海道を視察し、明確な開拓計画を持って帰って来たこの時と見てよい。実践躬行を重んじ、単なる夢物語や空論を嫌う勉三の性格からして十分ありうることである。
勝の日記に北海道開拓の話が頻繁に出て来るのはこの日以後のことである。
翌年の明治十五年一月九日、横浜の鈴木真一の写真館に泊まった勝は、横浜尾上町の友人中啓介の家を訪れる。勝のこの日の日記に「(中氏の家に)鈴木銃太郎君が偶々至り、北海道のことを談じ帰る」とある。当時、信徒婦人との不祥事を疑われ、和戸の教会を辞め、意気消沈していた銃太郎は横浜石川町の家に帰ってきていたのである。
翌十日の渡邉日記に「夜また中氏に至る。北海道のことを談ず」とある(この日に勝が鈴木家を訪れたという記述はない)。鈴木父子の北海道入殖が決まるのは、この日以後のことである。
明治十四年七月の渡北に際して書き始められた勉三の日誌に、銃太郎の名前が初めて出てくるのは、明治十五年三月十四日のことである。この日の日記には「この頃より月末に至るまで鈴木銃太郎、当社(晩成社)規則の活版のことについて横浜東京の間に斡旋す」とある。
明治十五年二月十一日付の渡邉日記に「大沢村に赴く。勉三君昨夜東京から帰られたり」とあるから、勉三と鈴木父子との間で北海道開拓団に関する会談がなされたのは、恐らくこの年の一月末から二月の初めの頃のことであろう。
勉三と銃太郎二人が開拓地の最終決定を目指して渡北し、再び十勝野に向かうのは、それから四ヶ月後の六月一日のことである。
今や、北海道開拓移住の準備は完全に整った。明治十五年四月二十九日、勉三は銃太郎と共に再び北海道︱十勝野目指して大沢村を後にする。
勝は渡北を強く願ったがすぐに学校を辞めるわけにはいかず、結局伊豆に残り、佐二平・善六らと共に出資者や移住希望者を募る任務に就くことになった。
今回の渡北では入殖場所を決め、その上で誰かが開拓団受け入れ準備の為に現地に残らねばならなかった。となると、同行者としては若く自由の利く銃太郎が最も適任であろう、という結論になったのである。
第十四章 札幌県庁詣で
(1)
明治十五年六月十三日夜︱
勉三と銃太郎は札幌の旅亭・石川に入った。昨日小樽の港に着き、そこで一泊し、この日の午後二時小樽住吉駅発の弁慶号に乗り、札幌へと突っ走って来たのである。それでも札幌に着いたのは夜の八時をとっくに過ぎていた。
到着した夜、その足で元脇本陣の仮県庁舎に加納通広という人物を訪ね、大野恒哉の紹介状を渡した。大野と加納は同じ賀茂郡加納村の出で、加納の姓はその村名に由来していた。大野が三余先生の推挙で神田お玉が池の東條一堂の門に入って学んでいた頃、千葉道場に通っていた加納と偶然再会し、交流を深めていた。「三余門下三羽烏」の一人と言われた大野は、豆陽中学創設とその維持・経営に力を尽くし、佐二平の後を継いで賀茂那賀郡の
郡長となっていた。そんな訳で南伊豆の村々では顔が広く、加納の父親とも懇意だった。
勿論、加納と勉三とは初対面であったが、彼は快く迎え入れてくれた。半年前に開拓使が廃止され、ちょうど札幌県・函館県・根室県の三県時代に入ったばかりで、例の「払い下げ事件」と「政変」の余韻がまだ重苦しく残っていた時である。農商務省に籍を置いて開拓使廃止に伴う残務整理に当たっていた加納の心境も不本意で複雑で宙ぶらりん状態であったに違いないが、勉三らには何も語らなかった。
見知らぬ札幌の地で、同郷人として勉三を温かく迎え入れ、親切に案内してくれた加納通広︱彼もまた数奇な運命を歩んでこの地に辿り着いていた。
彼は伊豆松崎の山を南に一つ越えた僻村の生まれで、勉三より一回り歳上であった。農家の長男であったが、伊豆下田で見た「ペリー艦隊」にショックを受けて攘夷を志すようになり、士分身上がり(侍の身分になる)を
求めて江戸に飛び出した。紆余曲折の末、神田お玉が池の千葉道場で剣術を学び、ここで伊東甲子太郎と知り合い、京に上り、新選組参謀となった伊東と共に隊に加わっている。尊王に傾く伊東が近藤勇の手で粛清され、加納自身も新選組に追われる身となったが、薩摩藩に拾われ、ようやく道が開けた。ひょんなことから流山(現千葉県流山市)で捕まった局長近藤勇の首実検に立ち会い、名を挙げた。戊辰戦争では薩摩藩の戦闘員として功を遂げた。その後、薩閥の一員として黒田の開拓使に出仕し、西南戦争の際にも黒田に付いて出陣し、褒賞金を得ている。黒田開拓使時代にはそれなりに羽振りを利かせていた人物である。
開拓使廃止後も農商務省︱事業管理局︱道庁に籍を置き、紡績工業等の産業振興に尽くすが、既に「幕末志士の世は遠く去りにけり」であった。明治十九年一月に道庁発足と同時に管理局も廃止となり、やがて辞職して札幌を去り、東京に居を移す。明治三十五年十月、六十三歳で没している。
札幌到着の翌日、勉三と銃太郎は朝早く、元の脇本陣に仮庁舎を構えていた札幌県庁を訪れた。ここが石狩・日高だけでなく十勝地方をも管轄統治していたのである。
加納は、早速、勉三を畠山という男に引き合わせてくれた。土木工事請負を手広くやっていて札幌近辺の開拓事情に詳しく、顔の広い人物であった。
銃太郎も札幌区長の山崎という人物を紹介され、管内の開拓適地に関する情報を集めに出掛けていった。
夕方、三人は旅館で落ち合い、夕食を楽しみながら、その日見聞して来たことを語り合った。加納の話では、石狩地方の開拓はかなり進んでいて、これから入殖する者に貸し下げされる土地は便が悪かったり、沼地や泥炭地が多くなるらしく、最近の注目は日高や上川に集まりつつあるようだという。十分予想されたことではあった。
「ところで、畠山氏に、十勝方面はどうか、十勝・日高について何か聞いていないかと問うたところ、つい最近農商務課の渡瀬寅次郎氏が日高・十勝を巡回して帰って来ているので、彼に聞くとよいとの返事であった。で、そちらは何か…」
勉三の問いに、銃太郎もやや意外そうに答えた。
「山崎氏もやはり日高・十勝のことは渡瀬氏に聞けとのことでした」
「となれば、渡瀬氏から十勝の様子をぜひ聞いてみたいものだ」
勉三がそう呟くと、一本十五銭(今の約三千円)と当時まだ高価だった苦い西洋飲料︱麦酒の泡を口の周りに付けた加納が、
「まさか、晩成社は十勝に入殖するつもりではあるまいね?」
と、驚いたように勉三の顔を覗き込んだ。
勉三の口から十勝の話が出て、加納の勉三を見る目が変わった。まさか十勝の話が出てこようとは思いもよらなかったのである。
確かに、勉三が持っていた静岡県令大迫貞清の印が押された添書︱札幌県令への口添え願いである「北海道開墾の儀に付御添翰願い」には「北海道石狩十勝日高等の内に於いて開墾の事業を起こし云々」の記述があった。しかし「石狩十勝日高等」と名を連ねただけで、あくまでも本命は石狩だろう、加納はそう決めてかかっていた。
むしろそのことより、加納はこの添書の末尾に記された「平民依田勉三」の署名に目を奪われた。彼自身農民の出であったからであろうか、堂々と「平民」を名乗る勉三の誇り高さに胸が熱くなるのを禁じ得なかったのだ。
この「御添翰願」を勉三に書かせ、静岡県令大迫貞清に提出し、添書印を貰うように助言したのは佐二平である。「十勝」とでなく「石狩十勝日高等」と書くように言い付けたのは佐二平の配慮であった。
「現地に入ったらどんな問題が起こるか判らない。最初から十勝ということであれば、鼻から相手にされないか、あるいは何らかの事情で受け容れられないこともあり得る。万一のことも考えておかねばならない。当たり障りの無い書き方にしておいた方がよかろう」
いかにも深慮遠謀の佐二平らしい助言であった。勿論のこと、佐二平は札幌県令の調所が大迫と同じ薩摩閥に属していることを知っていた。
ところで、この大迫を静岡県令に引っ張って来たのも海舟である。
「維新後の静岡は旧幕臣が沢山移住して居るゆえ、なかなか尋常の人では治め難い事情もある。こういう所の県令には大迫のように懐の深い男で、別段これといふ干渉圧制がましい事はせず、一意ただ公平至誠の考えをもって、県治を施す人物が適任なのだ」
というのがその論であった。
実際、県令の九年間、大迫は波風一つ立てずに治めきっている。大迫はかねてより三余に敬意を抱き、佐二平と依田一族に一目も二目も置いていた。そんな訳で快く添書を書いてくれたのである。
「加納さんもやはり十勝野へ入ることはあまり賛成ではないと…」
反対意見が出ることは、勉三も十分予想し、承知していたことではあった。
「よいかね、ここ二、三年、十勝野は蝗害の震源地として悪評極まりなく、未開蛮地の代名詞のようになっているのだ。日高・石狩だけでなく胆振まで襲われ、収穫ゼロの田畑があちこちに生まれている。とにかく空が真っ暗になるほどの騒ぎで、わしもバッタ(皆、蝗と言わずにバッタと言った)をあれ程恐ろしく思ったことはない。とにかく襲われた土地は青草であれ、粟であれ、稗であれ、稲・豆・大麦小麦・黍・牧草であれ、植物はありとあらゆるものが食い尽くされ、残された土地は赤土に変わってしまった程だ。十勝野はとても開拓どころの話ではないのだ。一時は開進社がどうのという話もあったが、それもあくまで噂話でしかないのだ。先のことはさておいて、しばらくは十勝に入る者などおるまい」
「先のことはさておいてとはまたどういう意味でしょう?」
「去年の秋、バッタの発生地が十勝野らしいというので、開拓使の調査隊を入れたのだが、その際、十勝川上流の広大な原野一帯が肥沃の地で、特に牧畜に最適地であることがあらためて判明したというわけだ。十勝野が開拓適地であることは間違いない。だからいずれ、時が来たら鋤鍬が打ち込まれることになるだろう。しかし、そのためには道路が開かれねばならん。開拓使が廃止になった今、その目途が立たないのだから、なおさら当分は無理と言う外あるまいて」
勉三も昨年渡北した際、蝗害について聞かなかったわけではなかった。しかし、夏場には函館周辺から釧路を回っており、十勝から日高地方も専ら海辺を歩いていたため大惨害というほどの現場を目にすることはなかった。それに蝗害はあくまで一過性の災害であり、それ程気にする必要もないという考えを持っていたのだ。
「開拓使の調査が行われているのですか? 昨年の秋ということであれば私とは入れ違いになったようですね。私も昨年、大津周辺の十勝野をこの目で見てきました。広くて、地味も肥えていて、ケプロン氏の報告にあるとおり、牧畜には最適と思えました。更にライマン氏は十勝川上流に四万エーカーもの広大な地が眠っていると報告していますし、松浦氏も豊穣の地と太鼓判を押しています。前々から私は十勝野に関心を抱いており、今もそこが入殖最適の地と考えております」
加納は、勉三がケプロン報文に詳しく、十勝野への思い入れが思いの外深いことを知り、更に驚いた。
「ならば、十勝野に詳しい渡瀬寅次郎氏に会って様子を聞いて見ると良かろう。札幌農学校でクラーク先生の薫陶を受け、今は農商務省博物局に奉職している立派な紳士だ。それに氏は確か静岡県の沼津の出だと聞いている。加納に聞いてきたと言えば相談にのってくれるだろう。今は牧羊場の中にある博物館の方にいるはずだ」
夕食もそこそこに、勉三と銃太郎の二人は旧県庁跡の西側北三条にある博物館に向かった。
少し当時の札幌市街の様子を説明しておこう。
北海道の首府・札幌市街を最初に設計したのは、既に記した通り、元佐賀藩士の開拓使首席判官島義勇である。明治二年旧暦十二月、木枯らしが吹き、粉雪が舞う中、島とその配下は百人の職工を引き連れ、街作りに着手した。渡島通(現在の南一条)を基点に街を南北に分け、北を官庁・学校・病院街、南を人民街とした。東西分割の基点は官営模範農場を開くために作られた大友堀である(尊徳仕法を身に付けた相馬藩農民大友亀太郎が拓いた堀で、現在の創成川)。渡島通の西の端の広場には開拓の守護神たる札幌神社(現在の北海道神宮)を鎮座させた。しかし島は当時道を支配していた兵部省(軍馬を司る部署)の長州閥に疎まれ、明治四年に追放の憂き目に遭い、無念にもこの街作りを中途で止めざるを得なかった。故郷に帰った島は最後は佐賀の乱に参画し、斬首されている。
島の後を継いだのが元土佐藩の重臣で戊辰戦争に軍功のあった岩村通俊である。岩村は、島の構想に京都の条
丁目制を付け加え、更に街を南と北に区切る通りを渡島通から一つ北に移し、そこに「火防線」兼「広場」となる幅五十八間(およそ一〇五㍍)の「大通り」を設けた。
新政府と開拓使が「北海道の首府に相応しい庁舎を」と明治四年に建てた本庁舎は、ドーム状屋根を冠した美しい西洋風建築物であった。それはハイカラで驚くばかりの偉容を誇っていたが、惜しくも明治十二年一月の大火で消失してしまった。
勉三が訪れた明治十五年六月のこの時点では、札幌県仮庁舎は元脇本陣跡におかれていた。明治二十一年十二月に赤レンガ新庁舎が建つまで、以前は女学校がおかれていたこの本陣跡が、そのまま仮庁舎として使われていたのである。開拓使を訪れた勉三が潜った庁舎の門は元脇本陣のそれらしく左右に太い柱が立ち、頭上にも立派な横木が渡された実に堂々とした門構えであった。
(2)
「まるで教会のような建物だ!」
銃太郎は思わずそう声を上げた。白亜の博物館は疎らな楡の樹に囲まれ、青い芝生の中にすらりとした風情で建っていた。正面から見上げる二階建ての博物館の壁は細身の横板に覆われ、それが白いペンキに彩られ、いかにも清々しく、周囲の緑葉に映えている。尖った切妻の先には十字架を思わせる尖塔が聳え、両サイドには斜傾した屋根を頂く小部屋が張り出され、背高のポーチもまた美しい切妻風屋根に飾られている。加納の「渡瀬氏はクラーク先生門下の札幌バンドの一人」との話から、銃太郎にはなお更のこと、この建物が教会のように見えたのだ。
洋風に設えられた事務所を訪れ、面会を申し込むと、渡瀬寅次郎はすぐに出て来た。ひげを蓄え、色白で背の高い欧風紳士といった風貌で、いかにも叩き上げの役人といった風の加納とは肌合いが違っていた。農学校で成績トップだった寅次郎は、第一回卒業式の記念演説者の一人に選ばれ、「農は職業中の最も有用、最も健全、最も貴重なるものである」と宣言している。農業振興に熱心で、勧農協会を発足させ、開拓農民に対しても懇切丁寧な助言を惜しまなかった。
勉三から用向きを聞いた寅次郎は、
「伊豆から参られたのですか。加納さんも確か南伊豆の出でしたね。私は父について江戸から沼津へ移り、兵学校付属小から集成舎の変則科に上がった後、開拓使の官費生としてこちらの農学校に学び、今は農商務省の職を奉じています。お役に立てることがあるなら何なりと言って下さい。明日なら時間がとれます。明日朝、もう一度ぜひお越しください」
と、実に親切に応対してくれた。
翌朝、再び博物館に行くと、渡瀬は十勝・日高の地図を広げ、分厚い資料を用意して待っていた。
「十勝はまだ田畑そのものが無いので蝗害は出ていないようですが、日高は酷くやられています。蝗の群は十勝の河西・中川両郡のこの辺で発生しているようですが、残念ながら半月程前の調査でも原因は確定はできませんでした。蝗の大群は山岳を越えて日高を襲い、そこから北上して石狩・札幌へ飛び、更に空知あるいは後志に向かうか、西の胆振へ向かうかです。この蝗害が始まってもう三年目を迎えるのですが、まだ絶滅の目途は立っていません。とにかく今は人手を使って目に付く成虫・幼虫・卵を駆除する外ないのです。昨年は五万円を出費し、駆除世話係を十五人ほど揃えて各地に派遣し、現地人を雇って虫・卵の駆除・買い上げをやったりしていますが、果たしてそれがどれだけの効果を出してくれることやら…。もし今十勝に入ったとしても、蝗害にやられる可能性は大なるものがあり、危険が伴います」
勉三は、昨日加納に語った十勝野に関する自分の思い入れを、渡瀬にも率直に語った。
「ほう、そこまで把握しておられるとは、正直驚きました。確かに、十勝野の広さ、地味は申し分ありません。私は蝗発生地の調査が主で、地勢調査をする為に行った訳ではありませんが、十勝野の地勢については、私とは農学校の同期で開拓使御用係に就いた田内捨六・内田瀞の二人の方が詳しいのです。彼らは昨年秋、三ヶ月にわたって十勝野の地形地質調査に入り、その調査の結果をこうした『復命書』にまとめています」
渡瀬は傍らの分厚い本を取り上げ、
「これがその復命書です。地理課に頼めば貸し下げができるはずです」
と、机の上に広げて見せた。
「二人の報告は、依田さん、あなたの見立てと完全に一致しています。例えばこんな記述があります。
︱総じて十勝全国は林野草野かれこれ相半ばし、あたかも天造の大なる牧場の如し。西北に高山ありて北風を防ぎ、雨雪を減ずるを以って土地高燥、気候温和、牧草甘味にして最も水利に富む。けだし本道十一州中の最も牧畜に適したる所ならん、と。
昔から決して大言壮語を吐いたことのないあの田内と内田が、こうまで言っているのです。更に、
︱今試しに十勝平野を方二十五方里と推定し、この三分の一を不用に属するものと定むるも、ここになお十三億六千六百三十四万有余坪の善良なる土地ありとす。今これを牧場として牛一頭一英町(千二百十坪)の割を以って算する時は、百十二万九千二百頭の牛を育成することを得。一頭の代価を平均三十円とせば、三千三百八十七万六千円の金額を生ずべし。然れども開拓の業いよいよ進み、農事いよいよ盛んに荒野変じて良田となるに至らば、十勝平原より生ずるところの産物、あにこの三千三百八十七万有余の金額のみに止まらずして数倍に至る、と」
勉三が初めて聞く話であった。やはり十勝野は素晴らしい沃野だったのだ。それが事実であり真実であったことが、彼を何よりも喜ばせた。
「だが、最後に彼らがこう付け加えていることも忘れてはなりません。
︱然り而してまさに今開拓の業に従事せんとする者、独り石狩原野あるを知りて、十勝地方に注目する者極めて少なきは何ぞや。他なし。道路の開設なく、その実境(実際の状態)知らざるに、これ由るのみ。それ道路開設は開拓の大本なり。道路既に通じ、運輸既に便にして、而して後、拓地興産凡百の事業初めて隆盛に至る、と」
勉三は感激し「我が意を得たり」とばかりに膝を打った。
「まさに至言です。道路開削こそ開拓の大本であり、生命線です。いずれ国も開拓使も必ずそれを実現させることでしょう」
しかし、寅次郎は手を横に振り、勇む勉三を制した。
「内田と田内は、調査を命じた開拓使に、札幌から石狩原野を抜け、空知から十勝に到る内陸道路を開削せよと訴えています。しかし昨年一杯で開拓使が廃止になり、三県に分割されてしまった今、それはいつのことか、全く目算が立たない始末なのです」
寅次郎はそう言って深い溜息を漏らした。言外に「今は十勝野への入殖は止めた方が賢明ですよ」と訴えていた。渡瀬のこの憂慮は当たっていた。実際この「最も緊要な内陸道路開削」が実現したのは明治三十二年、晩成社入殖から十七年も後の事になる。
しかしこの時の勉三は、渡瀬とは全く違う考えを抱いていた。
︱それらは皆予想されたことだ。国や県の手が回らないというのであるなら、なおさらこの手で十勝野開拓の先鞭をつけることが必要だ。晩成社の開拓が進み、一万町歩と言わないまでも広い牧畜場が開かれれば、いずれ国も県も道路開削に動くであろう。否、必ず動かせて見せる。動かさねばならぬのだ、と。
「私たち晩成社は、その名の通り、晩成を期しています。艱難辛苦は覚悟の上のことです」
傍らの銃太郎は、広瀬の話に大きな不安を抱きながらも、勉三のこの決意表明に頷いた。
銃太郎は、ここ半年程の間に、十勝開拓を目指す勉三の並々ならぬ意気込み、世のため人の為に尽くすのだという強い決意が、決して言葉だけのものではなく、心底からのものであることを理解し、尊敬と敬服の気持ちを深めていた。
渡瀬は別れ際に、自らが興したという勧農協会の北海道各地の農業実績を記した報告書を渡し、二人を激励した。
その日の午後、二人は県庁を訪れ、今度は札幌県令代理書記官佐藤秀顕に面会を申し込むと、受付係は、
「ただ今執務繁忙により面会時間が取れぬゆえ、明日適当な時にまた来るようにとのことです」
と、いかにも事務的な回答を突きつけた。
勉三は、とりあえず静岡県令大迫の添書と東京駐在札幌県係官の紹介状を渡し、その場を辞した。
(3)
六月十六日、勉三は朝早くに宿を出て、焼けた旧庁舎の隣にあった代理書記官佐藤秀顕の官邸を訪れた。一刻も早く会って、土地払い下げの件について相談したかったのである。
「加納さんの紹介で」との口上が効いたのか、それとも
静岡県令大迫の添書が効いたのか、すぐに佐藤と会うことができた。
勉三は晩成社の社則を渡しながら願いでた。
「ぜひ石狩十勝日高管内の開墾地払い下げを…」
佐藤は、如何にも手慣れたふうに、
「まず地理課の近藤とよく相談しなさい。その上で、翌朝県庁で話を聞こう」
と手短に答えると、すぐに奥に消えて行った。
勉三が、敢えて「十勝」と言わず「石狩十勝日高を」と言ったのは、昨夜、加納が「書記官代理に会うに当たっては、これだけは覚えておいた方が良かろう」と、佐藤に関するいくつかの情報を提供してくれていたからだ。
加納の話によると、佐藤はライマンや十勝野についてあまり良い印象を持っていないということであった。伊勢藤堂藩の佐藤は、ライマンに付いて渡道した後、不本意極まりないゴタゴタに巻き込まれ、苦い経験を味わわされていた。
明治四年八月、彼は地質調査技師ライマン付の通辞となり、初めて来道した。ライマンは通辞佐藤及び日本の地質調査補助技師らの技術・能力を高く評価していた。しかし、やがて米国式合理主義者のライマンは日本の「お役所流儀」と衝突を繰り返し、開拓使本庁との確執を深めた。ライマンは、本庁側に立たざるを得なかった佐藤を「裏切り者」と非難し、十勝一帯の調査活動に入った頃には完全に佐藤をチームから外してしまった。その後ライマンは開拓使顧問団から外され、内地の調査に回され、一件落着となったのだが、真面目な佐藤はライマンから「裏切り者」と呼ばわれたことに酷く傷ついていた。
佐藤がかつて籍を置いていた伊勢藤堂藩は幕府軍として戊辰の鳥羽伏見戦に加わり、山崎に陣を敷いた折、突然幕軍を裏切って薩長方に味方し、戦況を一変させている。有名な「藤堂藩の寝返り話」である。が、この藩の「寝返り話」はこの時だけのものではなかった。関が原の決戦でもかつて豊臣側であった藤堂藩は家康の側に寝返った。藤堂高虎は巧みに家康に取り入り、外様でありながら三十二万石の大大名にまで出世した。為に藤堂藩は「走狗」「裏切り者」と陰口を叩かれ、家臣は肩身の狭い思いをして来た。佐藤は藩校有造館で洋学を学び、維新後通辞として新政府に仕えるようになったのだが、やはり旧藩については多くを語りたがらなかったという。
ライマンに「裏切り者」と非難されたことが、どれほど彼を傷つけたことか。彼にとってライマンと十勝方面は鬼門であるという噂は加納周辺にも伝わっていた。
「とにかく今は県が発足したばかりで、しかも調所県令の入庁が遅れていて、なかなか落ち着かないでいる。佐藤県令代理に対してはあまり多くを期待しないように」
これが加納の助言であった。
勉三らは早速地理課課長近藤に会い、石狩・十勝・日高の地勢についてあらためて詳しく尋ねた。課長が強調したことは、十勝についてはまだ道路開削の予定が無く、ほとんど入殖する者はいない、ということであった。勿論彼は親切心からそう言ってくれたのである。勉三は頷いて耳を傾けてはいたが、その決心が揺らぐことはなかった。
その夜、加納を訪れて経過を報告し、「いずれ日高・十勝方面に出向いて行きたい」と伝えると、「念のために浦河郡庁に宛てた添書を貰っておくように。三県になった際、日高も十勝も浦河郡庁の管轄に移っているから」とのことだった。かくの如く、日高山系の向こう側に位置する十勝一帯が、山系のこちら西側にある浦河郡に編入されていたことの中に、当時十勝野開拓が如何に軽視されていたかが雄弁に物語られていた。
翌日、再び地理課に行き、浦河郡庁への添書を依頼するとともに、渡瀬から紹介されていた田内・内田両氏の手になる「復命書」の貸し出しを申し込むと、晩にわざわざ「添書と書籍を渡すから来てくれ」との連絡が入った。
銃太郎がそれを取りに行くと、係の者が、
「急な連絡ですが、明朝、佐藤書記官が会うそうです」
と、にこやかに笑って伝えた。銃太郎はほっと胸を撫で下ろした。彼にも、ようやく勉三の十勝野入殖の企ての前途にどれ程厚い壁が立ちはだかっているかが判ってきた。
「加納さんや渡瀬さんの尽力があったに違いない。勉三さんの熱意も通じているようだ。何とかうまくいってもらいたいものだ」
そう呟きながら、銃太郎は夜空に高く浮かぶ北斗七星を見上げ、胸で十字を切り、明日の会談の成功を祈った。
六月十八日朝、二人は仮庁舎の奥にあった県令執務室に案内された。外観とは違って、部屋は驚くほど広く立派なものであった。特に洋風に改装された部屋の正面に据えられたマホガニーの外国製事務机は、その前に立つ者を圧倒せずにはおかないほど立派な造りであった。部屋の中央には、応接用の革張りの頑丈そうな椅子が、コの字形に置かれている。
「まあ、座りなさい。大方の話は近藤課長から聞いている」
中央の椅子に座った県令はそう言いながら洋製煙草に火を点けた。四十歳前後、上級官吏にしては珍しく髭を蓄えておらず、童顔であった。テーブルの上には晩成社の社則が置かれていた。
「なかなか立派な社則に仕上がっているが、誰が書いたものかね」
「私です。昨年の渡北の折に伺った開進社の方々のお話や、開拓雑誌に載っていた赤心社の同盟規約を参考にさせてもらいました。また私の兄で依田家の当主である佐二平は片田舎に住んで居る平民ではありますが、田畑山林を経営し、養蚕製糸の事業を営んでおり、何かと相談にのってくれています」
「ほほう、赤心社を知っておるのかね」
佐藤は、昨年十月半ば、当時「払い下げ問題」の渦中にあった在京の薩閥幹部から依頼され、赤心社社長鈴木清と会っていた。初めて北海道を訪れたという鈴木をこの官邸に招き、食事を共にしながら親しく語り合ってもいた。
開拓使、札幌県庁において、赤心社は特別な存在であった。社長の鈴木は九鬼三田藩の重臣で、神戸を代表する交易会社の経営幹部であり、しかも著名農学者津田仙の全面的な支援を得ている。昨年の七月、赤心社の在京株主総会を開いた折にも、社長の鈴木は津田の紹介で開拓使本庁の大書記官連中や岩橋開進社社長らと席を共にし、交流を深めていた。その上に、鈴木は神戸に組合派キリスト教会を設立した中心人物である。札幌バンドとは兄弟のように親しくしており、新渡戸稲造や渡瀬・内田・田内ら農学校出のクリスチャン開拓使技師たちもまた、陰に陽に赤心社への協力を惜しまなかった。
「ところで、十五年間に一万町歩とはまた途方もなく大きな計画ではないか。その意気を壮とするが、資本金五万の御社には少し、いや、かなり荷が重過ぎるのではないのかね」
正直言って、佐藤には、大した後援者がいる訳でもなさそうな伊豆の片田舎の平民が、何故このような途方もない大構想を打ち出すに至ったのか、全く理解できなかった。目の前にいる男は、見たところ、うつけ者でも詐欺師でもほら吹きでもなさそうだ。それどころか風貌は謹厳実直、面構えは百姓平民というより戦場に赴く武士のそれだ。眼は底知れぬ輝きをたたえ、高きを見据え、不屈の意志に溢れている。本気を感じさせずにおかない人物だ。
︱確かにこの男には、維新成った後の士族や政府高官が失いつつあるもの、高い志がある。しかし、今の時代にそれがどこまで通用することか。
此度の「官有物払い下げ事件」で、薩長の醜い藩閥政治を見せ付けられた佐藤は、道の前途に対してかなり悲観的になっていた。もっとも、その悲観的気分は、この時代には決して佐藤だけが有していたものではなかった。
「御説はごもっともと存じます。当社の資力は微力であり、移住する者も負債を抱えた貧しい者が多くならざるを得ません。しかしわが社は一切の虚飾を去り、節約節倹を第一の事とし、速成を望まず晩成を旨とするものです。十五年で成らねば二十年、二十年で成らねば三十年かけても必ず目指す所に到達致しましょう。どうか、私共の志に免じて、開進社や赤心社同様に破格の詮議を以って一万町歩の内のいくらかでも無代払い下げの件、ぜひ御許可下さいますように」
そう胸を張って要請する勉三には悲観論の欠片もない。勿論、勉三を心から信頼している傍らの銃太郎にもだ。
佐藤は勉三を前に、ふと己の地位身分を忘れ、春秋戦国の「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」の一節を
思い起こしていた。
*燕雀いずくんぞ…燕や雀のような小さな鳥にどうして大鳥や白鳥のような大きな鳥の心がわかろうか。小人に大人物の心が判るものではない。
「とにかく、細かいことは勧業課の細川君に相談するように。取り敢えず下付願を文書にして上にあげなさい。そして管内の様子をじっくり聞き、自分の目でよく観察し、開墾地所の選定を進めなさい。そのうえでよく詮議することにしよう。それから、老婆心から言うのだが、移住する小作農民の給与についてはこの辺りの相場をよく調べ、尤も具体的にその額を決めておく必要があろう。中途で逃げ出す例が多く、皆頭を悩ませているようだ」
勉三と銃太郎は佐藤に深々と頭を下げ、丁寧に謝意を表した。しかし、県令代理佐藤秀顕はいささか憂鬱な気分でその感謝の礼を受け取っていた。何故なら、今のこの県庁役所においては、平民結社たる晩成社が、元藩主・華族らが支援し、経営幹部が開拓使中枢に深く通じていた開進社や赤心社と同じように処遇される事など、決してあり得ないことをよく知っていたからである。
彼一人の力で、しかも県令代理に過ぎない一役人の力でどうなるという問題ではなかったのだ。
(4)
翌六月十九日、勉三は書式通りに「地所開墾に付き御下付願」を認めた。
「漸次十五年間に一万町歩開墾見込みに御ざ候えば、出格(破格)の詮議を以って、右地所懇成(開墾成功)の上は無代価御下付仰せ付けられます様、願い奉り上げ候」
ただ問題は、中身もさる事ながら、これを誰宛にどの部署に提出するかであった。勉三は静岡県庁において、この種の問題で随分頭を悩まされて来た。入り口を間違えると後々に響いた。銃太郎が先日訪れたことのある区役所まで行き、区長の山崎に「区役所部署」の確認を取る。そして更に「願書」を誰宛に書いたらよいのかを質すべく、佐藤が指示した県庁勧業課の細川氏を訪れた。
あいにく不在ということで、熱意の勉三は細川を官邸宿舎まで追ったが、やはり不在という返事であった。
翌二十日午前、ようやく勧業課の細川に面接がかなった。彼は勉三の非の打ち所の無い文書に舌を巻きつつも、やはり「十五年間に一万町歩」という記述には驚きを露わにし、かつ異を挟み、削減を要求した。しかし勉三は断じて首を縦に振らなかった。勉三が彼らに問うたことは願書の宛先をいかにするかということだけであった。
勉三は宿に帰り、願書の宛先を「札幌県令調所広丈殿代理・札幌県大書記官佐藤秀顕殿」と認め、早速区役所にこれを提出し、区長山崎に対して、一日も早く願書を上に通してくれるよう、懇ろに頼んだ。
それから二日後の六月二十三日、再び勧業課を訪れ、願書がどのようになっているかを尋ねると、「指令の裁可にはまだ時日を要するようだ」との、気の無い返答であった。そして彼らは、口を揃えて、待っている間に管内の地味を調べ、開墾地の選定を進めた方がよかろうと、頻りに札幌近郊の苗穂一帯の観察を勧めた。
勉三は、今回の願書にはまだ開墾地として十勝野のみを指定してはいなかった。これも佐二平の知恵で、それは次の段階での交渉に回すことになっていた。
加納も渡瀬もまた勉三の十勝野への熱意を敢えて他部署に伝えようとはしなかった。
「裁可までまだ時日を要する」
この一言を聞いた勉三は、徒に待つことを嫌い、直ちに十勝に向かうことに決した。それは、昨年大津で十勝野を見学し、ここに入殖すると決めるや、大津に泊まろうともせず、すぐに先を急ぐことにした時と同様、いかにも勉三らしい決断であった。
「徒に待つこと」は「無駄」であり、それは「怠惰」と同義だった。事が判明し、一定の結論が出れば、すぐに次なる行動に移るのが彼の習性であり、身に付いた癖であった。しかし、出発の朝、これを知って急ぎやって来た加納には、全く驚き意外の何ものでもなかった。
「もう少し待って、勧業課の推す苗穂辺りをじっくり観察し、ある程度の目途が立ってから十勝に向かったらどうなのか」
彼はそう諭した。勉三は加納の親切心に感謝しつつも、
「早く決め、次の準備に移りたいと思っております。まず何処よりも十勝野を検分してみたいのです」
と、きっぱりと答えた。
勉三はその足で県庁を訪れ、係を通じて佐藤県令代理に「開墾地観察のため、明日日高十勝に向かうゆえ、願書裁可の件くれぐれもよろしくお願い致します」と伝えてもらい、二人してそのまま札幌を後にした。
第十五章 十勝野帯広へ
(1)
札幌を出た二人は、島松︱勇払︱鵡川︱門別︱新冠︱静内と日高路を歩き通した。二人と擦れ違った地元の住人は、彼らを探検家と見間違えたかも知れない。汚れた洋服にズボン、長めの脚絆に軍靴のようなものを履いている。背に毛布を背負い、肩から鞄代わりの胴乱を下げ、一人は手に仕込み杖を、もう一人は猟銃を担いでいた。これらの出立は加納と写真師武林の助言によるものであ
った。
歩くこと一週間︱明治十五年七月初め、二人はようやく浦河郡庁に着いた。郡長から十勝戸長への添書を貰うのが目的であった。十勝は日高山西側の浦河郡庁の管轄下にあったのだ。郡長は勉三の申し出を怪しみながらも大津の十勝戸長宛の添書を書いてくれた。
「ぜひ赤心社を訪問したい」︱銃太郎のたっての希望であった。銃太郎は、赤心社と関係の深い神戸教会を開いたグリーン牧師とは横浜のブラウン塾で顔を合わせたこともあり、キリスト教徒が主体になっているという開拓団がどのようなものか、自分の目で直接確かめたかったのである。
︱この北海道で、北米の開拓者ピルグリム・ファーザーズにならった理想郷の建設が本当に始まっているのであろうか?
銃太郎の胸は嫌が上にも高鳴った。幌別川に沿って二里ほど上って行くと赤心社のある西舎村に出る。昨年来
た時より幾分かは違っていた。長屋のような開拓小屋が三、四戸増え、耕作器械や耕馬も増えてはいた。が、出会った村人の表情は固かった。
二人を迎えてくれたのは終始難しい顔を崩すことのなかった赤心社副社長加藤清徳であった。元々彼は神主の子であり、キリスト教徒折伏を志して神戸に赴いたのであるが、偶々相知った鈴木清に説得されて北海道開拓を決意した男であり、キリスト教徒ではない。彼に建国を目指したピルグリム・ファーザーズの不屈の情熱を求めることは酷であろう。
それにしても加藤の話は気が滅入るものばかりであった。銃太郎などは、加藤の話を聞けば聞くほど、なぜそれ程に不運が続いたのかとため息を付かずにはおれなかった。やがて彼ら晩成社自身が同じような運命に遭遇することになるなど知る由もない。
加藤にとって、温暖の地から渡って来た移住民を率いて慣れない酷寒の地で慣れない開拓開墾の鍬を振るうことは想像以上に厳しく、難しい任務であった。最初のつまづきは昨年明治十四年五月に彼が迎え入れた第一次移民団が蒙った予想外の災難であった。先にも触れたことであるが、五十一名からなるこの移民団は折からの東風
の為に二十日間も函館に足止めを食らい、船中では何人もが腸チフスに罹る始末であった。その上神戸から運んで来た器械物や種物を載せた船が千島沖まで流され、浦河に着いたのは六月も末になっていた。既に種播きの時を失っていた。しかも先乗りした加藤が育てていた耕馬は前年の大雪で餓死の憂き目に会い、器械物は全く用に供さないままであった。更に、初端から霧による冷害や蝗害に襲われ、次々と脱走者が出、開墾は進まず、食いつなぐ為に耕夫を出稼ぎに出さねばならないほどであった。
赤心社内部では、土地選定から移民団管理に至るまで、副社長加藤の手腕を問う声が次第に高まっていた。
昨年明治十四年秋、勉三が初めてここを訪れた直前、神戸の赤心社社長鈴木清もこの西舎を訪れ、梃子入れを図っていた。が、その後も作物が十分育たず、大きく事態は改善されなかった。帰りがけ、鈴木社長はこの西舎を開拓不適地と見なしたらしく、元浦川流域の荻伏を新たな入殖地に選定して神戸に帰って行った。その荻伏には、今回の訪問の二ヶ月前の五月初め、澤茂吉をリーダーとする新しい開拓団が入り、開墾の鋤鍬を振るい始めていた。そちらは順調な滑り出しであった。
澤は鈴木と同じく九鬼三田藩士が出自で、同じように信仰厚いキリスト教徒でもあった。しかも藩主九鬼と親交の厚い福沢の慶應義塾に二年程学び、福沢の知遇を得、後には福沢から学んだ近代複式簿記「帳合之法」などを社の経営に取り入れている。澤家の長男故家督を継がねばならなくなり、やむなく義塾を中退した彼は、故郷に帰ってからも元藩主の下で牧場経営に携わっており、赤心社にとっては大株主九鬼や社長鈴木の秘蔵子ともいうべき存在であった。
「もし宜しかったら、荻伏の澤氏の居られる出張所の方に回ってくだされますまいか」
加藤の申し訳なさそうな言葉に、銃太郎はそっと勉三の袖を引き、二人は早々にその場を辞した。この時から九ヶ月後の明治十六年三月、初代副社長加藤は開墾失敗の責任を取って辞職せざるを得なくなり、やがて社を離れている。赤心社は、荻伏という新しい開拓適地と、澤茂吉という新しいリーダーを得て、新たな出発を遂げていく。
しかしながら、このキリスト者を中心とする開拓団︱赤心社の結束と団結の核となったのは、何と言っても明治十七年十二月の会堂兼学校建設、明治十九年六月の初代牧師田中助の就任であろう。信徒数は、最初三十一名のみで、全移住者百六十七名の十八%に過ぎなかったが、田中牧師と教会堂を核に結束した彼らこそが社の中心的な担い手であった。北海道における組合派第一号のこの教会堂も、内村鑑三ら有力な札幌バンドと、その周囲の信者たちの支援を得て建てられたものであった。田中は津田仙の東京農学社で学び、そこでキリスト教に触れて信者となった人物で、明治十六年に自ら赤心社に入り、理想郷の建設を目指して北の大地に移住して来たのである。最初は赤心社の樹芸係兼徳育係を務める一信徒でしかなかった田中は、赤心社幹部の求めに応じ、神戸公会のギュリック宣教師立会いの下に牧師の資格を得たのである。
この教会堂と牧師の存在こそが赤心社の真の拠り所となり、開拓団の「心田開発」を実現させ、紆余曲折を経ながらもその後の着実な発展を保証したのである。
(2)
二人は浦河を出て一路村を目指した。加納や武林や札幌で勉三に助言した人々が口を揃えて言ったことは、
「十勝に行ったなら、広尾村の若松忠次郎という男を頼れ」
ということであった。どうやら、この男が「十勝の顔」のようであった。
明治十五年七月四日、二人は当時「北海道中険難三大峠」の一つと謳われた猿留峠を越え、探検家近藤重蔵の開削した海沿いの山道を抜け、ようやく十勝野入口に位置する広尾村に達した。
十勝一帯の漁場を支配した十勝場所、その後組織された十勝組合が盛んに活躍していた広尾は、大津と並ぶ十勝の玄関口とも言うべき大きな村であった。
勉三たちは、翌朝早く幌別の宿で一緒になった江正敏と共に若松を訪れた。江は、賊軍たる奥羽列藩同盟の元磐城平藩士であった。維新後に北海道箱舘に逃れ、行商から始め、今では漁業を専らとする大津の名望家で、若松とは旧知の間柄であった。
江の案内で若松の居宅を訪れると、アツケシを羽織った大柄の若松が炉ばたにでんと座っていた。既に四十路に入り、当時発行の人名辞書が評したように、いかにも「才略果断(才知と謀に富んでいて、何事もためらわずに行う)のやり手」といったふうな男であった。
若松の父親は青森で回船業を手広く商っていたが、時代の変化に上手く乗ることが出来ず、家運を衰退させ、函館に渡った。為に彼も函館に移り、場所請負人の福島屋杉浦嘉七に仕え、彼の命を受けて十勝場所支配人として広尾へと移って来たのである。既に三十年が経っていて、今や十勝場所元締、十勝組合長、郡副総代、浦役人等々を務めていて、広尾のみならず十勝を代表する顔であった。彼は後に上京して東京市街地を買収し、それを転売して巨利を得ている。その後、函館に居を構え、函館商工会に属し、各種公職を歴任し、北海道財界に名を成した。函館駅前の町名若松もこの男の名に由来している。まさに北海道の立志伝中の人物であり、紛れもなく一時代を画した地方名士であった。
その若松は、勉三から「十勝川流域に牧畜開墾地を求めている」という話を聞くと、「そんな無謀な……」と、激しく手を振って制し、若い勉三を諭すように言った。
「この広尾から北方の札内太に行くまでの間に、地勢広々とし地味豊穣の開墾適地がいたる所にある。あんたの望む牧畜にぴったりの場所だ。交通の便もよい。ぜひ行って観察したまえ。大津から十勝川を遡って上流に出るにはあまりにも多くの日時がかかり過ぎる。運送運搬の失費も少なからず生じ、とても得策とはいえまい」
江もまた、「地元に最も詳しい若松さんの助言だ。そうした方がよかろう」と、盛んに翻意を促した。
「御忠告、感謝致します。しかし、私の望むところはあくまで大津を経て、十勝川に沿って遡上し、あの辺りの地勢を観察し、あまり上流遠隔地でない場所、つまり十勝野の中原に開墾地を設けたいのです。困難は覚悟の上のことです。いずれ開拓官衙(官庁・役所)も開墾が進めば必ず道路開削・鉄道敷設に動くでしょう。そうすれば、十勝野に人々の注目が集まり、移住者が大挙して押しかけます。私は何としても、この広大な豊穣の大地十勝野を世に出したいのです」
若松も江も、驚き呆れてモノも言えないといった顔で、勉三をまじまじと見詰めた。
「この地を熟知している自分や江の助言を拒み、あくまでも十勝野の中原に入る決心を変えぬとは、なんという男か」
若松は、まだ若造ともいうべきこの青年の、生意気ではあるが強固にして断固たる決意に言葉を失った。それでも彼はこの生意気な若者に何か魅かれるものを感じていた。
そんな勉三が気に入ったのであろう。若松は、長く大津に住んでいて今も水産組合長をしている縁続きの堺千代吉という男を紹介し、「大津に行ったらぜひ訪ねるように」と助言してくれた。
傍らの江も銃太郎も、勉三の頑なまでの十勝野へのこだわりに呆れもしたが、勉三の志の高さに驚嘆させられもした。
(3)
旅舎の三影は大津の十勝川入口にあった。勉三と銃太
郎がここに入ったのは明治十五年七月六日のことである。
さっそく浦河郡庁の添書を持って大津戸長役場を訪れ、十勝の地勢のあらましを尋ねたが、とても十分な情報とは言えなかった。二人はここに数日間滞在し、十勝川上流の情報を集めた。頼りは大津の顔役で水産組合長の堺千代吉であった。若松と江が「ぜひ会って相談するように」と勧めてくれた男である。
堺やその友人たちは喜んで十勝川一帯の略図を見せてくれた。川筋の様子だけでなく、知り合いの和人やアイヌの住居の在りかなども教えてくれた。帯広で世話になる大川宇八郎や国分久吉を紹介してくれたのも堺であった。更に堺は川舟を持っていた舟主と舟の漕ぎ手である若いアイヌを紹介してくれた。彼らの協力無しにはとても十勝川を遡ることは出来なかった。
いよいよ十勝の奥地に向かって出立するという七月十日の朝、夜中に大津の友人宅に着いたばかりという静岡県香貫(現在の沼津市内の香貫山周辺)の元士族寺島という男が一枚の図面を携えてやって来た。彼もまた開墾の志を抱いて渡北して来たものの万事意の如くならず、心ならずも各地を遍歴している途中、偶々勉三と巡り会い、その並々ならぬ開拓の決意に深い共感と敬意を抱いた人物の一人であった。その図面は十勝川本流と支流を描いた細図で、彼の知り合いで最近まで開拓使地理課の派出員として地図の作成に当たっていた者から模写させてもらったという。
「あなた方が山中や川筋を跋渉するのにこれがきっと役に立つはずだ。ぜひ写して持参されるがよかろう」
「有難く写させてもらいます。入殖地探索の心強い味方です」
勉三は、すぐに銃太郎にその地図を写させた。実際この詳細な地図がどれ程二人の旅を助けたことか、計り知れないものがあった。
その間に、勉三は舟の漕ぎ手として雇ったアイヌと共に、長さ三間幅二尺の細長い丸木舟に一ヶ月分の米一俵、味噌二貫、大小の鍋、毛布、樽、こも、草履、縄、鎌と鉈、小銃等の荷物を積み込んだ。かなりの舟荷であった。
舟出の朝、見送りに来た江や堺や他の村人たちから、異口同音に「まさか、舟の漕ぎ手はアイヌ一人ではあるまいね?」という声が漏れた。
「そうなのさ。結構な水流だから最低三人は雇わねばと言ったのだが、自分たちも一緒に漕ぐから三人揃うので心配ないと言うのさ。どうも他の旦那衆とは違った考えなのさ」
舟主は半ばあきれ、だが幾分は見直しているような口ぶりで、こうなったいきさつを説明した。実際、アイヌの雇い人と共に和人自らが丸木舟の櫂を取ることなど滅多になかったのである。
見物に来た村人たちも、
「流れが荒く、時にはアイヌだって舟をひっくり返すことだってあるぞ! アイヌ一人では絶対無理だ!」
と、口々にその無謀を責めた。
勿論、勉三もそれが無謀であることを承知していた。しかし、彼には彼の考えがあったのだ。
「いや何、一人雇えば七、八十銭、三人雇ったらそれでも大した額になります。というより、アイヌのこの男とわれわれを比べて見てくだされ!筋骨と衣服の違いはさておいて、黒い髪も髭ももじゃもじゃで、顔も赤く焼け、和人もアイヌもないでしょう。水夫二人ここにいるではありませんか。のう、銃太郎君!」
勉三がそう言ってにっこり笑うと、銃太郎も気合を込めて、「当然のことです!」と応えた。
見送りに集まった村人たちは、長旅に黒く汚れた二人の和人の旦那とアイヌの姿を代わる代わる見つめ、声を上げて笑った。
勿論、金銭の問題ではなかった。
︱これから開拓に入ろうという者が、いかに激流の渦中と言えど、丸木舟くらい漕げなくてどうしますか。
口に出してこそ言わなかったが、それが勉三の真情であった。
二度にわたる渡北で多くの開拓地を観察してきた勉三は、開拓が並々ならぬ事業であることを思い知っていた。その上にまだ誰も入っていない十勝野を拓くのである。
「尋常な覚悟では駄目なのだ。水夫どころではない、乞食になってもやりぬくくらいの覚悟が必要なのだ」
勉三はそう自分自身に言い聞かせていた。
舟はゆったりと流れる十勝川を、ゆっくり上り始めた。「乞食」︱先ほど、何気なくこの言葉をつぶやいた勉三は、櫂を漕ぎながら、今回の渡北の前に叔父の鈴木真一に撮ってもらった一枚のある写真を脳裏に浮かべてい
た。
渡北直前の明治十五年五月半ば、勉三は横浜弁天通りの真一宅に泊まり、東京との間を行き来しながら、札幌県庁の東京出張所を訪れたり、晩成社の予算書を作ったりして渡道の準備を進めていた。そんなある夜、叔父と酒の膳を囲んで談笑に及んだ折、真一は不意に勉三にこう尋ねた。
「勉三、お前にはこの開拓、それも奥地十勝野の開拓という大難事業をやり遂げ、成功させるという見通しがあるのか? これによって財産を得るどころか全てを失うこともあるのだぞ。それも覚悟の上なのか?」
真一は函館の写真師田本からの通信で「払い下げ事件」以後、北海道開拓方針が一時的ではあろうが混乱の渦中にあることを知らされていた。そしてまた勉三がそうした世の流れを全く無視し、ひたすら前に突き進むことだけを考えていることもよく判っていた。
︱恐らく大変な障害にぶつかり、苦難の道を歩むことになるだろう。並々ならぬ覚悟を持って臨む必要があろう。それが判っているのか?
叔父として黙っては居られなかったのである。勉三はこの時初めて叔父に師三余が遺した形見の言葉について語り、自らの決意と真情を吐露した。
「三余先生が好んで口にした韓琦の言葉にこういうのがあります。『事の是非如何を顧みるのみ。成敗に至りては天なり』(事にあたってはひとえにそれが是であるか非であるかということを考えるべきであり、成功するか失敗するかということは運命であるからいちいち考えても仕方のないことである)と。私はただ国家・社稷・人民の為を是とし、この開拓事業を行なうのみです。無謀と思われるかも知れません。実際成功するかどうか、天のみぞ知るです。ただ私は全てを失っても、たとえ乞食に落ちぶれても、この事業をやり遂げたいと決意しています。いいえ、たとえ成功したとしても、私は一物も持たぬ一介の乞食としてこの世を去りたいとすら思います。成功の暁には、十勝野の片隅にこの身を横たえるだけの僅かな墓地を手にすることができれば、ただそれだけで満足なのです」
「よかろう。よし、明日、わしがお前にふさわしいとって置きの肖像写真を一枚撮ってやろう」
叔父はそう言うと、にやりと笑い、いかにも美味そうに杯を傾けた。
翌日、裏庭に連れ出された勉三は、叔父が仕入れて来た衣装と小物を身に付け、写真機の前に座らされた。出来上がった写真の勉三はボロボロの衣服を着て、破れた雨よけの筵を背負い、傍らには古びたかぶり笠を置いている。右手に箸を持ち、ほつれたゴザの上に飯の入った汚い椀が置かれている。まさに乞食である。が、ボロを纏った勉三の顔つきは決して落ちぶれた乞食のそれではない。目は写真機ではなく、遥か遠くを凝視している。
勉三はこの写真が大いに気に入った。その後に勉三と晩成社の辿った道を思えば、この時勉三が心に誓った「たとえ乞食になろうとも」という決意は、決して大げさなものではなかったのだ。
余談ながら、叔父の写真師真一が撮ったこの「勉三乞食姿の写真」(表紙の写真)は十勝帯広史・晩成社史を語る上で欠かすことの出来ない貴重なものであるが、この写真が何時、何処で撮られたものであるか、諸説があり、未だ定まっていない。筆者は次のように推察する。
明治十五年五月十日から三十一日まで、勉三は弁天町に在る鈴木写真館に滞在し、二度目の渡北︱つまり銃太郎同行の渡北を準備している。銃太郎の家は横浜石川町にあり、二人は毎日のように顔を合わせ、真一ともよく語り合っていたはずである。当然のことながら真一は二人の出立に先だって記念写真を撮っている。
筆者の手元に二枚の写真がある。一枚は鈴木写真館スタジオ内で撮られた「勉三・銃太郎二人の肖像写真」である。これは、出立時にこの写真館で撮ったものと確認されている。もう一枚は先の「勉三乞食姿の写真」である。この二枚の写真を並べ、勉三の髪型をよく見ると、二つの写真に写っている勉三の髪型は間違いなく同一である。二枚の写真は同じ時に同じ写真館で撮られたものと断定して差し支えないであろう。
第十六章 帯広村
(1)
さすがに舟旅は困難を極めた。しかし二人は決して音を上げなかった。銃太郎は後に、伊豆に残った勝に書き送った十勝川河畔のスケッチ入り手紙で、その悪戦苦闘ぶりを伝えている。
「この行や通常の旅行と異なり、不屈不撓の精神にあらざれば、堪え難し(豪気に威張るぜ)。…荷を丸木舟に積み、土人一人を雇い、生等両人これを助け、大津川を溯る。本流十里以下は水流甚だしからずといえども、以上は更に急流にして最も困難なり。しかして浅には棹を用い、深には櫂を用い、行く行く彼方此方に舟を寄せ、水利地形を見聞し、夜間あるいは野営を張りて石を枕とし云々」と。
銃太郎は後にも先にも、これほど大変と思った旅行を経験したことがなかったという。
舟旅の途中、二人はいくつかの貴重な見聞を得ることが出来た。時々目にする家屋は多く丘陵上の高地にあった。川面から三尺ばかり上がった辺りの湿地は地味豊かで水分をたっぷり含み、黍・豆・馬鈴薯や諸々の野菜が盛んに生長していた。しかし、一度大雨が降り河水が溢れると、たちまち全てが水に浸かり、小屋も畑も跡形も無く流されてしまうのである。
葦原の多い支流猿別川の畔にあったアイヌ家に宿を借
りた夜には「神酒之宴飲」の歓迎を受け、彼らの食料草姥百合の粉で作った餅をご馳走になり、ひっきり無しに濁酒の大盃を勧められた。彼らは拍子を取って楽しげに
歌い踊り、炉辺を囲んで終夜談笑を繰り広げた。翌日、二人とも寝不足で思わず櫂を流しそうになったほどであった。
更にまた十勝川の水底を遊泳する大鱒を発見したり、水辺に眠る野鹿や沢を走る大鹿や大獺を眺めたり、沼
地に羽を休める水鳥の群れが突然飛び立つのを見たりと、二人はあらためて十勝野の自然の豊かさに感嘆させられた。
幸い雨天に遭わず、十勝大河が雨水に溢れて激流と化すことはなかった。時には舟に縄を掛けて陸より引っ張り上げたり、急流に遭遇し、他の舟から一人雇いのアイヌを借りるなどしなければならないこともあったが、何とか無事に乗り切ることができた。
勉三らがようやく目的の地である十勝野中原に到達したのは、夏も盛りの明治十五年七月十五日のことである。十勝川河口の大津から十三、四里ばかり上流、五泊六日を経てようやく目的地に入ったのである。
大津で「最も開拓に適した土地であろう」と聞いて来たこの辺りは、確かに驚くほど肥沃で、広々とした大平原の真ん中にあった。北方の石狩山中に発した音更川が十勝川と合流する辺りの河原には樹木や芦に覆われた中洲が至る所に生じ、いくつもの川筋に分かれている。そこに南の段丘から流れ下って来た札内川が合流し、更に南西から曲がりくねった帯広川が湧き水から生じた細流を集めつつ穏やかに流れ込んでいる。
十勝川本流に流れ込む支流帯広川の河口を少し中に入ったところに舟着場があった。船着場の傍らの低い崖の下からは清水がこんこんと湧き出ている。帯広川を流れる水は清涼にして透明を極めていた。
そんな清水を集めた細流の畔に十勝国河西郡帯広村があった。帯広のアイヌ語原名は、オペレペレケプ・オペリペリケプ・オベレベレフ・オベリベリ等々である。川口、即ち十勝川に合流する帯広川の川口が「幾筋にも裂け分れている」の意に発した地名である。
*正確には下帯広村。明治三十五年に荊苞(ばらとう)村と合併、帯広町となった。勉三日誌の記述に従い「帯広村」とした。
大津の河口から十勝川を遡ること十三、四里︱そこに広がる帯広の地は水豊かにして肥沃、見事な平野地であった。確かにそこはアイヌの民の言う平和の境「アイヌモシリ」に違いなかった。これこそ勉三がケプロン・レポートに記されたライマン報告を読んで以来、ずっと夢見て来た憧れの地であった。
勉三は、この日明治十五年七月十五日の日誌に、こう記した。
「帯広村…この地すこぶる肥沃にして広漠たり。東北に十勝川、東南に札内川、北に帯広川を帯び、札内山・音更山を見る外四顧(あたりに)目に触れるものなし。細流は平原の中央にあり。水細くして冷やかなり」と。
帯広村に足を踏み入れた最初の夜、二人は近くのアイヌ小屋風の粗末な家に身を投じた。部屋の中央に切られた炉の周りには幾枚もの立派な鹿皮が敷かれていて、勢い良く燃える炉火がいささか煙たくはあったが、遠い南の彼方からやって来た二人を暖かく迎えてくれた。
大津の堺が紹介してくれたこの地の先住者の家であった。主人の国分は寡黙な男であったが、親切に二人を労ってくれた。勉三が「三人分だ」と言って大津で仕入れた玄米を多めに渡すと嬉しそうに引き取り、飯と一緒に野草の一杯入った熱い鹿汁を食べさせてくれた。
彼は東北宮城の田舎に生まれ育ったが、十年ほど前に食い詰めた両親と共に日高門別に移住し、そこで農業を営んでいた。しかし、なかなか思うに任せず家族を残して一人この地に移って来ていたのである。アイヌから毛皮を購入し、これを札幌から来る毛皮商に卸す傍ら、家の周りを耕し多少の畑作りを試みていた。勿論無願入地であり、たとえ開墾したとしても自分の土地になるという保証は全くなかった。
*無願入地…役所から正式な貸し下げ許可を受けていない開墾地で、他人が認可を受けた場合は自分の所有地とはならず、そこから出て行かねばならない。
翌七月十六日、舟で十勝川を北に渡り、然別一帯の観察を試みた後、大津の堺が是非会うようにと助言してくれた音更川下流モツケナシの馬場猪之吉宅を訪れ、周辺の情況を尋ねた。彼は堺の紹介と聞くとたちまち打ち解け、この辺りの地味や水流のこと、気象のこと、季節変化のこと、先住者アイヌのこと等々について懇切丁寧に教えてくれた。こうした全てが、若松、江、堺など先輩先住者の手引きがあったればこその収穫であった。
更に二人は、馬場の家に居た岩手の行商人大川宇八郎の案内で近くの小高い丘に登り、十勝野平原を一望する機会を得た。その高台は北から流れ落ちる音更川が十勝川に合流する辺りの西岸にあり、川沿いの小高い丘陵の先端にあった。十勝アイヌはそこを「山ノ鼻」と呼んでいた(現在の鈴蘭公園の南端)。
かの松浦武四郎も、おそらくはかのライマンも立ったであろうこの山ノ鼻こそ、まさに最良最高の十勝野展望台であった。
「これがライマン氏の観た四万エーカーの草原か!」
無言のまま時が過ぎる。勉三は全身が熱く燃え、微かに震えるのを感じていた。
銃太郎もまた、「ほォー!」と言ったまま、その広大さに圧倒され、言葉を失った。
夢にまで見た十勝野! 青い萱の原は果てしなく続き、楡や槲等の樹林が各所に点在している。遥か西の彼方には淡く紫に霞んだ日高の山々があたかも衝立屏風のように聳え立っている。北の活火山十勝岳山中に端を発した十勝川は、岸に柳やヤチダモ、胡桃の林を鬱蒼と茂らせ、広い川原や沼地の間を蛇行しつつ、眼下を北西から東南に向かってゆったりと流れ下っている。更にこの大河は、ここから二、三里先で東の白糠丘陵から流れ下って来た利別川と合し、そこから曲流して南に向かう。このように、十勝野の真ん中を横切る大河十勝には、北から南から西から東から何本もの大きな川が流れ込んでいる。奥から芽室川・美生川・然別川・帯広川・音更川・士幌川・札内川・途別川・猿別川・利別川・浦幌川等がそれである。
こうした地勢からも明らかなように、十勝野は一面の平原のように見えるが、実際は大河十勝を底として北へ南へ西へ東へと広がった幾つもの広い段丘の重なりから成る大きな盆のような平原である。
傍らで大川もまた自慢げに説いた。
「ここは松浦武四郎さんも登った所で、十勝野第一級の眺望の地です。松浦さんは、この山ノ鼻から十勝野を一望しつつ『この地追々第一繁盛の地となるべし』と讃え、『このあたり馬の車のみつぎもの御蔵をたてて積ままほ
しけれ』と謳ったのです」
松浦の歌の意は、やがてこの辺りは馬車で運ばれて来る貢物で一杯になるだろう。中央に貢納する米の収蔵保管庫たる御蔵を建てて貢物をいっぱい積み上げて欲しいものだ、というものである。
―この地がやがては「第一繁盛の地」になることは間違いない。
それは勉三の確信でもあった。
火山灰と腐植土に覆われたこの十勝平原は内田・田内の復命書が述べている通り、「林野草野かれこれ相半ばし、あたかも天造の大なる牧場の如し。西北に高山ありて北風を防ぎ、雨雪を減ずるを以って土地高燥(高いと
ころにあり乾燥している)・気候温和・野草甘美にして最も水利に富む。けだし本道十一州中最も牧畜に適したる所」に他ならなかった。
勉三もまた山ノ鼻から十勝野全景を見渡し、心に深く誓った。
「何としてもこの十勝野を大牧畜場地に、大穀倉地にして、必ず世に出さねばならない。その為に一気にここを拓き、開拓事業を軌道に乗せ、何としても船便を通し、道路を開かねばならないのだ。川に船便を通わせ、陸に通路を開かない限り、ここは陸の孤島のままに終わってしまうのだ」
七月十六日のこの日、勉三と銃太郎は一日中、十勝川周辺の平野地を歩き回った。然別・音更川辺りを隈なく観察してまわった。どこもみな肥沃豊穣の地ではあった。
二人は強い陽射しの中を歩き疲れ、ようやく帯広川の船着き場に辿り着いた。楡の木陰に腰を下ろす。日陰に入るとたちまち汗が引く。心地よい風が頬を撫でていく。陽と陰と、熱気と冷気とが隣り合わせになっている。
船着き場の付近にはアイヌの人々が「パラト」(広い沼)と呼ぶ水沼があり、そこから綺麗な冷たい清水がこんこんと湧き出ていた。勉三はその清水を蕗の葉で掬い、喉を潤した。
「なんとも美味い水だ。生き返るようだ」
銃太郎もまた感嘆の声を上げた。
「まさに命の水とはこういうものを言うのでしょうな」
もはや二人の気持ちは固まっていた。やはり帯広村一帯に勝る適地は他にない。ここは水流・水運に恵まれていて、広々とした草原には処々に疎林があるだけで、すぐにも牧畜場を拓くことが出来そうだ。
船着場周辺は豊かな樹木に囲まれていて、人が住むには格好の地である。
「ここだ、ここに、この帯広村に決めよう」
勉三は拳をぐっと握り締め、頭上に広がる高い空を見上げた。
銃太郎もまた諸手をぐっと天に突き上げて叫んだ。
「そうです。ここです。ここ以外にありません」
晩成社開墾願い地がここに決定した。
(2)
明治十五年七月十六日夜︱
国分の小屋の炉は、乾いた薪と火種元となる太い根株がボウボウと勢いよく音を立てて燃え、炉辺に腰を下ろした四人の髭面男︱勉三、銃太郎、大川宇八郎、国分久吉を赤く照らし出していた。揺れる炎に赤く染まったその髭面の顔はまさに森の中の「蛮人」のそれであった。
勉三は大津から運んで来た樽酒を大椀で汲み上げ、それぞれが手に握る茶碗・木椀にこぼれんばかりの酒を注ぎ込み、そして深々と頭を下げた。
「お近づきの印です。どうか晩成社開拓団をよろしくお願い致します」
酒碗を握った四つの腕が勢いよく上がる。
「晩成社万歳!」
大川の発した大音声が闇夜の静寂を破る。盃がグッと傾けられた。十勝野の大地に「晩成社」の名が初めて響き渡った瞬間である。
「それにしても、よくここに入殖すると決めたものさね。今までいろんな人がそれらしきことを口にしたが、誰一人本気の者はいなかったのさ」
大川はしきりに感心し、いかにも美味そうに茶碗の酒を啜った。
「何としてもこの十勝野を世に出したい、ただその一念あるのみです」
勉三は、今まで様々な調査・報告書に語られて来た十勝野の素晴らしさを交々語った。そして更に、いずれ十勝野一万町歩の開墾を実現させ、牧畜場を開き、牛馬を飼い、畑を作り、いつの日にか水田に黄金色した稲穂の波をなびかせたいと説き聞かせた。
「まだ道路も何も通っていないというのに、途方もない計画を立てたもんさね。しかし、依田さんの話を聞いていると、それも満更夢のような話という訳ではないように思えて来るのさ」
商人大川はそれなりの見識を持った紛れもない十勝人であった。三年ほど前に沙流川上流から日高の山を越えて十勝に入り、今は音更川下流の平地に住んでいる。この辺りのアイヌ村を回り、鹿や狼や羆の毛皮と日用雑貨とを交換し、入手した毛皮を舟に積んで大津の大店に卸していた。彼は十勝野の有望性について松浦武四郎が語った言葉も、開拓使から来た田内・内田らの調査官が語った言葉も大方のことは知っていた。彼の目から見てもこの地は牧畜場としては最適の地と思えた。
︱が、十勝川の舟便しか頼りにできない間は大津港から遥かに離れたこの地は「陸の孤島」でしかない。調査官の建言にもある通り、道路が開かれねば何の役にも立たないのだ。これまでも開進社の者だとか、天草開拓団の知り合いだとか、あるいは某華族の意を受けた者だとかいう人々が何人も顔を出したが、皆ここの交通事情を見ると、「開拓使が先に動かねば何も始まらん」の一言を残してすぐに立ち去ってしまったが、それも当然のことだ。しかし、晩成社は、この依田という男は他の連中とは違う。「自らが先に動いて後に国を動かそう」というのだから。
「あんた達ならきっと出来るさ。いや、何としてもやり遂げて欲しいのさ」
彼は十勝一帯の顔であり、国分の兄貴分であり、当然大津の堺、江らとも親しい仲にあった。その大川がそう言ってくれたのである。
「ここも賑やかになりそうで、楽しみなこった。仲良くやるべ」
国分もまた嬉しそうに続けた。
「有難いことです。本当に有難いことです。そう言って頂くと勇気が湧いて来ます」
勉三と銃太郎は、大川とそして国分の黒く汚れた手を固く握り、深々と頭を下げた。
そして、宴の最後に、勉三はあらためて二人の十勝住人に頭を下げた。
「どうか、今回ここに残ることになった銃太郎君のことをくれぐれもよろしくお願い致します。いずれまたあらためてお礼致します故」
「この地のことは何も知らない若輩者ですが、どうかよろしくお導き下さい」
ここに残ることになる銃太郎は丁重に挨拶し、二人の碗に酒を注いだ。
「なに、ここで一冬越せば立派な蝦夷者になるべ。それにアイヌと一緒になって舟漕ぎして来たど根性には恐れ入った。それがあれば大抵のことは乗り越えられるべ」
言葉少ない国分がいかにも感じ入ったように応えた。
更に大川が続けた。
「このすぐ先にわしとモチャロクの小屋があるのさ。今は誰も住んで居らず、わしや旅の者や知り合いが時々使っているだけだ。モチャロクにはわしから話しておくから、そこでこの冬を越したらよいのさ」
モチャロクは今は亡き総乙名(酋長)マウカアイノの跡取り息子であり、帯広アイヌの長である。マウカアイノはかつてここを訪れた開拓使松本判官をして、「当州の富豪にして宝物金銀の造作物およそ八百円を所有する」と唸らせた有名な十勝一帯の総乙名であった。大川は、その人柄故にアイヌの村人に慕われていたが、特にマウカアイノとその息子モチャロクは大川を気に入り、何かと便宜を図ってくれた。
蝦夷地で初めて越冬する内地人にとってこれ程心強い味方、隣人は他に居なかった。実際、北地の冬を初めて越した銃太郎にとって、モチャロク一家は命の恩人そのものとなった。
勉三や銃太郎が、アイヌの総乙名一家と親しい大川、国分というような現地住人の協力を得られたことは、実に幸運なことであった。彼らが勉三や銃太郎をかくも手厚くもてなしたのは、勉三と晩成社が敢えてこの交通不便の未開地帯広を入殖開拓の地に決したという、その意気を壮としたからであった。
今回の渡北の旅では、同行者の銃太郎に余程のことがない限り、入殖地にそのまま残ってもらうことが、伊豆を出た時から決まっていた。現地に残ってもらい、来年春に移住してくる予定の晩成社開拓団を迎え入れる態勢を調えて貰わねばならなかったからである。
開拓団が入殖して来る前に、小屋掛けの用意をしたり、植栽実験を試みたり、土質を調べたり、天候の具合を見たりと、なしうる限りの準備をしてもらわねばならなかった。
勉三もまたこの冬を札幌で過ごし、開墾地下付願や渡航手続きなど県庁との折衝、農具や種の買い入れなどに飛び回る予定でいた。もっとも、札幌の用事が余程順調に運んだ時には、帯広に戻って銃太郎と共に冬を越す計画がない訳ではなかった。いずれにせよ、勉三は、こちらの受け入れ準備に一区切り付いたところで、一度伊豆に帰り、本格的な渡航準備に当たることになっていた。
この頃、伊豆に残った勝は、学校授業の傍ら佐二平や善六の指示を得て株主や開拓移住者の募集に走り回っていた。
ところで、「とりあえずこの辺りに百万坪の下付願いを出すつもりです」との勉三の言を聞いた国分は、幾分心穏やかならぬものがあった。彼は無願入殖者故、この地が晩成社に下付された場合、いずれここから退去せねばならなくなる。「思いがけない被害」に遭うかもしれないのである。この地で、あくまでも商売人でなく百姓として身を立てたいと願っていた彼にとっては辛いことであった。実際、西の方ではあちこちで無願入殖者の悲劇が発生していた。開拓使は、苦労してせっかく拓いた土地であっても無願入殖の場合は二重地籍の紛争発生を恐れ、容赦なくこれを没収した。
しかしながら、こうした「思いがけない被害」を蒙ったのは、無願入殖者だけではない。むしろ先住民族アイヌこそ最大の「思いがけない被害」を蒙った悲劇の人々であったといえよう。それは決して勉三らのような入殖開拓者が意図したことではなかったが、開拓者によって十勝野の原野が切り開かれ、森や林が切り倒され、そこが広い農地に変じた場合、狩猟採取を生活の糧としていたアイヌ住人は、自分たちの豊かな生活の地・安住の地を失い、この土地を去るか、不慣れな新しい生活様式に従っていくか、どちらかを選ぶ他なかった。
こうした「思いがけない被害」をもたらしたそもそもの原因は「和人国家」の存在とその支配にあった。徳川寛文年間のシャクシャインを先頭とするアイヌ民族の英雄的な抵抗蜂起が、徳川幕府権力によって打ち砕かれたその瞬間から、この悲劇的な「思いがけない被害」の波及が避けられないものとなったのである。そして明治初頭に、あらためてこの蝦夷地が「日本国」の領有地であると宣告されたその瞬間から、もはや「思いがけない被害」は「避けられない宿命」とされてしまった、といえよう。
(3)
四人が宴を張ったこの夜、二人の先住者が十勝原野に関して語った話というのは、専ら大雪による鹿の大量死とバッタの大量発生についてであった。
明治十二年一月、全道が大雪に見舞われた。十勝野でも食料の熊笹が深雪に埋もれ、夥しい数の鹿が飢え死にした。五、六月になると、死骸の溢れた利別川は死臭が酷く、とても近づけたものではなかったという。そしてその翌春、再び十勝一帯に大雪が降り、餌を求めて谷間に集結した鹿の群に、今度は各地から入り込んで来ていた和人猟師が猟銃の集中砲火を浴びせ、大量に捕獲した。ついにあちこち捜し回らねば狩ることができない程に鹿が激減してしまった。
長い間、十勝の鹿猟は十勝アイヌに限られていたのに、明治十三年に十勝組合が解散になるや、西側から密猟者が続々と入り込んで来た。鹿一頭の値は一円五十銭(およそ米三十キロの値段)という高値であった。彼らはたちまちアイヌの狩猟圏を奪い、毎年数万頭という大量の鹿を殺し、舟に獲物の皮と角を満載して十勝川を下った。鮭もまた獲り放題に獲られた。荷物の積出港であった大津はこれらを商う大店の商人たちで大賑わいであった。こうした事態を、現地に在住してアイヌと親しく交わっていた大川や国分は苦々しい思いで見ていた。が、如何ともし難いことでもあった。
「奴らは鹿を食いつぶすだけ食いつぶしたら、蜘蛛の子を散らすように逃げて行ってしまったのさ。今では大津もすっかり静かなものさ。大きな声では言えないが、アイヌたちはここしばらく続いているバッタの襲来は、怒ったカムイの仕業に違いないと言っているのさ」
そう言う大川の声にも憤りが籠もっていた。
先住民アイヌに「神様が怒ったのさ」と言われたバッタの最初の大群発生は、明治十三年八月の頃のことである。ちょうど一旗組が入り込み、鹿猟や鮭漁がにわかに活況を見せ始めた頃だ。この前代未聞のバッタ騒動が終わったのは明治十八年で、あしかけ六年にわたって移住民・開拓民を苦しめた。
空が真っ黒になるような数百万、数千万ものバッタの大群が村々を襲い、あらゆる作物・牧草を食べ尽くした。これによって大損害を被ったのは主として西の日高・胆振・石狩方面の農民であった。幸か不幸か十勝にはまだ被害に遇うような農地―田畑がなかった。
驚いた開拓使は、明治十四年十月、発生地十勝の調査に内田・田内の二人を送り込み、明治十五年春には再度農商務省の渡瀬に調査を命じた。三人とも優秀な札幌農学校第一期生であり、クラーク博士の愛弟子である。この時の内田・田内の調査があらためて十勝野が肥沃豊穣の農業地、特に牧畜適地であることを世に知らしめたことは既に述べたとおりである。
彼らの調査から発生源が札内川・利別川・帯広川・猿別川が十勝川本流に合流する辺りの葦・薄・茅野原であることが判明したものの、既に各地に飛翔したバッタによっていたる所に大量の卵が産み付けられており、簡単に駆除できるものではなくなっていた。木の下に袋を張って棒で叩き落したり、溝や穴を掘って誘い込んで殺したり、ハタキのようなもので叩き潰したり、枯れ草と共に燃やしたりと、ありとあらゆることをやって見たが、すぐに収まるようなものではなかった。屯田兵団の中には大砲をぶっ放してバッタの大群を追い散らそうとした所もあったという。
開拓使庁は蝗害が海を越えて本土に及ぶことを何よりも恐れ、明治十四年からの三年間に駆除費約九万五千円(およそ現代の額にして四億円余)を計上。バッタ退治のために囚人を動員し、人夫を雇い、更に住民から捕獲した幼虫や卵を買い上げることまでした。
その後の研究で、十勝においてバッタが大量発生した要因が天候の異変にあった事実が判明した。明治八年秋の台風で十勝の河川は大洪水に襲われた。特に十勝川と利別川の合流地点ではすべての樹林が押し流され、広大な湿地帯が生じ、更にその後の好天によって乾燥地が形成され、ここにバッタの好むイネ科の植物たる葦・すすき・茅草が茂る棲息好適地が造られたのである。バッタはここで急速にその棲息密度を高め、大繁殖し、獰猛化したらしい。
が、明治十八年には、今度は長雨という天候不順がその棲息条件を崩壊させ、新たな産卵や孵化を不可能にした。
今でも十勝の各地には「バッタ塚」なる碑や盛り土が見られる。捕獲した大量の殿様バッタが埋められた痕跡である。
明治十五年七月十六日︱四人が炉を囲んで語り合っていた頃、バッタはまだなりを潜め、その恐ろしい姿を現していなかった。勉三がその恐るべき大群を目にしたのは帯広を去ってから一ヶ月後の八月十二日、札幌においてである。
勿論勉三は入殖早々の晩成社がこの恐るべきバッタの大群の襲撃を受け、壊滅的打撃を蒙ることになろうとは想像だにしなかった。もっとも、仮に想像したとしても、勉三の帯広入殖の固い決意を覆すことはできなかったであろうが。
(4)
もしかしたら、留守中に札幌県庁から大津の宿舎に「開墾地無代下付願い許可」の通知が届いているかも知れぬ︱勉三らはそんな期待を胸に、七月十七日、帯広村を後にし、大津に向かった。勉三は札幌宿舎の主に宛てて「県庁から何か通知があったらこちら大津の宿に回すように」との手紙を出してあった。
帯広に滞在することになっている銃太郎も、大津で滞在用の食糧や日用品を購入したり、農事用の道具を揃えたり、作物の種などを買い入れる必要があった。二人は、大津へ向かう途中、念の為に利別川上流に向かい周辺地域を観察したが、やはり帯広に勝る土地はなかった。中途にあった長臼の田舎鍛冶に銃太郎の使う唐鍬を注文し、二十四日には大津の旅館に帰って来た。しかし、期待の返事はまだ届いていなかった。
「何故裁可が出ないのでしょう? また役所が細かい書式のことで文句を付けているのでしょうか?」
銃太郎が眉をひそめるのも無理はなかった。実際、今までも願書を出すに当たって、書式に関する数々の意見や注文が付けられ、無駄な時間を費やすことが多かったのである。
無駄は怠惰と心得る勉三にとっても、役所仕事は我慢のならないものであった。彼は決してそれを外に現すことなく、忍耐強く堪えていた。多くの見聞から抗えば抗うほどますます事態を悪化させる結果にしかならないことをよく知っていたからである。が、元々彼には国家・役所と争ってことを進めるという発想はない。国家が当てにならぬのなら、自らの力で事を推し進め、もって国家を動かそう。それが彼の流儀であった。
しかし、事は勉三が思っているほど単純なものではなかった。それは明治という国家の中枢が薩長土肥の藩閥によって支配され、藩主が華族に列せられ、政府機構がほとんど士族即ち元藩士によって構成されていたことと無関係ではない。役所の士族官吏にはまだ徳川時代の形式主義的慣習や身分的意識とが色濃く残っていた。どこの役所にも、つまらぬ形式や書式にこだわり、平民を軽く扱う風潮が根深く存在し、その横柄さは度し難いものがあった。その故に平民は役所から軽く扱われ、理不尽な扱いを受け、些末な問題で時間を浪費させられる例が少なからずあった。
「共和国アメリカ」からやってきたケプロン一行は、日本の「お役所仕事」に対して痛烈極まる批判を行なっているが、それも故ないことではなかった。
勉三は、既に札幌県庁に出してある願書とは別に、新たにもう一本、「十勝帯広村」と明記した「開墾地下付願」を作成し、これを携えて帰り、あらためて札幌県庁に提出することに決めていた。無駄を省いて迅速にことを進めるには、それしかなかった。
勉三は大津滞在を数日延ばし、戸長役場に足を運び、願書の書式を質し、開墾地を「十勝国河西郡字オベリベリ・荒蕪地百万坪」とする旨の新しい願書を認めた。北に帯広川、南に札内川、東に十勝本流が流れ、東側八百間余・南側千二百間余を有する方形百万坪の図面を書き添え、十勝四郡各戸長の奥印(事実を証明する為に書類の終わりに押す印)も得た。最後に「平民依田勉三」と書き入れ、心を込めて印鑑を押した。後は浦河で郡長の奥印を貰うだけである。
勉三は、最初に出した願書とは別に、新たな「十勝帯広村開墾地下付願」を請願することにしたのであるが、こうしたやり方が、県庁役人にあまり快く思われないであろうことなど思ってもみなかった。
七月二十七日、二人は別れを惜しみ、勉三は札幌に向かって馬を進め、銃太郎は再び帯広村を目指す舟上の人となった。勉三は銃太郎に多めの資金を渡し、大川とモチャロクの所有になっているという小屋をできるだけ早く買い取るよう頼んだ。そうすることで、他の開拓団とは異なり、晩成社が本気で帯広に入殖しようとしていることが判ってもらえるであろう、と考えたからである。実際、二十七円という高値で小屋を買い取ることが決まると、大川は大喜びし、早速モチャロクに掛け合い、生活具一式と住居の買い取り話をまとめてくれたのである。
(5)
勉三が札幌の旅亭石川に戻ったのは、大津を発ってからおよそ四十日後の八月四日夕方のことである。札幌の宿にも、やはりまだ県からの通知は届いていなかった。
翌日加納宅を訪れ、事の次第を報告すると、
「やはり十勝に入ることにしたのかね。あんたは本当に奇特な人だ。それにしても、早くも銃太郎君を現地に置いてくるとは、相変わらず決めたら即行動という訳だ」
と、半ば呆れ半ば感心された。
「ところで、前に出した願書の諾否の通知がまだ届いていないのですが…」
「うーん、わしも二、三度催促してみたのだが、なかなか庁議にかけるところまでいかないのだ。実は、六月末に新しく農商務大臣になられた西郷従道卿が巡視のために来道され、県庁もこのわしもその接待で連日大わらわなのだ。おそらく勧業課も同様だろう。まだ一行は日高あたりを回っているはずで、もうしばらくはこの忙しさが続くだろうよ」
「そうでしたか。下々方村で昼食を摂った際、店の親父が、西郷様御一行が来て今牧馬場に見学に行っているが、静内辺りで泊まることになっており、どこもかしこも宿屋は貸し切り状態だと教えてくれました。やむなくわたしも賀張まで足を延ばしたことです」
「まあ、返答がないのは、西郷卿の巡視ばかりが理由でもあるまいが…」
加納はそう言って言葉を濁した。
勉三の願書が勧業課でどのように扱われているか、加納には大よそのことは察しがついていた。
―勧業課がせっかく札幌近郊の苗穂の地を勧めたというのに、それを無視して勝手に十勝まで出掛けて行ってしまうとはなんと無礼な。それに元藩主や華族の申請ならいざ知らず、彼は平民百姓ではないか。県令代理も言っているように、平民の造ったあの小さな開墾社に何ができるというのだ。どうやら十勝野にご執心のようだが、蝗害発生の根源地で、しかもいつ道路が開かれるか判らない十勝野開拓に取り組むなど無謀極まりない。許可を下ろしたところで何もできまい。できるはずがない。そのうちに考え直すだろう。
大体はそんなところであろう。
勿論、県庁の十勝入殖反対論の中には善意に発したものでもあった。みすみす失敗すると判っているのに許可する訳にもいくまい、という配慮である。
札幌に戻った翌日、勉三は十勝より携えて来た例の願書を手に県庁勧業課長細川を訪れた。課長は不在ということで、以前提出した願書に関する諾否の返答についても全く要領を得ず、この日はただ開墾地を帯広と定めた新しい願書を提出するだけで終わった。
さすがに、「十勝国河西郡字オベリベリ・荒蕪地百万坪」と書かれた願書と図面を手にした課員は目を大きく見張り、勉三の顔をまじまじと見詰め、
「話には聞いていたが、まさか本当に十勝に入殖するつもりであったとは、全く恐れ入ったことだ!」
と呟いた。
勉三と晩成社にとって、更に悪い条件が重なった。八月十二日の昼時、旅亭に向かう途中、突然空が暗くなり、「ゴオー」と、何か唸るような轟音が響いた。「バッタだ! バッタだ!」恐怖に満ちた悲鳴があちこちから聞こえて来た。黒雲のようなバッタの一団が千歳方面から札幌上空を横切り、東北方面を指して飛び去って行った。
「これがバッタの大群という奴か」
初めて見るバッタの大群であった。勿論のこと、これによって勉三の闘志が萎えることはなかった。しかし県庁役人は違った。この光景を目にし、ますます「こうした前代未聞の蝗害発生の源である十勝野への入殖などもっての外」ということになったのである。
翌日の八月十三日から九月三日まで、勉三は何度となく県庁や官邸を訪れ、ひたすら庁議を促し、裁可・指令の出るのを待った。あいにく頼みの加納は農商務卿一行に随行して地方に回っていて、ずっと留守であった。
しかしたとえ加納の人脈をもってしても、そう簡単に結論の出せる情況ではなかったことも事実である。この時代、開拓行政はあの「払い下げ事件」によってすっかり士気が低下してしまい、役人は新しい仕事に挑戦する意欲を失っていた。また、三県時代になって日も浅く、県令の調所広丈の入庁も遅れており、未だに県庁が十分機能しておらず、本格的な事業計画は何も定まっていない。薩閥の役人たちは同郷の西郷卿一行の案内・接待に大忙しで、地に足の着いた仕事はさっぱり行なわれないままであった。更に、道全体が相続く前代未聞のバッタの大被害に悲鳴を上げ、その対策に血眼になっていたことも大いに影響していた。政府もまた、もしバッタが津軽海峡を越えて本州に渡ってきたら…という恐怖に戦き、何としても道内で撲滅せよと、矢のような催促であった。
九月四日になってようやく出て来た指令は、六月中に出した願書に関するもので、しかもその内容たるや「発起人全員の署名と捺印を要する」「移住者の募集状況を知らせよ」といったものであった。「発起人総代依田勉三」の届けだけでは不十分という訳である。
「こんなことを今頃! 何という無為、何という怠惰!」
さすがの勉三も怒りを覚えた。それは指令の内容に対してだけではなく、役所役人たちの無為と怠惰に対するものでもあった。
勉三の、松崎出張所の依田善六宛に出した照会の手紙に対する返事が届いたのは、一ヶ月後の十月十四日であった。
手紙が届くまでの一ヶ月間、勉三は札幌東部にあった雁来村の農家に泊まらせてもらい、どうしても習得しておきたかった製麻の技術を教えてもらっていた。帯広の大川宇八郎はしきりに麻紐作りの重要性を説き、ここでは麻草はいくらでも手に入るのだが製麻の技術があまりにも乏しすぎると嘆いていた。大津で地図を写させてくれた沼津香貫の寺島から、製麻の技術に詳しい者が雁来村にいると聞き、念の為に紹介状を書いてもらっていたのであるが、それが思いがけなく役立った。
一ヶ月後、勉三のもとにようやく松崎の晩成社出張所から回答が届いた。雁来村を飛び立つように出立し、早速県庁に走り、指令への照会回答の文書を提出したが、相変わらず庁議進展の様子は見られなかった。加納によると、どうやら今度は社の移住民募集の遅れが問題になっているようであった。この頃は加納も既に札幌に戻っていて、忙しい合間を縫って何かと協力の手を差し伸べてくれていた。元々は十勝入殖に反対であった加納も、勉三が既に帯広への入殖を決め、図面まで提出していることを知り、その熱意に感じ、改めて熱心に県庁関係者への働きかけに奔走してくれた。
松崎からの照会状を県庁に提出してから更に二十日が経った。その間、勉三は再び雁来に戻り、あるいは農業博覧会に足を運び、農具などを見学し、あれこれの種子を購入し、銃太郎の元に送った。しかし、相変わらず県庁からは何の沙汰もなかった。
「うーん。実に残念だが、今回は巡り合わせが悪すぎる。あまりにも情況が悪い。わしの力をもってしても如何ともし難いのでな。これは、しばらく待つ外なさそうだ。とにかく伊豆の移民団募集を急ぐことが先決のようだ」
加納は申し訳なさそうに詫びた。
「いえ、いえ、十分に奔走して頂き、心から感謝しております。今時の状況はよく判っております。何、これしきのことで挫ける勉三ではございません。我が家の家風に〝辛酸を楽しむ〟というのがあります。ますますやる気が湧いて参りました」
勉三はそう言って笑った。それは勉三の強がりでもなく、負け惜しみでもなく、彼の本心であった。
十一月四日、結局勉三は一旦伊豆に帰ることにした。いつになるやも知れぬ県庁からの指令書を待って徒に時を過ごすなど、到底できるものではなかった。県庁から出される指令書を松崎の出張所に送り届けてもらうための必要な書類的手続きを終え、必要な買い物を済ませ、それらを全て帯広の銃太郎の元に送り、札幌を後にした。
伊豆にはまだなすべき仕事がいっぱいあった。何よりも遅れている移民団の募集を急がねばならなかった。
(6)
函館には写真師の田本が待っていた。勉三が、いよいよ本気で十勝野開拓に取り組むことにしたこと、県庁の裁可がなかなか下りないことを伝えると、彼はこう助言した。
「十勝野開拓ということになると、大変な事業になることだけは覚悟しておかねばならない。特に輸送の問題をどうするかだ。それに開墾許可願いだが、開拓使時代と異なり、今は農商務省にも札幌県庁にも奥地の開拓に手を付けようなどという気力は全く見られない。そう易々と許可を出すまい。このことも覚悟しておいた方がよさそうだ」
開拓使の専属写真記録者として、北海道開拓の歴史と動向をつぶさに見て来た男の言である。勉三が耳を傾けたことはいうまでもない。
当然のことながら、十勝野、それも内陸帯広の開拓においては道路開削が要となる。だが国・県庁には今のところ道路を開く予定はない。道路を開く計画がない以上、そこに開拓許可を出すことはできない。それが県庁役人たちの論理であった。
「いずれ十勝野開拓時代が来ます。とりあえず晩成社は自給のための畑を拓き、先陣を切って牧畜場を拓き、範を示しながら時の来るのを待つことにします」
それは勉三の強がりでも何でもなかった。彼の腹はそう決まっていた。
その勉三がここ函館でどうしても調べたかったことは、大津港から函館や室蘭に至る航路の問題であった。今も、大津・広尾~室蘭・函館間を走る船便が無いわけではない。しかし、それは定期的なものではなかった。この大津港からの船便輸送がどれほど安定したものになるか、それが問題だった。
田本や函館の船舶関係者から聞き集めた話から判ったことは、政府は南下の度を強めているロシア対策にかなり力を入れ始めており、軍事的かつ産業的に見て強化の対象となっている港は根室・釧路・小樽・室蘭・函館の五港だけということであった。
どうやら大津や広尾などの小さな漁港はそのままで、しばらくは釧路港を使う以外になさそうだ、というのが結論であった。つい先日も、初めての汽船が大津港に向かったものの投錨できないままに引き返してきたという。不定期の小船が危険を冒して大津と函館や室蘭との間を右往左往している現状は当分変わりそうもなかった。
もっとも、これを聞いても勉三は動じる気配もなく、
「必要とあらば自分で港を開くまでです」
と、言い切った。それが単なる空言でなかったことは、後に生花苗に牧場を開いた際、海辺にあった沼を使って港を築こうと計画し、晩年その実現の為に動いたことがその証である。
目の前に立ちはだかる壁︱国家行政機構の高く厚い壁も彼の志を挫くことはできない。そこに彼の非凡さがあった。ただその壁と闘い、その壁を打ち破って行くという発想もなかった。そこに彼の「限界」があったともいえる。
北海道開拓において、道路開削を始め国の果たすべき役割はまだあまりにも多く残されていた。勉三は国にそれを果たすよう「請願」するだけで、敢えて無理矢理に「強請」しようとはしなかった。ただ、彼の「請願」は書式上は「お願いする」という形式を取らざるを得なかったとしても、決して「お願い奉る」という卑屈なものではなかった。例えば後に勉三が依頼した代書屋(現代の弁護士か行政書士)が、願書に「恐縮ながら」などと書き込むと、「国家の為にする開拓であり、何も平身低頭する必要はない」と、そうした文言の削除を命じた。そこに、勉三の勉三たる所以があった。
田本もまた、かの県令代理佐藤秀顕と同じように、あらためて勉三の高い志とその高貴な魂に驚嘆し、思わずつぶやいた。
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、か。果たして政府・県庁の中に彼の志を知る者、理解する者が何人いることか」と。
明治十五年十二月六日、ようやく勉三は伊豆大沢村に帰って来た。半年に及ぶ船と徒歩の長旅であった。
数日後勉三の手元に届いた札幌県庁からの指令書には「却下」の赤い二文字が仰々しく刻印されていた。
晩成社はその後も明治十六年五月二十三日と明治十七年九月二十二日の二度にわたって「無代地所下付願」を出したが、その都度却下され続けた。
札幌県令調所広丈代理の佐藤秀顕が署名した「帯広地所十三万坪本年より向う三ヶ年間仮に下し渡し候」の指令を得たのは、三年後の明治十八年一月二十日に至ってのことである。
尾張藩主徳川慶勝︱明治十一年に百五十万坪を無代下付。開進社︱明治十二年、全道に亘る十万町歩を無代下付。三田藩主九鬼をバックとする赤心社︱明治十三年に百万坪無代下付等々、これらの「大地積無代下付」はすべて「規定外の特別処置」によって直ちに許可が出されている。これらと比べて見る時、晩成社への下付はあまりにも僅少に過ぎ、且つ遅きに失したと言わざるを得ない。
明治十五年九月十三日のこと︱
一人帯広に残った銃太郎は、札幌県庁の貸し付け許可を得ないままに、「晩成社願地」と記した太い標杭を帯広川の畔に深々と打ち込んだ。
伊豆では、勉三と勝が、佐二平や善六の協力を得ながら伊豆の各地を訪ね、晩成社の株主と移民募集に走り回っていた。
豆陽学校教員の勝は、既に二月に郡役所に退職願いを出していた。しかし、代わりの英語教員が見つからず、結局退職が認められたのは渡道直前の明治十六年一月十九日のことであった。
《北海道の近代史》
勉三が関わった明治・大正期の近代道史は、大まかに次のような「三つの時代」に区分される。
第一期 明治維新から明治十四年末の開拓使廃止まで。ニューフロンティアの夢漂う「開拓ロマンの時代」と言えよう。
第二期 明治十五年初めから明治三十八年九月の日露戦争終結・ポーツマス講和まで。天皇制を核とする急激な「近代化推進の時代」である。
第三期 明治三十八年末の韓国統監府設置(初代統監・伊藤博文)から昭和二年八月の東方会議(大陸侵攻大綱の決定)まで。財閥︱大資本・大地主による「植民地主義強化の時代」である。
以上の時代区分を念頭において『道史』を読まれたい。
道史Ⅰ 開拓黎明期
(1)
札幌市民は皆、札幌大通り公園の中程に高く聳え立つ二体の銅像が誰であるか、よく知っているに違いない。
一体は黒田清隆、もう一体は米国人ホーレス・ケプロンである。開拓使顧問としてホーレス・ケプロンを米国より招いたのは当時開拓使次官(後に長官)であった黒田清隆である。この二人を除いては明治の北海道開拓史を語ることはできないであろう。
黒田が招聘した米人ケプロンは明治四年七月に訪日し、三年余をかけて北海道開拓青写真の基礎となった調査報告書をまとめ上げた。
明治八年三月、即ち勉三が慶応義塾でケプロンの存在を知る半年程前、日本を去っている。
若き日の勉三に決定的な影響を与えた『開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文』の外事課訳全文が世に出されたのは、明治十二年二月のことである。明治四年七月のケプロン招聘から七年半後、ケプロン離日から四年後のことである。
そもそも彼らが活躍した明治とはどのような時代であったのか。迫り来る欧米列強とロシア帝国の侵略から国を守るために、西洋に早く追いつき、早く追い越さねばならない︱それが一種の脅迫観念となって明治新政府を圧迫していた。
そこで彼らは、天皇制を徹底的に利用し、国家権力を総動員し、上から強権的に「文明開化」と「富国強兵」を推し進め、一刻も早くそれを実現させるという道を突っ走って行く。北海道開拓も例外ではなかった。それ故、北海道開発の主導力は明治政府であり、明治国家であった、と言っても過言ではない。
新政府は明治二年に「蝦夷」を「北海道」と改称させ、開拓使庁を設け、国を挙げて二つの課題を追求する。
一つは執拗に南下策を推し進めるロシア対策であり、もう一つは開拓と殖産興業を兼ねた不平士族と失業士族の移民対策であった。勿論、この二つの課題は一体不可分のものであった。
ケプロン調査団は、明治政府と黒田開拓使がそうした対策達成の為に蝦夷地︱北海道に送り込んだ最強の「調査斥候軍団」であった。
ところで、この明治新政府と開拓使庁には、蝦夷地の先住アイヌ民族二万の存在を斟酌する(先方の事情を酌む)という考えは全くなかった。
アイヌ民族もまた、寛文二年のシャクシャインを首領とする総反乱を最後に、以後は総蜂起するだけの力を失っていた。寛政元年には国後・目梨地方で反乱が起こるが、地域的反乱に止まり、松前藩の鎮圧と内部の首長の裏切りとによって、一気に敗北させられてしまう。その結果、アイヌ民族は「なす術もなく」近代日本国家︱日本民族の枠の中に組み込まれていくことになる。
(2)
黒田開拓使による本格的な北海道開拓が始まる以前、つまり江戸末期と維新初期の「蝦夷事情」について多少の説明を加えておこう。
幕末・明治史を紐解くと「蝦夷地は北門の鎖鑰」という言葉が盛んに出てくる。「錠前と鍵、出入りの要所とその守り」といった意味合いを持つこの「鎖鑰」という言葉を最初に言い出したのは尊皇攘夷を真っ先に唱えた水戸藩である。言うまでも無く対露軍事戦略に発した言葉である。既に江戸中期より蝦夷地周辺にはロシア船が出没し、幕府は不安と恐怖を覚えていたのである。
仙台藩の林子平は天明年間(明治維新を遡ること八十余年前)、長崎遊学の折にオランダ商館長フェイトから海外事情を仕入れ、『三国通覧図説』と『海国兵談』を著している。その著作で、欧米列強の「亜細亜植民地化」の野望とロシアの南下策によって、日本は危機に見舞われることになろうとの警鐘を鳴らし、日本の海岸総軍備という海防策を唱えた。
幕府はこれを「世間を惑わす危険の書」として発刊を禁じ、子平に蟄居を命じたが、その僅か四ヶ月後にロシ
ア使節ラックスマンが根室に到達し、幕府に通商を求め、幕府を仰天させる。
その後も、南下策を国是とする帝国ロシアは、「不凍港」を求めて樺太・千島・蝦夷地に出没を繰り返し、侵入を計っていた。やがてこれに英米の捕鯨船の接近が加わる。
文政七年には水戸藩常陸大津浜に英国捕鯨船が押し寄せ、船員が上陸して薪水・食糧を要求するという事件が発生する。これを機に、水戸藩の中で欧米露の侵入に対抗する攘夷論が一気に高まり、特に「北門の鎖鑰」論が声高に論じられるようになる(水戸は北方・東方に位置した故に対露が主たる関心事となっていた)。
徳川幕府もまた、ロシアの北からの侵入に怯え、間宮林蔵・近藤重蔵・松浦武四郎らに蝦夷奥地を探検調査させ、伊能忠敬に正確な地図を作らせた。
更に東北諸藩に蝦夷地を分与し、開拓と警護に当たらせ、アイヌがロシアや外国と通ずることの無いよう同化策も推し進めた。
しかし、その後も米露英仏等の外国列強の圧力は増すばかりであった。安政元年、遂に井伊大老と幕府は各国と修好条約を結び、伊豆下田と共に蝦夷地箱館開港に踏み切らざるを得なくなる。
徳川幕府支配の終末期、既にこの北辺の地における武力警備と開拓興業は緊急の課題となっていた。箱館五稜郭に立て籠もった榎本武揚ら幕府軍が唱え、勉三の師・保科近悳も注目した「蝦夷共和国」の企ても、その流れの延長線上にあった。
明治元年五月、箱館五稜郭の榎本ら最後の幕軍降伏によって戊辰戦争は終わり、ついに蝦夷地は明治新政府の支配下に置かれた。
維新直後の明治二年六月、その蝦夷地で、発足したばかりの新政府を震え上がらせる大事件が勃発する。ロシア帝国が樺太の函泊を突如占拠するという暴挙に出たのである。改めてロシア軍南下の恐怖が新政府を襲った。
明治二年八月、新政府は急遽開拓使を設置し、とりあえず初代長官に佐賀藩主鍋山閑叟を任命、一ヶ月後に東久世通禧を二代目長官に就けた。
更に蝦夷地を北海道と改称し、十一国八十六郡に区画する。その上で、この北辺の地に会津・仙台など賊軍藩士を送りこみ、開拓に従事させつつ、対露防衛の任に当たらせるとの方針を定め、その準備を急いだ。
もっとも、あまりにも急ぎ過ぎ、北辺開拓の先兵として最初に送り込まれたのは賊軍士族ではなく、食い詰めた極貧・乞食・囚人等「食い潰し」と呼ばれた半端者であった。初代長官鍋山公の片腕であった熱血判官・佐賀藩士島義勇が「開拓使を愚弄するにも程がある」と嘆いたのも無理からぬものがあった。
新政府の命で「とりあえず」開拓使の初代長官に就いた鍋島閑叟は維新前から対露防衛の最前線たる北海道に関心を抱き、家臣の島に命じて北海道を探索させていた。閑叟自らは北海道の土を踏むことなく終わったが、腹心の判官島は薩長閥の妨害に悩まされながらも、その手腕を発揮した。
島の功績は何と言っても北の府︱札幌の建設であろう。
有能な探検家であった近藤重蔵・松浦武四郎らはこぞって「石狩平野は蝦夷地第一等の要地なり」「他日札幌に府を置くならば石狩は日ならずして大阪の繁盛を得て…帝京の隆盛にも及ぶ土地とならん」と進言していた。
島は、彼らが推奨した札幌の開発に情熱を傾け、新大社札幌神宮を創営し、北海道発展の基礎を築き上げたのである。
実際、それまでの蝦夷地経営の中心地は松前・箱館にあり、到底全島全土の府たり得るものではなかった。やはり、蝦夷地の東西南北に通じ、水運の便も良い石狩平野︱札幌こそが新しい首府として絶好の地であった。
二代目長官東久世は「長州七卿落ち」で有名な七人の公家の内の一人で、大政奉還時に復権を果たした「維新功労者」であった。明治二年九月、天皇に拝謁し沙汰を受けるという栄誉に浴したこの長官は、開拓使吏員・農工民約二百名の大軍団を率い、イギリス雇船テールス号に乗船して品川を出帆、箱館に着任した。更にこの長官就任に際して一千石の賞典禄(維新賞与として与えられた給与)を支給され、本来は子爵のところ一つ上の伯爵の位を授けられたという「重要人物」であった。
この人事の中に、明治新政府がいかにこの北辺大地の防備・開拓に力を注ごうとしていたか、その決意の程が偲ばれるというものである。
(3)
明治三年五月、東久世長官の下で開拓次官の地位に就き(明治七年八月に参議兼長官に昇格)、実質上の北海道開拓事業の最高司令官となった人物︱それが黒田清隆である。
彼の出自は最北端の蝦夷地とは正反対、最南端に位置する鹿児島薩摩藩である。官軍参謀であった黒田は蝦夷地とは奇妙な縁で結ばれていた。彼は倒幕戊辰戦争最後の決戦たる箱館五稜郭戦を勝利に導いた立役者であり、そこに維新時における彼の最大の功績があった。
この黒田の評価を更に高めた有名な事件として「榎本武揚助命嘆願事件」がある。
五稜郭に立て籠もり、最後の最後まで官軍に抵抗し、黒田の軍門に下った榎本について、長州閥は断固として死罪を要求した。しかし、黒田はオランダ留学帰りの榎本の百科事典的な近代知識・技術・能力を高く買っていた。特に敵将であった榎本が、自分の所有する『万国海律全書』上下二巻(国際法を紹介したオランダ語文書)を「戦火に失われることは惜しい」と送り届けて来たことに、いたく心打たれた。
感激した黒田は、自ら頭を丸め、首に数珠を下げ、「万一榎本が死刑になるのであれば自分は僧になって世を捨てる覚悟だ」とまで唱え、助命嘆願を繰り返し、ついに彼を獄中から救い出した。
当然のことながら、榎本とその部下はこの黒田に忠誠を尽くし、北海道経営に参画し、数多くの功績をあげる。特に、明治八年五月に黒田から特命全権大使としてロシアとの交渉にあたるよう指示された榎本は、千島・樺太交換条約を締結し、みごと北辺の安定を実現させ、新政府における黒田の面目を一新させたのである。
その黒田が蝦夷地改め北海道経営の中心に座ったのは、決して彼自らが望んだことではない。今や明治新政府のトップリーダーの一人となっていた、同郷の宰相大久保利通の命であり、また失業士族対策を求める西郷隆盛の要望でもあった。
黒田自身が求めたものはあくまでも軍人としての栄達であったのだが、歴史が彼に北海道開拓の先鞭をつけることを求めたのである。
対露最前線に位置する北海道の持つ独特の地勢・地理が、武力一点張りでもなく、柔軟な外交感覚を持ち、「武と農をもって国に尽くす」ことの出来る人物を必要としていた。大久保好みの開明派思考の軍人にして、生粋の薩摩郷士(武士にして農民)の黒田こそが最良の適任者であったのだ。
黒田にとって蝦夷地の魅力は何と言ってもその広大さにあった。それが北海道に惹きつけられた最大の理由であった。未開ではあったが、いたる所に広々とした平野地が横たわり、維新の時代に相応しい新世界創出の夢を掻き立てたのである。
黒田にそんな新世界への夢を垣間見させたのは、若かりし時に蝦夷地を旅していてこの地の事情に詳しく、かつ欧米産業事情にも詳しかった榎本が展開して見せた、あの「蝦夷共和国の構想」であった。
︱ここに豊かな農地を拓き、多数の士族・人民を移住させれば、素晴らしい国土が開かれよう。これに勝る対露防衛策はあるまい。
それが黒田の思いであった。
幕末の頃、この北海道に軍事的観点からのみの防備策でなく、移民・殖産・交易という観点から雄大な開拓構想を描いた人物がもう一人いた。あの坂本竜馬である。彼はここに海援隊を送り込み、蝦夷地を対露防衛の拠点たらしめ、同時に世界に向けた一大交易拠点にしようとの夢を抱いていた。しかしその夢は寺田屋暗殺の悲劇に虚しく散る。
かつて拾い物の懐中時計横領事件に巻き込まれ、切腹させられそうになった従兄弟の山本数馬(後に西郷頼母と関わる沢辺琢磨)を密かに蝦夷地・函館に逃した時、竜馬が既にそうした夢を抱いていたかどうかは不明である。どうやら、北辺開発という竜馬の夢は海舟によって育てられたということのようだ。竜馬の夢は同じ海舟門下であった榎本の手で「蝦夷共和国」として引き継がれ、更に榎本から黒田に引き継がれたと言えなくもない。
ところで、薩摩藩士黒田が開拓次官に登用され、薩摩閥を中心に北海道開拓が進められたことは、単なる偶然の出来事ではなかった。
未開の大地北海道の開拓と近代化という大事業の本格的旗揚げとなったケプロン調査団の招請、このような大胆な北海道開発構想が打ち出された背景には、「富国強兵」を目指す明治新政府の国家意志とともに、薩摩藩内の深刻な失業士族問題と、この藩独特の「農の哲学」があった。
改めて語るまでもなく、薩摩藩の士族問題が如何に深刻であったかは、明治十年の西南戦争の勃発がすべてを物語っている。だが、「薩摩の農の哲学」については、あまり語られることがない。
幕末維新史において、薩摩藩主島津斉彬は、国を倒幕の大方向に導いた開明派大名として高く評価されているが、農についても確固たる哲学を持っていた事でも注目される。
彼の説いた農の哲学とは、「金銀を何ほど積むともこれに際限あり、また飢えを凌ぐものとならず。農はその時節を失わずに植え付ける時、年々発生して無尽蔵なり。これ土地の尊き所以なり。いかなる天災いかなる変事ありても、穀類と塩あらば日本国中飢えることなし」というものである。あくまでも封建制度下の見識であるが、まさに卓見である。
また、黒田が父とも師とも仰いだ薩摩の英雄西郷隆盛は、熱烈な愛農主義者であった。西郷は農民愛護に尽くした郷里の郡奉行迫田太次右エ門が自家の壁に刻んだ「虫よ虫よ(役人税吏よ)、五節草(稲即ち百姓)の根を絶つな、絶たばおのれも共に枯れなん」との詩を熱愛し、生涯座右に置いていたという。
こうした薩摩の「農の哲学」が黒田の開拓政策を支え、北海道の歴史を創り、新時代の扉を開いていく一つの力になったことは疑いない。勿論このことは、その「農の哲学」の実現を意味するものではない。むしろ、北海道のその後の歴史はこの「農の哲学」が裏切られていく歴史となる。しかしそれは黒田一個人の責任に帰せられるものではない。それは、明治国家が「富国強兵」(国家権力の強化拡大)を至上目的として北海道開発を進めた必然の結果であったからだ。
さて明治三年五月に開拓次官に就任した黒田は、開拓使を薩摩閥で固め、更に榎本ら蝦夷共和国時代の有能幹部を招集しつつ、「十月建議」なるものを政府に上げる。
中身は次のようなものである。
一、内政充実が急務。首府を石狩地方に置き、適任幹部に統括させる。
〔首府を札幌と定め、島義勇の都市計画を引き継いだ土佐の判官岩村通俊に命じ、北海道開拓の一大根拠地を建設、完成させた。また万能多才の榎本らの幹部を登用した〕
二、開拓費として年額百五十万両(現在の額にしておよそ四十億円)を確保する。薩摩藩の戊辰戦争功労金十万石(およそ二億七千万円)もこれに当てる。
〔実際には当面歳費は二十三万両と米一万四千石にとどまった。しかし明治四年八月、新政府は五年より始まる開拓使十ヶ年事業計画費として定額一千万円(現代の額にしておよそ三百億円)を計上した〕
三、「風土適当の国」から「開拓に長ずる者」を雇い、あらゆる面から開拓・開発のための調査を行い、開発青写真を創る。
〔明治四年七月、米国農務長官ケプロンを団長とする一大調査団を招請する〕
四、華族・藩主、失業士族らを開拓者として積極的に移住させる。
〔華族の移住、尾張徳川家・伊達藩などの士族移住に便宜を与え、屯田兵制度を創設した〕
五、海外に留学生を派遣し、外国事情を学ばせ、教育の充実を図る。
〔津田梅らの留学生派遣、クラーク博士らの招請と札幌農学校開校、農業現術生制度(開拓使が創設した北地農業の現術︱実際的技術―を学ぶ生徒育成制度)による技術普及等を実現させた〕
以上がその骨子である。カッコ内はその後実行された事柄である。
明治四年一月、この黒田の「十月建議」は新政府の受け入れるところとなり、直ちに彼は米国視察の旅に出発する。この視察の最大の目的こそ米国で開拓使顧問を、それも大物顧問を雇い入れることにあった。
明治四年に廃藩置県を断行し、旧い士族制度を解体した明治政府は、その年の十一月から明治六年夏にかけて、百万円(現代の額にしておよそ三十億円余)という巨額な旅費を計上し、岩倉具視を全権大使とする大久保・木戸・伊藤ら政府要人四十八名からなる大使節団を欧米に送り、徹底的な視察を敢行する。
とにかくなりふり構わず、欧米化と近代文明国家の創設を目指す。そのために鹿鳴館を開き、大量の欧米人顧問を雇い、欧米の先進的技術・制度を学び、死に物狂いで殖産興業・富国強兵を図っていく。これこそが国是であった。
明治四年一月の黒田訪米と開拓使顧問ホーレス・ケプロンの招請︱これもまたその一環であった。
(4)
では、黒田が招請した米国人ホーレス・ケプロンとは如何なる人物であったのか。
ケプロンは、黒田訪問時、六十七歳の現役の米国農務長官であった。この米農務長官ケプロンを黒田に推薦したのは、同じ薩摩出身で駐米公使を務めていた森有礼である。薩摩閥はどこにあっても黒田開拓使を全面的に支え、バックアップを惜しまなかった。
ケプロンはマサチューセッツ州生まれで、軍人になるべくウエストポイント士官学校を卒業している。が、家業を継ぐべく帰郷し、実家の綿織物工場を手伝う。四十八歳の時に軍務に就く。テキサス州アラモ砦付近のインディアン保護区に入り、熱心な説得によりインディアン各部族の和解を実現させている。その後、西部勤務の経験を生かし、シカゴ北部を拓いて牧場・農場を経営。五十八歳の時南北戦争が勃発、彼は大佐として再び従軍、北軍勝利に貢献した。戦後、その功績と経歴を買われ、大統領グラントにより農務長官のポストに招かれた。
こうしたケプロンの経歴は、何処か黒田と似通った所がある。
黒田の熱心な誘い、国内官僚トップの太政大臣をも上回る年棒一万ドルの高給待遇は遂に大統領グラントとケプロンの心を動かした。ケプロンは米国農務長官の職を辞し、日本の開拓使顧問となって訪日の途に着いた。明治四年七月のことである。
天皇自らがケプロンと米人顧問を引見し、激励を与え、開拓の成功を期している。北の羆ロシアを迎え撃つ「北門の鎖鑰」の地北海道の開拓は、日本の命運を握る一大事業として位置づけられていたのである。
ケプロンは、帰国する明治八年五月までの四年間に、三度北海道を訪れ、長期間滞在している。アンセチル、ワーフィールド、エルドリッジ、ライマン等の米人顧問に日本人技術者を含めた調査団を組織させ、北海道の全面的な基礎調査を実施させた。
この時彼らの手で初めて行なわれた基礎調査が、以後の北海道開発開拓の礎となっていったのである。
ケプロンと米国人顧問が行なった調査と提言は、実に多岐にわたっている。地形・地質・鉱山の調査と測量、道路・運河・航路・鉄道の開削と敷設計画、村落・市街の区画、農業・牧畜・漁業・鉱業の振興計画立案と実行、民間資本や外資導入案、外国人技術者の導入と雇用、移民法の制定、生活文化の改良にまで及んだ。
もっともこれらはあくまで提言であって、彼らに決定権は何一つ与えられていない。
農業面でケプロンが提言したことは、畑作・牧畜・酪農を中心とした洋式農法の導入である。同時に、農林水産物の加工・生産、自給と輸出を目指す道内工業の振興、強制によらず自ら開拓を志願する独立自営民の移住等々が提言された。
米作については「不適作物」としてこれを否定し、麦作・牧畜、パン食・洋食を薦めている。米作が「不適」とされたのは、北海道が寒冷地故に米作に不向きと断定されたこともあるが、アメリカ西部人の目には米作があまりにも非効率的農作と映ったからであった。
また、当時空き地の多かった東京青山の一角に大規模な農業試験場「官園」を設けた。ここで外国から移入した農具・種苗・家畜を試験し、その上で良好成績を収めたものを北海道の七重試験場に移し、道内各地から集めた農業現術生制度を通じてその普及を計った。
更にケプロンは札幌農学校を設立させ、明治九年には札幌農学校教頭として米国からクラーク博士を招き、農業の専門的な指導者と技術者の育成を図った。そのクラークは僅か八ヶ月だけの滞在であったが、「モデルバーン」(モデル畜舎)を建て、農学校の生徒にキリスト教信仰と聖書の教えを伝え、北海道開拓事業に大きな影響を与えた。それだけではない。ケプロンの提言で、米国人中心に七十八人もの外国人が雇われ、西洋式農業の技術指導と普及が進められた。
その結果、米国から北の大地に次々と「西洋式農業」が導入され、実験に供され、改良され、定着して行く。
大麦・小麦・燕麦・とうもろこし・馬鈴薯・ビート・亜麻、林檎・西洋梨・葡萄・苺等の果樹、牧草のクローバー・チモシーなどの農作物。トロッター種の農耕馬・乗用馬、役肉兼用・乳肉兼用のハイグレード牛、酪農用のエアシャー種牛、豚、綿羊などの家畜。プラオ、ハロー、サイロ、畜舎など種々の洋式農機具や農業施設。
まさに、これらこそ勉三がかつて留学してまで学ばんとした「西洋式農業」そのものであった。
「ケプロンレポート」︱この膨大な報告書こそ、現代の北海道のみならず日本農業と各種産業を今日あらしめている青写真そのものであった。
(5)
明治三年五月、新しく開拓使の任に就いた黒田次官に急がれたのは、執拗に南下策を推し進めるロシアとの和平交渉であった。
当時の政府には、維新後の混乱する社会状況の安定を図る〝時〟が、ぜひとも必要だったのである。
当初、函泊占拠事件を契機に新政府の内部に、対露強硬派と和平派との対立が生まれていた。しかし、最後は「リアリスト」の薩閥参議大久保利通の「今の日本に外国ロシアと争うだけの余裕などない」という和平論が西郷らの対露強硬論を抑えた。
黒田は対露強硬派の西郷を父と慕いつつも、リアリスト大久保と同じ和平交渉派に属し、大久保の意を受けて蝦夷地に赴いたのである。
大久保の命を受けた黒田は、全権大使として腹心の榎本をロシアに送りこみ、明治八年十一月に「樺太・千島交換条約」を締結し、とりあえずではあったが「北辺の安定」を実現させた。
︱しかしいずれはロシアと対決を余儀なくされる時が必ず来る。それまでに何としても「富国強兵の北海道及び日本国」を築きあげねばならぬ。
明治新政府の切実な要求であり、国家意思であり、国是であった。
さて、新政府が黒田開拓使に課した最大の使命は「北辺の安定」と「開拓興業・富国強兵」であったが、新政府はその切り札として「士族移民」を考えていた。
政府中枢は、ケプロン調査団による開発青写真の作成と平行させて、その裏で、もう一つの大問題︱開拓担い手の問題、実は失業士族問題の解決を目指していた。
明治新政府にとって、失業士族処遇問題は、まことに厄介で、危険で、しかし何としても解決を図らねばならない難問であった。維新後、各地には不平不満を抱えた大量の敗残士族や失業士族が残留し、新政権を脅かしていた。この問題の処理を誤れば彼らの不満が爆発し、たちまち国内は乱れ、外国の介入を招き、欧米露の属国にされかねなかった。まさに「一家不和を生ずれば一家滅亡す。一国不和を生ずればその国滅びるべし」(海舟)であった。
事実、明治六年の征韓論争でも「士族派遣問題」が持ち出され、これをきっかけとして士族の不満・反抗が高まり、明治七年二月には江藤新平らの佐賀の乱が、明治九年十月には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・思案橋事件が、明治十年には西郷隆盛らの西南戦争が勃発し、新政府を恐怖せしめたのである。
そうした中で、財政の乏しい新政府にとって、北海道への「士族移民」こそ、内政と外交の危機を乗り切る一石二鳥、一石三鳥ともいえる妙策であったのだ。
彼らは北辺を守る戦力となり、同時に大地を開く拓力・農力となる。しかも彼らを移住させ、この職に就かせることによってその苦しい暮らし向きを解決させ、更に士族としての誇りも満足させられる。これによって、彼らの不平不満を一掃させ、失業生活苦を一気に救済することが出来る、というわけである。まさに一石三鳥の策である。万難を排してこれを実現させる必要があった。
最初に強制移住させられた移民は「朝敵賊軍」となった諸藩の士族であった。特に会津藩と仙台藩の藩士たちがその対象となった。
まずは会津藩である。二十三万石は僅か三万石に減ぜられ、風雪厳しい不毛の台地の斗南藩(現在の三戸、上北、下北の三郡と岩手県の一部)及び北海道分領地の胆振・後志等四郡への移封が決まった。苛酷困窮を極めた斗南暮らしに絶望し、北海道へと移住して行く者も少なくなかった。
会津藩の場合は、斗南移封以前に、「会津降伏人」と称せられた謹慎二百戸・七百名の藩士が、兵部省管轄の下、北の防備を兼ねて蝦夷地の後志郡余市の原野開拓に送り込まれている。「会津降伏人」と謗られた藩士たちは屈辱に耐え、不屈の闘志を燃やし、開拓次官黒田がアメリカから持ち帰って来た林檎苗木の栽培に挑み、苦闘の末、遂に名果「緋の衣」を作り出し、余市地方を今日に及ぶ林檎の名産地に仕立て上げた。
因みにこの「緋の衣」の名は、孝明天皇によって会津藩主松平容保に与えられた「緋の御衣」と、戊辰戦争降
伏式場に敷かれた「緋毛氈」という、会津藩士にとっては明暗入り交じる二つの忘れ難い記憶に基づいている。当時「会津降伏人」と呼ばれた藩士たちの、意地と誇りが籠もった命名ではあった。
仙台藩はどうであったか。六十二万石が二十八万石に減封されたため、無禄の百姓として地元に残るか、政府が勧める北海道開拓に従事するか、その選択を迫られた。「藩の誇り」「士族の誇り」を選んだ彼らは続々と北海道への移住を決める。
亘理領の藩主伊達邦成・家老田村顕充らの主従は有珠郡へ、角田領の石川邦光家臣団は室蘭郡へ、白石領の片倉邦憲主従は幌別・札幌郡へ、岩出山領の伊達邦直主従は石狩郡へ︱。彼らは「士族の誇り」を胸に秘め、それぞれ「主従一体・家族一体」となって開拓開墾を進めた。
洲本城代稲田邦植主従のように、戊辰戦争では本藩で
ある徳島藩に抗って官軍を支えたというのに、政治力の不足から、不本意にも北海道静内郡への移住を命ぜられ
た例もある。船山馨氏の力作『お登勢』には、この間の事情と、稲田開拓団が直面した過酷な現実とが見事に描かれている。
結局、このような「朝敵賊軍藩」からの士族移民はおよそ千七百戸・六千三百余人に及び、初期北海道開拓に大きな役割を果たした。
「士族移民」の第二波は明治十年代にやって来る。
明治四年七月に断行された廃藩置県、明治六年一月の徴兵令布告、明治九年八月の秩禄処分(士族に与えられていた家禄の廃止)︱これらの施策によって大量の失業士族が生まれたことによる。
そこで政府と開拓使が打ち出した策が「大地積払い下げ」「移住士族取扱規則」の発令であった。
具体的には、一つは旧藩主諸侯・華族を総動員した士族授産︱開拓事業の推進であり、もう一つは軍事かつ開拓目的の就業「屯田兵制度」の推進であった。
これにより、旧尾張藩の徳川家臣団は山越郡(現八雲)に、旧長州藩の毛利家臣団は余市郡(現仁木)に、旧佐
賀肥前藩の鍋山家臣団は石狩郡(現当別)に、旧加賀藩
の前田家臣団は岩内郡(現共和)に、旧鳥取藩士族は釧
路に、それぞれ大地積を得て入殖する。これ以外にも開進社・赤心社等々、幾つかの旧藩主後援の士族開拓団が各地に続々と入殖を果たしている。
もう一つの就業制度たる「屯田兵」は、明治六年十一月の黒田の建言によってその創設が決まっていた。
明治八年五月、最初の屯田兵︱百九十八戸・九百六十五人が札幌郡(現琴似)に入殖している。勿論、会津・仙台からも多くの藩士がこれに動員された。
以後、明治二十三年までの間に、山鼻・発寒・江別・
篠津・野幌の各所に設置され、総兵員はおよそ二千九百戸・一万四千人に及び、開墾総面積は四千町歩あまりに達する。
琴似・山鼻の屯田兵団は明治十年の西南の役に駆り出されたが、これに属していた会津・仙台の元藩士らは「賊軍の汚名を晴らさん」と必死に戦い、数々の戦果を挙げ、十二分に新政府の「期待」に応えた。
明治政府が北海道開拓に投入したもう一つの貴重な人力集団︱集治監と囚人労働が登場するのはもう少し後のことである。
ここで一つだけ付言しておこう。黒田開拓使時代の北海道産業の主役は、農業ではなく、依然として鰊・鮭・昆布を主産物とする漁業だった。
長期にわたって、北海道の水産物総生産額が産業総生産額の九〇%以上を占めていた。北海道の国税収入は、その八〇%以上を水産税に負っていたのである。
特に、道内各地では大量の鰊が水揚げされ、それが肥料搾粕に加工されて内地に送り込まれ、莫大な収益を生
み出し、いたる所に「鰊御殿」を出現させていた。明治十五年頃、水産物収入の七〇%近くはこの搾粕からの収益であったという。
この明治十五年頃の道内の漁業者数は総人口二十四万余の内僅か二万余(兼業を含めて)に過ぎなかったが、その十倍もの出稼ぎ漁民が青森・秋田地方から押し寄せていた。
北海道が「漁業大国」から「農業大国」に転換していくのは、明治二十八年頃︱日清戦争以後のことである。
(6)
日本を代表する馬産地日高の歴史についても触れておきたい。
日高の新冠辺りに、広大な官営馬牧場を開いたのは開拓次官黒田である。明治五年九月、ケプロン訪日の翌年のことだ。
ケプロンは最初の調査で北海道が畑作・牧畜に適した土地柄であることをすぐに見抜き、黒田に進言した。
部下の北垣国道らに調べさせたところ、昔から日高一帯では放牧が盛んに行なわれていることが判り、しかもこの辺りは温暖で雪が少なく、馬の飼料となるミヤコザサがいたる所に繁茂していることが判明した。江戸時代からこの辺りは馬産地として最適と見られていた。
日高には、既に文化六年頃(維新を遡ること五十九年前)南部駒が三十頭ほど送り込まれている。通行所(後
の駅逓)と商場が置かれた時、幕府・松前藩は荷送馬として南部馬を入れた。他にも、内地から漁を求めてやって来る連中が網や荷を引く馬を何頭も連れて来ていた。
寛政の頃、幕府は胆振地方に南部馬を入れて飼育生産に力を入れている。しかし、安政四年(維新を遡る十一年前)には日高国浦河辺りが最適地と見たえらしく、ここに分牧場を設けた。その馬数は七十頭を数えた。勿論用途は駅馬であり、荷送馬であり、引き馬であった。
忙しい夏場が終わると、馬は野に放たれ、放し飼いにされるのが普通であった。そのためか、南部馬は次第に小型化して「道産子」と呼ばれる独特の馬に進化していった。
しかし、放し飼いの最中に野生馬と化した馬も少なくなく、幕末頃には四、五百頭の野生馬が群れをなして山野を走り回っていたという。
明治三年、開拓使によって浦河分牧場が閉鎖された際にも、民間人家に払い下げられた馬もあったが、多くの馬が野に放置されたままとなった。
明治四年に日高静内一帯に入殖して来た稲田藩の開拓団はこの野生化した道産子にしばしば開墾地を襲われ、多大な被害を被っている。小説『お登勢』には北海道の原野を荒々しく疾駆し、開墾地を荒す野生馬の群れがしばしば登場する。
開拓次官黒田は日高の馬産に関する調査報告を受けると、直ちに「新しい馬牧場」の開設を命じた。目的は馬種を改良し、逞しい農耕馬・輸送馬・軍馬を量産することにあった。「北海道をして富国強兵の拠点たらしめん」、そう考える黒田にとっては当然の決断であった。
明治五年秋から翌年にかけて、黒田と開拓使は静内・新冠・沙流郡に跨る七万町歩の牧場地を選定。そこを柵で囲み、まず日高各地に散在していた道産子二千二百六十二頭をここに追い込んだ。その一方で、アメリカから種牡馬「流星号」を輸入し、七重官園で馬種改良の実験
を始めている。
この官立牧場の馬産経営に寄与し、見事成功させた人物こそ傑出した畜産牧畜指導者エドウィン・ダンである。
彼はケプロンがわざわざアメリカ西部から呼び寄せた男で、ダンの指導下、道産子の馬種改良は抜群の進歩を見せた。
勉三が訪れた頃には、ケプロンが指摘した通りこの地方は極めて有望な牧場地として発展の最中にあり、既に千頭もの改良馬が飼育され、高値で売りに出されていた。
残念ながら勉三はダンに直接会うことは出来なかった。ダンは既に札幌方面に移り、酪農畜産の普及に力を入れていた。
ダンは日本人娘と結婚し、明治九年五月から明治十五年十二月まで札幌に住み、札幌農学校の教師を務め、「百芸の師」「北海道牧畜の父」として大車輪の活躍を繰り広げていた。彼は他の外国人教師と違い、学者ではなく、何よりも「現場の指導者」であった。やや気位の高いところがあったケプロンとは肌が合わず「ケプロン氏は立派な紳士ではあったが、大事業の計画経営者や統率者としては相応くなかった」とやや批判的であった。
初めて新冠牧場に入ったダンを驚かせたのは、初年度に生まれた子馬九十頭がことごとく蝦夷狼に食い殺されていたことである。ダンは毒殺用のストリキニーネを東京・横浜から取り寄せ、不足分は更にサンフランシスコからも取り寄せ、数年間で蝦夷狼を一気に絶滅させている。如何にも「アメリカ西部の男」であった。
そのダンが北海道で特に力を入れたのは馬の生産ではなく、乳牛牧畜と酪農であった。
ケプロンはアメリカ西部の牧畜農に倣って肉牛畜産を推していたが、二年後の明治六年七月、乳牛二十三頭・綿羊八十八頭を引き連れて日本にやって来たダンは、日本の風土に合う畜産として乳牛・酪農を推奨した。ケプロンとの行き違いはこの辺りにもあった。
ダンは、明治十年七月には開拓使の真駒内牧牛場の設計・指導に当たり、畜牛・酪農の開拓開発に乗り出している。この年の八月に上野で開かれた第一回内国勧業博覧会に、早くも粉乳・乳油・乾酪を試作出品し、褒章を受けている。
今日の北海道牧牛・酪農の礎を築いたのは間違いなくダンである。勉三は入殖後もダンと顔を合わせることはなかったが、内田瀞らを通じてダンの牧牛・酪農経営法を学ぶことになる。
さて、黒田開拓使の時代は十ヶ年計画が終わる明治十四年末、嵐のように吹き荒れた「官有物払い下げ事件」の渦中でその幕を下ろす。
その明治十四年こそ勉三が最初に渡北し、十勝野への入殖を決めた年であった。未だ士族移民が主流であった明治半ば頃、晩成社のような平民・農民主導の開拓団の入殖は例外中の例外であった。しかも、この晩成社は「ケプロンレポート」に導かれて誕生し、晩成社幹部はこの「レポート」を持って入殖し、これを導きにし、そこに流れるフロンティア精神を我がものとし、困難を極めた開拓に取り組んでいったのである。
いずれにせよ「ケプロンレポート」こそが「農として祖国と人民に尽くそう」との決意を固めていた勉三をして十勝野開拓という夢とロマンに駆り立てた原点であり、彼を導いた重要な行路図、道標であった。
「ケプロンレポート」︱それは必ずしも日本という国の実情に百パーセント適応していたわけではない。しかしそこには、確かに「この国に新しい農の世界を築き上げよう」とする壮大な夢があった。北の大地に豊かな新しい農の国を築かんとする熱情とロマンがあった。
道史Ⅱ 中山久蔵と寒地米作
(1)
寒地北海道において、初めて本格的な米作りの扉を開いた人物こそ、中山久蔵その人である。
ケプロンは強く「北海道稲作不適論」を主張し、「雪の下にパンがある」と述べ、欧米農法に基づく畑作・牧畜を推奨した。気候の問題もあったが、日本人の行なう稲作は手間暇がかかり過ぎ、あまりにも経済効率が悪いとしか思えなかったのである。
黒田と開拓使もこのケプロンの進言を受け入れ、初期には稲作禁止を強く唱え、屯田兵団に対しては稲作禁止令まで出している。更に役人・官吏に対しても洋食をしきりに勧めた。札幌農学校の食事なども完全にパン・肉・乳製品を使った洋食であった。当然、稲作を試みんとした農民・移住者に対する開拓使の態度は極めて冷たいものであった。
こうしたケプロンと開拓使の稲作否定論に真っ向から異を唱え、寒地稲作に敢然と挑戦した人物こそ中山久蔵である。
この稲作禁止の方針は明治二十五年まで続き、北垣国道道庁長官の時代、財政部長酒匂常明の手によって遂に
破棄される。中山久蔵と寒地稲作推進派の完全な勝利であった。
久蔵は、文政十一年三月(維新の三十九年前)に河内
国石川郡春日村(現大阪府南河内郡太子町春日)で代々農を営む旧家に生まれた。勉三生誕の二十五年前である。
次男坊であった久蔵は、十七歳の時、親の許しを得ずに家を飛び出し、江戸、大坂、そして諸国放浪の旅に出る。久蔵が物心ついた頃、すなわち徳川幕藩体制終期の天保年間は、相次ぐ飢饉、農民や町民の強訴、打ち壊し、一揆が頻発していた。南河内にも、大坂城下で大塩平八郎らが乱を起こし大変な騒動になっているとの噂が伝わって来た。時代は激動の到来を予感させていた。
好奇心旺盛で生来進取の精神に富んでいた少年久蔵は、次男という気安さもあり、「己がなすべき何かがあるはず」と、故郷を飛び出した。そして、幕末の嘉永六年三月、放浪から何も得られないままに、東北仙台の地に流れ着く。時に二十五歳。仙台藩は松前、つまり蝦夷地にロシアの侵攻に備えた陣屋を造るべく、人集めをしている最中であった。
蝦夷地︱未知のこの大地が久蔵の挑戦心を掻き立てた。二十六歳になっていた久蔵は仙台藩士・片倉氏の配下に入り、蝦夷地警護の拠点たる白老陣屋作りに参画する。白老と仙台の間を行ったり来たりしながら、時には戦闘訓練に励み、時には耕作を手伝い、時には山野に入って狩猟採取に走り回った。久蔵はこの十数年の間に、蝦夷地に関する知見を深めていく。
久蔵が戊辰戦争︱明治維新を経験したのは四十一歳の時のことである。仙台藩は賊軍の汚名を浴び、領地は大幅に削減され、伊達藩と支藩の主従の多くは、蝦夷地改め北海道となった新天地へ、次々と移住して行った。
久蔵は片倉家の意向もあり、一時徳川幕臣の集う静岡に下った。仙台の地でも新政府の援助の下に茶・綿・藍などの商品作物生産が試みられていて、これらの事業に先んじている静岡に赴き、必要な知識・技術を習得して来いとの主命であった。が、久蔵がそこで見たものは、今や完全に尾羽打ち枯らした徳川家と幕臣たちのみじめな姿であった。
︱今や士農工商という身分制に縛られた堅苦しい時代は完全に終わったのだ。農民・平民自らが事を興し、世に出て行くことの出来る新しい時代が始まったのだ!
久蔵は、新時代の到来に心躍らせ、僅か数ヶ月滞在しただけで静岡から再び仙台に戻った。
そして明治二年四月、久蔵は自らも北海道に渡り、起業せんとの決意を固める。齢四十二歳の時である。
︱余す命もあと僅かだ。北海道移住の志願をどうして貫かないでおれようか!
彼は断然旧主片倉氏の元を去り、自らの夢を抱き、再び蝦夷地に乗り込んで行った。
時に季節は酷寒の十二月︱寒風吹き荒ぶ厳冬の真っ只中であった。しかし、それを意に介さないほど久蔵の意気は高く、熱く燃え盛っていた。
(2)
久蔵は翌明治三年春、籍を苫小牧に移し、いよいよ開墾に着手する。農地開拓こそ彼が定めた一生の志願であった。が、苫小牧の地は厚い火山灰に覆われていて、農地に適さないことがすぐに判った。そこで、翌四年には後事を養子に託し、僅かの食糧と塩と農具を抱き、新たな開墾適地を求め、目の前に広がる山林原野に踏み込んで行った。彼にとって、大した財産も残さずに若い養子に後を頼むのは実に辛いことではあった。
︱しかし、農地開拓・北地起業の願いは何としてもやり遂げたい。この起業がどれほどの難事であるかはよく判っている。幾多の艱難辛苦と失敗挫折が待っているだろう。しかし、この農地開拓と北地起業こそ、この久蔵が追い求めて来た「なすべき何か」なのだ。私欲の為ではない、日本の農のため、日本の国の為なのだ。
久蔵は、剛毅不屈の心をもってこの一大事に狂奔する決意だった。
「我がままを許して欲しい」
久蔵は涙を流さんばかりにして若い養子に訴え、頭を下げ、苫小牧を出た。
明治四年三月、彼は遂に苫小牧からやや北に入った千歳郡月寒村島松に適地を発見する。付近にあった空き小屋を買い入れ、村から開拓地所の割り渡しを受けると直ちに開墾に着手し、その年に独力で六千坪を拓いた。
この年の四月、開拓使本庁が札幌に移されたとの報せが届き、久蔵を奮起させた。
︱明治政府はいよいよ本腰を入れて北海道開発に乗り出したか。これによって、北海道が日本一の大農地として拓かれて行く端緒が開かれた。すべてはこれからだ!
彼は発奮せずにはおられなかった。
明治四年四月に新戸籍法が制定された。翌年の明治五年新春︱久蔵は「中山」を自らの姓に定めた。ふと口にした「寂々たる山中に唯久蔵の茅屋(あばら家)在るのみ」に因み、最初は「山中」に決めていた。しかし、久蔵は持ち前のユーモアを発揮し、今は「山の中」でも、いずれここが稲作の「中心」になるのだからと「山中」ではなく「中山」を名乗ることにした。久蔵はこの時、既におのれの最大の志願を寒地稲作の完成、その普及に決していたのである。
明治四年夏も終わりの頃︱米国からやって来た開拓使顧問ケプロンが「北海道稲作不適論」を唱え、「畑作・牧畜中心の洋式農法論」を鼓吹しているとの話が久蔵の耳に届いて来た。何と開拓使の役人までもがこれに同調し、「経済的に見合うような米の収穫はとても望めない」「稲作は金と労力の無駄遣いだ」と主張しているという。久蔵は、思わず、「そんな馬鹿な。亀田大野村では見事に稲が稔っているではないか!」と、激怒の声を発した。「日本の百姓を馬鹿にするでないぞ!」そんな思いと怒りが、久蔵の肺腑を貫いた。
江戸期の蝦夷地米作り発祥については寛文年間(一六六一年~一六七二年)、貞享二年(一六八五年)、元禄五年(一六九二年)の三つの記録がある。その中の一つ、元禄五年の「松島志」にはこうある。
「押上(現大野町文月)のこの地に元禄五年、農民作右
衛門なる者が南部の野田村から移って来て、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓き、四百五十坪を開田し、道米十俵を収穫した」と。
その後、この作右衛門の水田は二、三年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、立ち消えになっている。
それから百十六年後の文化二年の夏には、箱館奉行が新田百四十町歩に及ぶ大規模な水田開発を行なったが、これも長くは続かなかった。
それから更に四十数年後の嘉永三年(維新の十八年前)、大野村の高田父子が苦心の末、米の収穫に成功、近隣の村々にも広がりを見せ始めた。
久蔵が白老の陣屋に出入りしていた安政元年(維新の十四年前)頃には、大野村の米作りはようやく安定作物になろうとしており、幕末期にも営々と米作りが行なわれていた。
蝦夷地の米作り発祥については、ここ大野村以外にも、元禄年間に伝長坊と佐藤信景一門が奥地の厚岸・上阿寒
地方で稲の試作に成功したとの言い伝えがある。また安政年間には福島県白川の人早山清太郎が札幌チネプセ川畔(現琴似付近)に水田を開き、ここで初めて収穫した石狩米を将軍家に献上したとの記録がある。また幕府は岩内場所幌似(現共和町)の御手作場(開拓試験所)に越後の人松川弁之助を送り、米麦の試作を行ったとの記録が見られる。更に、安政六年にはフレナイ場所(現洞爺湖・虻田町辺り)でも和田茂兵衛らが稲作を試み、三十俵の収穫があったとの記録もある。
もっとも、早山清太郎の石狩水田は慶應元年の大洪水に阻まれ、やむなく翌年に中止されている。幌似水田もまた文久二年に樺太開拓に失敗した松川が郷里に引き上げると共に中絶してしまい、フレナイ場所の稲作は試作段階に終わった。
江戸時代のかなり早い時期から函館・胆振・石狩の各地で稲作が試みられていたことは間違いのない事実である。が、明治に至ってもなお水田らしい水田を拓き、米作りらしい米作りを敢行していたのは、久蔵が目を付けた大野村だけであった(と言ってよさそうである)。しかし、その大野村の米作はあくまで比較的暖かいこの地域だけに限定されていて、寒地米作というにはあまりにも特殊で小規模に過ぎた。
さて明治六年春︱久蔵はいよいよ「宿昔ノ志」(前々から持っていた志)たる寒地米作りとその普及という一大事業に着手すべき時が来たことを知る。今や、自分の家計を支えるに十分なだけの農作が可能になっていたのだ。
明治六年六月、彼は渡島国亀田郡大野村から種籾「赤毛」を購入し、島松(現北広島市)の我が水田にその種を播いた。
この島松はさすがに久蔵が選んだ土地だけのことはあった。ここの地形は東南方面に開けていて、北には山陵が屏風のように立ち、気候温暖にして雨量が適度に加わり、その上水利の便も良く、稲作には恰好の地であった。
しかし、困難は山ほどあった。特に問題は冷たい水であった。昼は水路を九十九折にくねらせて出来るだけ長く
し、太陽熱をたっぷり当てて温水を作ることが出来た。が、夜間はそうはいかない。そこで彼は風呂を田の真ん中に持ち込み、風呂で沸かしたお湯を苗代や水田に流した。気が付くと夜が白み始めていることが何度もあった。
そうした血の滲むような努力の結果、明治六年の生育・結実は共に良好で、収穫一反歩当たり二石三斗の好結果が得られた。とは言え、翌年は天候不順でたちまち収穫が減ってしまった。寒地稲作を北海道各地に普及させんとの大志を抱く久蔵の闘いはここからであった。
何としても寒地に強い種籾を作り出さねばならなかった。毎年毎年、秋に実った稲の中から良い種籾を厳選し、また翌年それを播き、また実った稲の中から良い種を厳選して行く、その繰り返しの闘いであった。こうして彼は「赤毛」種を改良し、遂に新たな「中山種」を作り出した。明治十年頃のことである。
久蔵はこの新種を欲しがる者には無料で配り、寒地稲作の普及に取り組んでいった。
彼は果樹の品種改良でも同じことを行い、北海道の地に適した葡萄、林檎、桃などの果樹種の開発を次々と成功させていく。
かくの如く、中山久蔵は「奉仕の精神」と「開拓者精神」に富んだ傑物であった。
(3)
一風変わったところのある久蔵をよく理解し、支援し、激励したのは開拓使大判官松本十郎である。
十郎は維新で賊軍となった庄内藩(現山形県庄内地方)の重臣戸田家の長子に生まれている。文久三年には父に従って蝦夷地警備士として浜益・苫前等に赴任したことがあった。明治に入ると、会津藩と並ぶ佐幕派の双壁と言われた庄内藩は「朝敵賊軍」とされ、大変な苦境に陥る。彼は松本十郎と名を変え、東京に赴き、藩の恩赦を求めて政界工作に奔走した。その誠実無比の仕事振りが黒田清隆の目に留まり、賊軍庄内藩の出自ながら明治二年に北海道開拓使判官に、同六年には大判官に任ぜられ、初期の開拓行政に功積を上げたのである。
賊軍藩士として苦労を重ねて来た十郎は、アイヌや下積み者など虐げられた者に対し厚い同情心を持って接し、彼らから深い信頼を得ていた。アイヌと同じオヒョウ(楡)の繊維で作られた服を好んで身に着けたところから「アツシ判官」と呼ばれた人物である。
樺太処理問題で一貫してアイヌの立場を擁護した十郎は、黒田の苛酷な樺太アイヌの待遇を厳しく批判。明治九年七月に官を辞して鶴岡に帰り、晴耕雨読の生活を楽しみ、その生涯を終えている。
十郎は久蔵の人柄と人物が大いに気に入ったらしく、暇が出来ると、夜中でも島松を訪れ、酒を酌み交わしながら夜を徹しての将来について語り明かした。まさに二人は肝胆相照らす仲であった。
十郎が久蔵に好感を抱いた切っ掛けは、官庁が模範開拓民に奨励金を下賜すると言うのに対し、「自力自助の精神が無くなり、初志が貫ぬかれなくなることを恐れるから」と、これを断ったことがあったからである。後に久蔵は数多の下賜金を快く受け取っているが、それは全て寒地稲作普及のためのものであって、私腹を肥やす為ではない。久蔵の子孫が「爺さんは人のために一生懸命尽くした立派な人だったが、子孫の為には何も財産を残していない」と語ったというが、いかにも久蔵である。
十郎は、久蔵が寒地稲作の志ある者には収穫した種籾を無料で配布し、懇切丁寧に指導していることを知ってますますこの男が気に入り、彼を生涯の友とした。
明治九年夏、別れの時、十郎と久蔵の二人は名残を惜しんで何度も何度も手を握り合った。
久蔵は、十郎を容れずに放逐する開拓使の仕打ちに悲憤慷慨し、「天に誓って、必ず寒地水田普及の事業を成し遂げて見せる」と固く誓い、十郎を泣かせた。
五部 移住篇
第十七章 故郷出立
(1)
明治十六(一八八三)年三月十四日朝早く︱
三余の妻ミヨと勉三は、二人して三余の墓前に額ずいていた。この日の夜、大沢村の依田家では一族郷友が参加した盛大な壮行の宴が張られることになっている。それで、勉三は朝早くにミヨを誘い、三余の墓参りに出掛けたのである。
土屋家三余の墓所は家近くの建久寺の裏手にあった。小さく、平凡な墓石には「三余之墓」とのみ彫られ、祖先の墓石群に並んでひっそりと建っている。本人の遺志に基づいて作られたその墓石の質素な佇まいが、いかにも三余の人柄を偲ばせる。ミヨは、勉三と共にその墓前に手を合わせ、嬉し涙に声を詰まらせた。
「勉三さんはね、〝果たすべき使命がある〟という形見の言葉を片時も忘れず、いよいよ貴方の願いを背負って旅立って行くのですよ。そうそう、準次も土屋家を代表して晩成社の株主に名前を連ねていますからね。きっと、勉三さんと一緒に貴方の魂も海を越えて北の大地に赴き、鍬を振り鋤を打つことになるのでしょう。どうか、苦しい時、辛い時、いつも勉三さんの傍に居て励ましてあげて下さいね」
勉三に三余の言葉を伝えたあの日から、早十三年が経っている。六十三歳を越えたミヨの鬢もすっかり白くなっていた。勉三もまた、心の中で師にこう伝えた。
「先生、今日はお別れに参りました。私は墳墓の地を十勝野と決しました。私は十勝野の土塊となります。北の大地の農となって力を尽くし、十勝野を世に出す︱それが祖国と日本の人民に対する私の果たすべき使命と心得ます。どうか天より私を厳しく叱咤激励し続けて下さい」と。
墓参を終えた勉三は奇妙な感覚を味わっていた。それはあたかも自分自身が十勝野そのものに変身変貌を遂げたかのような感覚であった。もはや大沢村も三余塾も己もなく、全てが十勝野の大地に溶解していた。
この日夕方から夜中まで続いた壮行の宴は、村始まって以来というほどに盛んなものであった。勉三と開拓団に対する佐二平ら一族の熱い期待がそこに墳出していた。
この夜の宴の圧巻は、何と言っても勝と勉三と佐二平三人がそれぞれ行なった吟唱であった。宴もたけなわになり、まず勝が剣を振るい、謡い、踊った。
「獅を斬り鷲を倒す、何の難きかあらん。北地の張権(見張りの権限)我が輩(仲間)に任ぜよ。朝旭(朝日)ほとばしり来って雲散ずるの日、共に看ん独立の玉芙蓉(美しく立派に咲いたハスの花)」
獅の英国や鷲の露国を倒すのは難しいことではない。北辺の守りは我らに任せよ。朝日が昇るがごとく晴れ渡り、国の独立は芙蓉の如く見事に花開くであろう、の意である。いかにも豪傑渡邉綱の血を引く武士の詩と舞であった。
勉三が後に続いた。
「鴻恩(大きな恩)を遺却(忘れる)して又北遊す。弟兄相対し涙空しく流る。男児国に報いるを知るは何れの日か。人間事を為すは黒頭(髪の黒い若い時)にあり」
大恩ある兄を遺して渡北するのだ。いつか必ず大望を成功させ、国の役に立ち、兄や郷党や三余先生の期待に応えねばならない。自分はまだ髪も黒く、若い。万事がこれからだ、と。勉三は渡北を前に改めて兄佐二平の総力を挙げた後ろ楯に感激を禁じえなかった。
佐二平には勉三の気持ちが痛いほどよく判った。
「報恩(自国への恩義)を報ぜんと欲して北遊を決す。辛酸(苦しく辛いこと)常に楽しむは我が家の流。この行(旅)元よりこれ賀(祝賀)すべしと雖も、離恨なお存す落日の頃」
即ち、勉三はいよいよ国に報いんという大志を抱いて北辺の地に移って行く。そんな風に自ら苦境逆境に飛び込みそれを楽しむというのが我が家の流儀だ。弟が独り立ちしていくことは、確かに嬉しいことではある。が、こうして北と南に遠く別れることになると、落日の頃に味わうような、あの何とも言えない寂しさが残るのも事実だ、と。
兄佐二平にとって、勉三は自分の分身そのもののような存在であった。詩を吟ずる佐二平の脳裏を、勉三と過ごした幼い頃からの懐かしい想い出が、走馬灯のように巡っていた。
︱そういえば、以前、豆陽中学が創立され、賀茂那賀二郡の初代郡長に就任した当時、勉三が渡北のことを相談しようと下田の郡庁を訪れたが、私が不在で、相談出来ないままに帰っていったということがあった。後にその時書いた詩文を見せてくれたことがあったが、確か「君が家を訪ねんと欲するも君在まさず。蓮台寺の畔思いは紛々(乱れている様)たり。この行(旅あるいは身の振り方)あに只一身の計のみならんや。願わくば国恩の幾万分を報わん」というものだった。一身即ち我が身の計を図るのではなく何よりも国恩に報いる。それが三余先生の教えだったが、まさかその行が蝦夷行であったとは。あの時から、彼は今日あるを期して一人準備して来たのであろうか。
︱自分は依田家の長男として、この郷土に骨を埋め、郷土に果てる覚悟だ。が、弟は、勉三は違う。先生は「勉三には果たすべき使命がある」と言い残した。勉三には先生の「農として世の為に人民の為に」という教えを実践実行するべき大きな責務がある。勉三にはそれができる。何人が反対しようと、如何なる艱難辛苦が押し寄せようと、断固として前に突き進んで行くだけの強靭な精神、強固な決意がある。
︱おそらく、これから彼の大志は計り知れない程に大きな困難や壁にぶつかるに違いない。幾多の無理解にも遭遇するであろう。前途に不安が無いと言えば嘘になる。しかし、結果を恐れて何になる。この俺だけは彼を本当に理解し、最後まで守り、援護してやらねばならないのだ。
佐二平は宴の最後に、勉三にこう語りかけた。
「『事の是非如何を顧みるのみ。成敗に至りては天なり』︱三余先生が好んで口にした韓琦の教えだ。問題はそれが正しいか否かであって、成る成らぬではない、とな。勉三、お互いそれを忘れまいぞ」
その夜、宴に加わった村人・郷友は遅くまで盛大に飲み、かつ歌い、歓喜の声を挙げて勉三と開拓団を励ました。
あたかも永遠の別れの宴であるかのように。
(2)
一夜明けた明治十六(一八八三)年三月十五日昼︱
勉三、妻リク、勝の三人が堂々たる大沢家の庄屋門を通り抜け、北海道移住への第一歩を踏み出した。皆が口々に「元気でなぁ」「達者に暮らせよ」と、別れの言葉を叫ぶ。本家の女衆はリクの袖を引き、何度も「無理をするでないぞ」「水には気をつけてな」「体を壊したらすぐに帰って来いよ」と、涙ながらに言い聞かせる。
門を出たちょうどその頃、急に雨が降り出した。三人とも、しばらく行くとすぐに泥土に足を取られ、早くも歩行に苦しまねばならなかった。雨の中、松崎に下る途中にも多くの村人が見送りに出ていた。出立を祝うというより、出征兵士を送る壮行の列のようであった。
誰かがぽつり呟いた。
「まるで出発を止めるかのような雨天ではないか」
その突然の風雨は翌日も続いた。結局、松崎に集まった先発十九人はここで一泊を余儀なくされ、途中更に一泊を重ね、三月十八日午後、ようやく猫越峠に立つことが出来た。残りの七名は出発を三、四日遅らせることになった。不安を感じさせる出発ではあった。
西南伊豆地を故郷とする者にとって、猫越峠はまさに最後の「故郷見納めの峠」であった。猫越峠を越えると、そこから山道は湯ヶ島・修善寺方面に向かって下りにさしかかる。
明治十六年三月十八日︱この日峠を越えようとする者、十九名。更に、二、三日後に残り七名が続くことになっていた。苦労に苦労を重ねてようやく集めることが出来た晩成社開拓移民団の総数は十四戸・三十一名(内十五歳以下の子供は五名)である。
那賀郡大沢村農民の晩成社幹事・依田勉三(三十歳)、
妻リク(二十一歳)。
尾張愛知士族で元教員の晩成社幹事・渡邉勝(二十八
歳)。
賀茂郡小野村の山田彦太郎(三十二歳)、妻セイ(二
十七歳)、長男建治(四歳)、次男扶二郎(一歳)。
同郡市ノ瀬村の藤江助蔵(三十四歳)、妻フデ(二十
五歳)。
同郡加納村の山田勘五郎(五十三歳)、妻ノヨ(四十
三歳)、長男広吉(十七歳)。
同郡市ノ瀬村の山本初二郎(四十八歳)、妻トメ(四
十六歳)、長男金蔵(十三歳)、次男新五郎(六歳)。
同郡青野村の池野登一(四十二歳)、妻アキ(四十二
歳)。
同郡青野村の進士五郎右衛門(二十一歳)、父(四十
五歳)、母チト(四十二歳)。
同郡二條村の土屋広吉(二十四歳)。
同郡小野村の高橋利八(二十二歳)、妻キヨ(二十六
歳)。
同郡小野村の高橋金蔵(五十二歳)。
同郡村の貧しい農家の子弟山田喜平(十一歳)。幼い
ながらも一家の期待を背負っての旅立ちであった。
これに更に五名が加わる。
まず鈴木銃太郎(二十七歳)。先行者として既に帯広
に住まっている。
東京市浅草の大工吉沢竹二郎(三十四歳)は横浜合流
となっている。
銃太郎の父親長(五十二歳)、その娘で勝の妻となる
カネ(二十四歳)。
そして勉三末弟の依田文三郎(十九歳)。
親長、カネ、文三郎の三人は秋頃までに入殖する予定であった。
これが晩成社移民団の全容である。総勢十四戸・三十一名からなる小さな開拓団であった。
誰の目にも明らかなように、この晩成社開拓団は「十勝野一万町歩開拓」という大きな企てからすれば、あまりにも小さな部隊であった。
が、元々この第一陣は、本格的な開拓事業を遂行する前に、その橋頭堡を現地に構築することがその目標となっていた。つまり移住開拓団の食糧自給体制を最大限確保すること、それが当面の課題であった。第一陣が開拓事業を軌道に乗せる準備を立派に成し遂げれば、必ず道は開ける。多勢の人々がこの事業に参画して来るに違いない。そういう企てであった。
そうは言っても、全部集まっても女子供を交えての三十一人であり、非力の誹りは免れない。それに人選に十分時日を費やすだけの余裕もなかった。開拓の心構えをじっくり説く暇もなかった。移民団の間に不安が残ったのも無理からぬものがあった。
しかし勉三は違っていた。意気盛んであったというだけでなく、彼らを「開拓報国の同志」と見なし、またそうあることを期待していた。素朴に過ぎたと言えなくもない。
勉三が彼らの不安や心配に全く気付いていなかったというわけではない。ただ、こう考えていた。
︱大事なことは「実践躬行」「率先垂範」である。つまり、自らが身を以って範を示して実践しぬくなら、同志皆奮起し、必ず任務を達するに違いない。言葉によって説くのではない、ただ自ら先頭に立って実践実行するのみだ。そうすれば必ず前途は開けていくはずだ。
彼はそう信じ、三余先生の墓前にもそう誓って故郷を後にしたのである。
まだ日も高い午後のひと時、一行は猫越峠の頂上に腰を下ろし、しばし故郷との別れを惜しんだ。懐かしい南伊豆の山々が遥か遠くに望める。皆、思い思いに腰を下ろし、押し黙って、じっと故郷へと続く山波を見詰めている。毎日見上げて来たであろう天城山を、目と心に焼き付けているのであろうか。その顔立ちは希望に燃えているというより、不安の残るものであった。実際、心中は光明よりも不安が渦巻いていた。
一行は「熊と蛮人が住み、囚人が流されている恐ろしい蝦夷ヶ島」と噂される北海道へ連れて行かれるのである。皆、親兄弟・親族・親友と水杯を交わすようにして別れて来た。勉三や勝、あるいは勉三を支える妻リクのように、強い覚悟を持って渡北する者はさておいて、これから先のことが心細くないはずがなかった。
(3)
それにしても、晩成社の移民団募集は思いの外困難を極めた。特に、依田一族の拠点である那賀郡一帯には募集に応ずるものがほとんどいなかった。二、三名相談に来た者も、直前になると尻込みし、結局は断りを入れて来た。
「新天地には豊穣な土地が幾らでもある。西洋式の新しい農業を取り入れ、広々とした誰もが羨むような立派な村や街を作り、社稷の為に、郷土の為に一大貢献をなすのだ」
そんな誘いに対し、貧農と呼ばわれていた農家からさえこんな答が返って来た。
「幾ら落ちぶれても熊や囚人が一杯いるようなおっかねぇ島には行きたくねぇ」
「俺らは暖かい南国の人間だ。寒くて凍え死ぬかも知れねぇような北国に住めるはずがねぇ」
この辺りの百姓は何とかやっていける程には「豊か」であった。危険を冒さねばならないほどに追い詰められていたわけではなかった。
結局募集に応じた農民の大半は、大沢村の山一つ向こうの南伊豆と呼ばれた賀茂群に散らばる青野や市ノ瀬、加納、小野など内陸部の貧しい村の百姓衆であった。これらの村では農作の傍ら山に入って炭を焼いたり、薪を作ったり、僅かな実入りを願って出稼ぎに出ざるを得ない百姓が少なくなかった。特に、農家の次男三男や小作農の場合はこの地で自分の土地など永遠に持てそうもなかった。
更に、加納通広が北海道開拓使に職を得ていた為、この辺りでは比較的「蝦夷アレルギ︱」が薄いという事情もあった。ただ、賀茂郡の村々の募集では、何といっても佐二平の後を継いで郡長になっていた青野村生まれの大野恒哉の援助協力が効いた。
三余塾在塾中から大野の才能才腕を高く評価していた佐二平は、彼を後任の賀茂郡長に推していた。大野は静岡県庁より豆陽中学廃止説が打ち出された際、敢然と闘ってこれを跳ね返した勇猛の人でもあった。韮山の江川塾と農兵隊で西洋の様々な知識・技術を学び、明治二年に早くも青野に牧場を開き、伊豆の島々で牧畜業の先駆をなした進歩派である。
その大野が、勉三と晩成社の十勝野開拓の意気を壮とし、全面的な協力を約し、村人の説得にあたってくれたのである。
もっとも、その大野の協力があっても、すぐには開拓団に人は集まらなかった。この困難を打ち破るきっかけになったのが、賀茂郡小野村の山田彦太郎三十二歳の入団であった。
彦太郎は若いながらも村では評判の百姓で、その営農技術もなかなかのものだった。勉三が大野に伴われて最初に小野村を訪れ、十五、六人の寄り合いで募集の話をした際、開拓地北海道の気候風土、地味に一番関心を示したのが彦太郎であった。
ただ、それは彼が営農技術者として、未知の大地に対する興味を掻き立てられたということであって、開拓団に入り、北海道に移り住みたいということではなかった。しかし、勉三は彼のその営農の腕を見込み、何とかその素晴らしい腕前を晩成社の大志達成の為に発揮してもらえまいかと、何度も足を運び、熱心に頼み込んだ。
「幾ら巧い口で誘われたって、悪事を働いた訳でもない俺が、どうして熊が歩き回り、囚人がうろうろしている極寒の地に行かねばならんのかい。貧乏はしていても、そこまで落ちぶれている訳ではありゃせんぞ。それに、あっちじゃ、小便もすぐに凍って、石で叩いて取らにゃならんと言うじゃないか。恐い、恐い!」
最初、彦太郎はそう言ってまともに取り合おうとはしなかった。それでも勉三は諦めず、自分より二つ上の彦太郎の元を何回も訪れ、誘い続けた。
そんな明治十五年の秋の暮れ、勉三が彦太郎の家を訪れると、刈り入れも終わり、彦太郎・セイの夫婦が、縁側で一息ついていた。
「まあ、まあ、こんなむさ苦しい所に何度も何度も無駄足を運ばせてしまいまして、真に申し訳ないことで…」
扶二郎を背負った彦太郎の妻セイは、長男建治の手を引いて台所に回り、お茶と生干しのさつま芋を盆に載せて運んで来た。彦太郎は上機嫌だった。どうやらいつもと少し違う気分を抱いているようであった。
今年の秋は、田畑の作り全般が殊の外上手くいき、いつもより大分実入りがよかった。自分の営農技術にかなりの自信が生まれ、気分をよくしていたのだ。そんなこともあって、近頃はふと、未知の北の大地でこの営農技術を試してみたらどうであろうか、と思うこともあった。
彦太郎は、仕立てのよい洋服に身なりを整えた勉三を縁側に誘い、問わず語りに話し出した。
「あんたはお大尽の家の息子で、学問はあるかも知れん。じゃが、学問で百姓仕事ができるもんですかな? 事務所で書類を読んだり、算盤を弾いたり、金を数えたり、西洋式機械を操作したりすることは出来ても、毎日泥土に塗れて鋤鍬を振るい、地べたに身を埋めるような生活を続けることが出来ますかな? 百姓仕事というものはかんかん照りの日も雨の日も風の日も、朝から晩まで地面を這いずり回り、明けても暮れても雑草むしりに追われ、肥やしを撒いた土に顔を埋めるようにして、根気強く作物を育て上げていかにゃならん。時には臭い肥桶を頭から被るようなこともある。その上、蝦夷地ということになれば天気や畑の土の具合も皆勝手知れず。学もあり、財産もあるお人が、そんな苦労ばかりの野良仕事や開墾仕事を好きになれますかな?」
百姓仕事は奇麗事ではない。勝手知らずの北の大地と悪戦苦闘し、時には糞尿まみれにもならなければならない。それだけの覚悟があるのか、あるまい。だから誰もあんたについて行こうとしないのではないのかね。︱彦太郎の問わず語りの言外には、そんなやや皮肉めいた疑問が籠められていた。
正直、彦太郎には勉三が時々口にする「国家の為に」「世の為人民の為に」という意味がよく理解出来なかった。︱学のある人の言い草だ。むしろ正直に「自分の土地を手に入れて地主様になろう」と言ってくれた方が余程判りやすいのに、と思わざるを得なかったのだ。
彦太郎の話に耳を傾けていた勉三の脳裏に、ふいに、かつて蚕種集めで田舎まわりを始めたばかりの頃、信州の山村で見たある光景が思い浮かんだ。何故かそこで見た一老農夫の姿が忘れ難い思い出として、胸に深く刻み込まれていたのである。
勉三は服を脱ぎ捨てると、家の前にあった肥溜めに向かい、白いシャツをたくし上げた。そしてサッと肥溜めに腕を突っ込み、固くなった面を破ってぐるぐるとかき回し、中の汚水を掬い、鼻先でその臭いを嗅ぎ、顔を顰めた。
「この肥はまだ少し若過ぎるのでは?」
勿論、勉三は何か計算があってそうした訳ではない。彼自身がかつて感銘を受けたその光景を忠実になぞっただけであった。
「う︱ん…」
彦太郎の顔から笑みが消えた。
「下手くそな田舎芝居を…」
そうは思ったが、勉三のあまりにも躊躇のない真っすぐな行動に、彦太郎の漠とした疑いや惑いが見事に吹っ飛んでしまった。びっくりして口を開けていたセイはハッとし、傍らの小桶を抱え、慌てて台所に走り、むくろじの実を溶いた湯桶を急いで運んで来た。
「さあ、早く、どうぞ。何ともまあ、こんなわし等の汚れ物を…」
セイの顔は恥ずかしさのあまり、火がついたように真っ赤になっていた。
その夜、夫婦は、息子たちが寝静まった後、昼間の出来事を語り合い、遂に移民団への参加を決めた。
︱二人はまだ若い。これからだ。北海道で依田さんと共に大牧場、大農場を作るという夢に賭けてみるのも悪くはない。とにかく行ってみよう、と。
困難を極めた移民団募集は、この彦太郎夫婦入団の話が決まった後、ようやく進み始めたのである。
(4)
勉三の若い妻リクは、猫越峠に立つ開拓団一行の中で、最もひ弱な感じが否めなかった。
リクは峠の一番高い岩の上に立ち、既に山陰に隠れていた大沢村の方角を、じっと見詰め続けていた。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。無理もなかった。やっと二歳二ヶ月になったばかりの息子俊助を佐二平の妻フジに預けてきたのである。幼い俊助はまだ母親の乳房を触りたがっていた。リクにとって俊助との別れは本当に身を切られるように辛いことであった。
「俊助を伊豆に置いて行け」
と厳命したのは勉三である。
寒い北海道奥地の未開荒蕪の原野開拓に取り組むのである。しかも自分はその先頭に立たねばならない。足手まといになるようなことは断じて排さねばならなかった。その決意は「ただ着る物さえあればよろしい。箪笥も夜具も持って行くな」と、身の回りの物すら持って行く事を拒む程に徹底したものであった。さすがにリクに同情する兄弟姉妹たちの強硬な反対にあって箪笥一棹・夜具数枚だけは荷造りされることになったが、病弱の息子を同行するなどはもっての外のことであった。
リクも姉妹たちも、勉三の考えはさておいて、俊助の体を気遣い、やむなく母子の別離を認めた。実際俊助は生まれつきの蒲柳の性質で、弱々しくとても北海道の奥地の荒々しい気候風土、開拓生活に耐えられそうになかった。それが周囲の一致した意見であった。
とは言え、妻リクは夫に同行して北海道の奥地に赴くことを決して嫌がっていた訳ではない。松崎塗り屋というこの辺り随一の資産家の家に生まれたリクは、大沢依田家に嫁いだ後も、屋敷内の家事仕事が専らで、農作業の経験は皆無であった。手も足も白く、細く、非力で、到底開拓事業に向いた体の作りではなかった。それに俊助出産後に婦人科の病を患い、医者からはもう二人目を産むことは出来ないと言い渡されていた。
そんなリクであったが、周囲から、特に兄の善六や叔母のミヨから、勉三の大志を繰り返し聞かされていて、自身も勉三を心から尊敬していた。彼女の「何とか内助をもって夫を支えたい」との決意は固く、自ら進んで開拓団に加わったのである。
この日峠に立った者の中で最も心弾ませていたのは勝であったろう。
元来が「浪漫」を愛する男である。今回の北遊が彼を興奮させないはずがなかった。が、それだけではなかった。これから向かう先の横浜には、彼の妻となる女性が待っている。同志鈴木銃太郎の三つ歳下の妹で親長の長女︱鈴木カネ二十四歳がその女性である。
カネは横浜の共立女学校を卒業した後、母校に残り、寮の舎監を兼ねて国語教師になっていた。この女学校は明治四年にアメリカからやって来た宣教師のクロスビ︱、ピアソン、プラインの三女史が設立したもので、当時の日本の女学校としては最高レベルの教育を施こしていた。カネはいわば日本女子教育の最先端に立つハイカラ女性であったのだ。
明治八年、鈴木一家は父親長と長男銃太郎の入信を機に横浜に移り、父は横浜教会の執事を務め、兄はブラウン塾に入って英学と神学を学び、十六歳のカネも塾の隣にあった女学校に入学し、そこで洗礼を受けている。彼女の入信には勿論父や兄の影響があったが、その信仰は彼らより遥かに深く、純粋であった。
彼女は遥々アメリカからやって来た使命感に満ちた女子宣教師たちの感化を強く受けていた。明治初年、まだ禁教令が布かれたままで、キリスト教は「邪教耶蘇」と厳しい迫害の中にあった。そんな渦中、女の身でありながら、恐ろしい異国に勇敢に移り住み、命がけで道を説くクロスビ︱女史らに対し、カネは深い尊敬の念を持ち、自らもそのように生きたいと強く願っていた。後に信仰から離れていく父や兄や夫とは比べるべくもなく、彼女は生涯を通じて敬虔なる信仰家であった。
勝は早くからカネに好意を寄せていたが、おいそれと口に出せなかった。二人の仲を取り持ってくれたのはやはりワッデル先生であった。いよいよ北海道に向かうというこの年の正月、急ぎ上京した勝はワッデル宅を訪れ、一週間ほど滞在し、教会の仲間に渡北の決意を伝え、別れの挨拶を行なった。そしてその滞在中、彼は「実は…」と、ワッデルに初めてカネに対する心情を打ち明けた。ワッデルは、「ソレハ素晴ラシイ!」と、心から祝福してくれただけでなく、早速先方に話を通してくれたのである。
カネはいささかの躊躇もなく、この申し出に即座に「オ︱ケ︱です」と答えた。勝の気持ちは既に帯広に入っている兄銃太郎からそれとなく聞かされていた。またカネ自身も父や兄の刺激を受け、既に彼らと共に開拓団に参加したいと考え始めていたのである。
︱クロスビ︱先生たちは海を越えてやって来て、信仰の荒れ野を拓き、畑を耕し、福音の種を蒔いた。まさに主が讃える「種を蒔く人」だ。なんという素晴らしい御業であることか。幸い父も兄も渡邉もキリスト信者である。皆が協力しあえば、北海道の奥地に教会を建てたり、学校を設立したりすることは決して不可能ではないはずだ。自分も開拓団に加わることができたら、女学校の先生方もきっと喜んでくださるはず…。
純粋に信仰に生きることを考えていたカネにとって、北海道の奥地に赴き、新しい街や村を開き、クロスビ︱、ピアソン、プライン先生たちのように未開の人々や貧しい移民に神の道を説くことは一つの夢であった。
だが、鈴木家にはカネがそうした思いを簡単に言い出せない事情があった。
当時、鈴木家には彼らの他に、親長の妻直四十八歳、二男定次郎二十二歳、三男安三郎十七歳、近々養女に出すことになっている次女ミツ十四歳、三女ノブ十一歳がいた。
直は元々上田藩の奥女中で、主命によって身分下の親長が婿養子に入り、鈴木の姓を名乗っていた。彼女の気位の高さは明治の世になっても相変わらずで、親長を悩まし続けた。渡北についても彼女は断固反対で、自分はこちらに残ると言って聞かない。
後事を托されることになる弟定次郎も親長らの、特に兄銃太郎の渡北には激しく反対した。跡継ぎ長男としてこの内地で事業をおこし、父母に尽くし、弟妹を保護するのが親孝行の道ではないのか、と兄の無情を責めたてた。結局、兄の「わしはかつて事を誤り、面目をなくしている。渡北して農地を拓き、世の中の役に立つ人となり、新天地で鈴木家再興を果たしたいのだ。きっと家族の面倒を見るようにする故、何とか許してくれ」との懇願を受け入れざるを得なかった。
定次郎はまさか頼りに思っている姉までもが渡北を考えているなどとは、夢にも思っていない。無論母親の直もだ。カネが渡北のことなど口にし得ない事情がそこにあった。しかし、結婚ということになれば話は別だった。まさに渡りに舟である。
親長も銃太郎もカネも、まだ二十二歳になったばかりの定次郎に何もかも任せきりにして行くのは気が引けたが、開拓が軌道に乗れば一家を呼び寄せることもできる。鈴木家の未来を北海道開拓に託す以外に道がなかったのも事実だった。
ワッデルは教会活動を通じて親長や銃太郎と顔見知りであり、カネのこともよく知っていた。女学校の先生たちからも、かねてよりカネの信仰心の厚さについて、賞賛の言葉を聞いていた。
︱彼女ナラ勝ヲ助ケテ開拓ノ事業モ布教・伝道ノ事業モ立派ニ軌道ニ乗セテクレルニ違イナイ。
そう確信するワッデルの行動は素早かった。カネの気持ちを確かめるや、すぐに女学校総長のクロスビ︱女史に連絡を入れ、二人の婚約をまとめるべく、正月の松の内に勝を連れて汽車に飛び乗り、横浜の女学校に直行。その日の夕食会の席上で関係者に経過を報告して了解を得ると、その足で勝を連れて横浜石川町の鈴木家を訪れ、正式に婚約をまとめてしまった。
ワッデルは二人の結婚を二ヶ月あまり先に予定されていた晩成社開拓団の渡北前に済ませ、出来ることなら二人して船上の人となれるように、気に掛けてくれていたのである。
勉三の叔父で勝の横浜における定宿にもなっていた鈴木写真館の主真一も、あまりにも急な話に驚いた様子であったが、「これ以上ない、実に良い組み合わせだ」と感心し、「お祝いに」と、早速二人を呼んで婚約記念写真を撮ってくれた。
撮影者にとっても二人にとっても突然の婚約話で、写真に写った彼らの表情もまたまことに神妙であった。この婚約記念写真は蓮台寺、松崎、大沢の至る所で披露され、その度に二人の神妙さが笑いを誘い、からかいの種となった。
猫越峠を下りると、もう横浜は遠くない。そこには伴侶にと願い続けて来たカネが待っている。新妻を得ていよいよ新天地北海道に向かうのである。勝が人一倍意気盛んであったのは当然であろう。
もっとも、そんなこんなで心弾ませていた勝ではあったが、豆陽学校の生徒や同僚、吉村旅館の人々、蓮台寺郷友との別離の光景を思い出すと、涙が零れてならなかった。正式に退職が決まると、今日は学校で、明日は吉村で、明後日は誰それの家でと、送別会が連日続いた。全校ぐるみで開かれた送別大会には郡長の大野恒哉までもが駆け付けてくれた。どこでも勝の好きな酒肴がふんだんに振る舞われ、幾つもの送別激励の詩が寄せられた。
この僻村に創立された豆陽学校は南伊豆一帯の誇りであった。創立当初からの教員である勝はその誇るべき校史の体現者そのものであった。彼は一世を風靡した英語・英学の先覚者であり、この地にあっては新時代を象徴するシンボル的存在であったのだ。しかも、彼は若く、正義感に溢れた熱血漢であり、飾るところがなく、誰ともすぐに打ち解けた。わずか五年の滞在であったが、彼とこの地の結びつきの深さは想像以上のものがあったのだ。
明治十六年三月十八日︱晩成社開拓団一行は、猫越峠を越え、北海道十勝野目指して、いよいよ湯ヶ島︱修善寺︱箱根︱小田原︱横浜に至る細い山道を下り始めた。懐かしい西伊豆・南伊豆の山々はもはや見えない。
(5)
明治十六年四月十日︱晩成社開拓団一行が横浜港を出航した日である。
三月二十一日に横浜の街に到着してからこの出発までの半月間は、まさに「紛糾の日々」であった。一気に片付けねばならないことが山のようにあった。その上、予定外のことが幾つも起こった。
出航までの一行の宿泊拠点は鈴木写真館と隣の宿屋万年屋であった。一行が到着すると、真一は妻の美遠子に命じて熱いお茶とお菓子を出させ、彼らの旅の疲れをねぎらい、心づくしにもてなした。彼も未遠子も勉三と晩成社の成功を強く願っていた。
︱艱難辛苦は避けられまい。想像もできないような嵐に見舞われることもあろう。そうした困難を乗り越えていくには、社の幹部と耕夫とその家族が一致結束し、お互いに助け合うことが何よりも大切だ。少しでもその一致結束の助けになりたい。
二人の切なる思いであった。
実は未遠子の兄︱日光東照宮禰宜の近悳も三日程前に勉三と一行を激励すべく、今は亡き弟陽次郎の忘れ形見である十六歳の甥を連れてこの鈴木写真館にやって来ていた。当初は勉三が沼津から船に乗ると聞いていたので沼津まで出掛けるつもりでいた。しかし予定が変わって徒歩行となったと聞き、ここで待つことにしたのである。が、結局この時近悳は勉三に会うことが叶わず、後ろ髪を引かれる思いで日光に帰って行った。雨に祟られた勉三一行の横浜到着が三日も遅れた為である。近悳の悔しがり様は大変なものであった。未遠子はそんな兄近悳の思いも込めて一行の接待に駈けずり回った。
それにしてもあまりにも慌ただしい出発ではあった。原因は幾つかあった。一つは突然起こった渡航手続き上の紛糾であり、もう一つは勝とカネの結婚式であった。これ以外にも現地に持って行く物品の購入と荷造りを急がねばならなかったのだ。
渡航手続きに関する紛糾の発生は全く思いもよらない出来事だった。勉三は上京するとすぐに農商務省の窓口を訪れ、渡航願書を提出した。ところが、これが「不許可」となって突き返されて来たのである。前年の明治十五年五月に改正された「北海道送籍移住者渡航手続」は新しく設置された札幌県時代に持ち越されており、戸籍を持って移住する者に関しては渡航費が無料の筈であった。それなのに「不許可」だという。理由は「開拓願地の正式下付が許可されていない」の一点張りであった。勉三は申請中の願書を示して何度も省の窓口と掛け合った。が、役所の高く厚い壁の前に無念の涙を呑む外なかった。
この件は、当面は移住者が自弁し、費用不足の者には社が貸し出しを行ない、後日改めて申請を行なう、ということでようやく決着がついた。だが、この初端の紛糾は移民団の中に「どうも話が違うでねぇか」との疑いを惹き起し、若干の不満と不安を生み出し、その後も尾を引くことになる。
勉三から「渡航費下付不許可」の報せを聞かされた時、勝は親長や友人らと結婚式の準備や日取りについて相談している真っ最中だった。勉三は、伊豆の出張所との連絡や省庁との再交渉と乗船移住手続きに走り回り、勝はこの件を厳しく問う団員の説得に当たった。移住先で必要となる物品︱鋤・鍬・鎌等の農具、鉄砲と火薬、度量、枡、蚊帳、紙、服等々の購入も進めながら結婚式の準備を進めた。テンテコ舞いの日々であった。それでも勝は意気盛んで、楽しげに飛び回っていた。
出航の四日前、伊豆の後発組七名と浅草の大工吉沢竹次郎が本隊に合流し、何とか荷造りと乗船準備が完了した。後は勝とカネの結婚式だけになった。
(6)
とにかく夫となる勝が出発する前に式を挙げたい︱それがカネのたっての願いであった。もはや、勝と共に船上の人となることが出来ないことは明らかであった。準備すべきことがあまりに多く、自分の渡北を遅らせる外なかった。それでも、とにかく母親、兄弟姉妹、世話になった先生方や同僚たちの祝福の中で式を挙げたかったのである。が、もっと深刻な慮りもあった。
︱一度渡北したら、次はいつ帰って来られるか判らない。もしかしたらこれが永遠の別れになるやも知れぬ。「最後の晩餐」にならぬとも限らない。蛮地に移住して行く以上はそういう覚悟が必要なのだ。
カネの悲愴な決意であった。
かくして、出航前夜の四月九日︱慌しい結婚式が執り行われることが決まった。媒酌人はワッデル夫妻という訳にもいかず、急遽、勉三夫婦が引き受けることになった。会場はカネの在籍していた女学校の教会ということだけは決まったが、その他のことは全く白紙だった。それでもワッデル、信者仲間、クロスビ︱総長や女学校のカネの同僚の助けで、何とか事は進められた。
まだ若い、気のおけない同僚の女教師たちは、
「こんなふうな慌しい結婚式ってカネさんらしくないわね。一体全体、相手の方ってどんな男性なのかしら?」
「ホント、そう言えば旦那さんになる人との御付き合いの話、カネさんから聞いたことありまして?」
「横浜のような新しい西洋風の街から、道らしい道も無く、熊が出るという北海道の奥地に飛び込んで行くというじゃない。なんて度胸のある女性なのかしら!」
と、カネをからかった。
「ほら、イエス様もおっしゃっているでしよ。然れば神は開闢の初めより人を男と女とに造り給へり。かかる故に人はその父母を離れて、二人のもの一体になるべし。然ればはや二人にはあらず一体なり。この故に神の合わせ給うものは人これを離すべからず、って。マルコ伝・第十章よ」
カネが澄ました顔でやり返すと彼女たちはどっと笑い、更にカネにつまらぬ質問を浴びせてはその顔を赤らめさせた。明治のミッションスク︱ルの中には新しい伸び伸びとした自由の風が吹き始めていた。
挙式の三日前、ようやく二人は挙式時間を夜の七時半と決め、司式牧師(式の進行を受け持つ牧師)が在籍する横浜海岸教会に向かった。これが、二人が結婚前に経験した唯一のデ︱トらしいデ︱トであった。道中二人は愛を語るもなく、ただ式の打ち合わせに時を費やすばかりであった。
結婚式は極めて質素なものではあったが、大勢の参列者に祝福された心温まるものであった。二人の晴れの装いは、新しくはあったが、ごくありふれた羽織袴と着物である。ただ、ワッデル夫人が誂えてくれた花嫁の頭を覆う白いベ︱ルが、この質素な式をいかにも厳粛かつ華麗なものに見せていた。
祝宴でワッデル先生が声を震わせながら贈ってくれた励ましの言葉が、二人の心に沁みた。
「コレカラ北ノ奥地ニ向カウ二人ニ、私ハマタイ伝第七章ノ二ツノ言葉ヲ贈リマス。キット、貴方タチノ道標ニナルデシヨウ。『求メヨ、サラバ与エラレン。尋ネヨ、サラバ見出サン。門ヲ叩ケ、サラバ開カレン』『狭キ門ヨリ入レ。滅ビニ至ル門ハ大キク、ソノ路ハ広ク、之ヨリ入ルモノ多シ。生命ニ至ル門ハ狭ク、ソノ路ハ細ク、之ヲ見出スモノ少ナシ』ガソノ言葉デス。決シテコノ主ノ言葉ヲ忘レナイデ下サイ」
この言葉はかつて若き日に中国の奥地に伝道師として入ったワッデルの座右の銘でもあった。
出航を明日に控えたその夜、質素ではあったが善意と祝意に溢れた宴は九時頃まで続いた。
新妻カネは半年後に父親長や勉三の弟文三郎と一緒に渡北することになっている。
明治十六年四月十日︱
いよいよ出港の日が来た。昼間、鈴木写真館に集まり、記念写真を撮る。田舎から出て来た者にとっては初めての写真である。緊張しないわけがなかった。皆一世一代の神妙な顔つきを見せている。もっとも、忘れ物を取りに浅草に戻った竹次郎が戻らず、結局彼は全員写真に入れなかった。最後まで気の抜けない出立ではあった。
夕方六時、高砂丸は銅鑼の音を響かせながら、ゆっくりと横浜の波止場を離れ、北の街函館目指して力強く走り始めた。
やがて波止場は夕暮れに沈んで行く。四海は凪ぎ、夕陽は落ち、水平線上の空は紅に染まり始めた。
勝は甲板に出た。心地良い海風が頬を撫でていく。カネに預かった鞄を開くと一枚の用箋がひらひらと舞い落ちた。美しい英文字が並んでいた。愛妻カネが潜ませた愛の詩文である。
別れに胸は痛みます
それでも心は結ばれています
また会う日を待ちましよう
勝は何回も何回も読み返した。そして、まだ見ぬ北の新天地に舞う二人の姿を想い浮かべ、胸を高鳴らせた。
夕焼けの温もりが、海を、船を、勝を、全てを優しく包み込んでいた。
夜半、勉三は独り月光がと照る甲板に立ち、近悳が未遠子に託して贈ってくれた別れの詩を口ずさんでみた。
甚だ君の送別を喜べども
三百里余ほどあり
袂を分かつ時
語を願われしも
南北の情を如何せん
師近悳の一方ならぬ恩情と期待とに胸が熱くなるのを禁じえなかった。
近悳と、そして三余先生と、更にまた兄佐二平の温顔が月に映った。勉三の脳裏に、遥かなる北の大地︱十勝
野の原野が浮かび、やがてそれは広大な牧畜場、田畑へと見事に変貌を遂げていった。
第十八章 帯広先発隊
(1)
「コケコッコ︱」
夜明けを告げる鶏鳴が厚い雪に覆われた十勝原野の深い静寂を破り、薄明の空に響く。オベリベリ即ち帯広の明治十六年元旦の朝が明けようとしていた。
銃太郎が晩成社移民団の先発隊として一人この地に居を構えてから既に半年が経っている。
すっかり住み慣れた小屋の寝床から抜け出し、厚い綿入れを身にまとい、東窓の草戸を一気に押し開けた。零下十数度の寒気が勢い良く流れ込み、思わず身を震わせた。
窓から見える遥かな東山の端がうっすらと赤めいている。東の空は今まさに明けんとし、朝焼けに染まった金紅色の筋雲が幾筋も幾筋も細長く棚引いている。やがて朝日が静かに昇り始めると、十勝野一面を被う雪面が銀色に燃え立ち、辺りに流れる透明にして清浄な寒気を一瞬和らげる。あちこちのハルニレの大樹や槲の樹林に咲いた氷雪花が、金銀の陽射しを浴び、宝石を散りばめたように輝いている。
銃太郎は東の神窓(神の入って来る神聖な窓とされたアイヌ小屋の東の窓)の前に跪き、胸の前で十字を切った。
「ああ、主よ、私をこの地に導いて下さったことを感謝します」
昨年十一月の初め、札幌の勉三から「一旦伊豆へ帰国する」との知らせが届いた。たった一人での越冬に不安はあった。でも大川や国分やこの辺りのコタンの長モチャロクとその娘コカトアン、隣の住人でまだ十六、七歳の青年コサンケアンら、近隣住民の暖かい助力のおかげで無事に年を越すことができた。
まだ僅か半年の滞在であったが、銃太郎は早くも「鈴木旦那」と呼ばれるほどに地元アイヌ、隣人たちの信頼を勝ち得ていたのである。
開拓団の受け入れ準備を始めるために、銃太郎が勉三と別れて大津から帯広に戻ったのは半年前の明治十五年七月三十日のことである。翌日から、窓鍬、唐鍬、万能を振るって家の周りの開墾を進め、その新墾地に大根、葱、菜葉、蕎麦等の種を蒔いた。勿論試作である。
*窓鍬…鉄の一枚刃に柄を付けた農具を鍬といい、その刃の先を土に食い込み易いようにやや尖らせかつ上部を窓にして軽くしたものを窓鍬という。草や細根を切り、土を起こすのに使う。
*唐鍬…一枚刃の重たい鍬。土を深く起こすのに便利。
*万能…三本の尖った刃を持つ鉄具に柄を付けた農具で、土を掘り起こし、除草などに使う。三本鍬ともいう。
この帯広の地で本格的な農作を始めたのは銃太郎と晩成社が初めてである。十勝川対岸の音更モツケナシに居を構えていた大川も、帯広住人の国分も農民ではない。コタンや移住者やマタギの間を歩き回っては日用雑貨と鹿や狼や羆の毛皮や獣肉、サケやマスなどを交換する行商人であった。家の脇に野菜を作ったりしていたが、あくまでもそれは片手間の耕作でしかなかった。彼らもやがては農牧業に移っていくのであるが、それは後のことである。
銃太郎には農事に関して先入観というものがなかった。内地でも養蚕以外の農事にほとんど携わったことがなかったからだ。それが幸いした。彼は謙虚に寒地の農事を一から学ぼうとした。それが周囲の人々の好感を呼び、彼を助けた。
銃太郎は下流の各地にも出かけ、以前から農作を試みていた先住者たちからも熱心に学んだ。
大津から川を三里程上ったヌッパというところに藤井長兵衛という者の家があった。かつて勉三と共に一夜の宿をお願いした家だ。彼は鮭鱒漁を営みながら珍しく農作を試みていて、彼の拓いた畑では黍や豆や諸々の菜葉の生育が見られた。この地は確かに地味豊穣であったが、残念ながら時に河水が溢れると忽ち水を被り、作物も小屋も全て水浸しになり、逃げ出すほかないということであった。この辺りの地形・地味に関する彼の知識は実に豊富で、銃太郎を大いに助けた。長臼に在った和人小屋の周囲にも小さな畑があり、生育途中の馬鈴薯が見られた。が、収穫の程は不明であった。農作というにはあまりにも規模が小さ過ぎた。
銃太郎はさっそく藤井から各種作物の種苗を買い求め、帯広に持ち帰ってきた。大津で購入した種苗よりヌッパのそれの方が奥地の植え付けには適しているに違いない、と考えたからである。
ついでに、銃太郎は藤井から番い(雄と雌の組合せ)の鶏を買い求めて来た。昔養蚕の傍ら、鶏の飼育に当たったことがあり、育てる自信はあった。卵が手に入るという魅力もあったが、何よりも淋しい一人暮らしを慰めてくれる相手が欲しかったのだ。
銃太郎小屋と新墾地は、帯広川の一部を為す細流パラトの川沿いにあった。川辺は湿地でそこにはヤチダモ・ハンノキ、化粧柳が鬱蒼と茂り、葦・水芭蕉・萩などが下草をなしていた。あちこち凍上によって出来た谷地坊主が顔を出している。
*凍上…冬場に地中が凍ることによって地表の一部
が突き上げられ、隆起すること。
*谷地坊主…地表の一部が不均等な凍上によって隆起し、春先の流
氷によってその周囲が侵食され、円形になる。頭上を長芝に覆わ
れたそれはいかにも坊主頭に似ている。
この河畔の樹林に沿って広がる土手の上の平地は、やや湿っているが日当たりがよく、腐植土に覆われた沃地であり、処々にエルム即ちハルニレの大樹が立っていた。大抵こうした土地には大樹が鬱蒼と茂り、一木を倒すのに一日を要し、根を掘るのに数日を要し、開墾するには大変な労苦を費やさねばならない。幸いなことに、ここにはそうした大樹の森は無く、ハルニレが散立し、幾分小高い所に槲の樹林が疎らにあるだけであった。
ここは一面が草原で、恐ろしく背の高いヨモギ・イタドリ・ススキ・カラムシが生い茂り、フキ・トクサは足の踏み入れ場もないほどに繁っていた。しかしながらそこはまた野の野菜の宝庫でもあった。山ブキ・牛蒡、姥ユリ、ヒトビル(アイヌネギ又は行者ニンニク)、土芋、木苺等々、何でも採れた。
十勝を流れる河川を包むように広がるこうした沃地はそれ程広くはなく、やがて次第に段丘を登り、乾燥台地へと移っていく。段丘の上方には槲・楢・白樺・桂の樹林が処々に密集し、足元には萱・熊笹・萩・鈴蘭がびっしりと生えている。ここを高台とすると、川筋の平原は下台ということになる。
十勝川上流の山の奥地に入ると原生林が広がり、エゾマツ・トドマツ・イチイ(オンコ)等々針葉樹の大木が太古さながらの風景を見せていた。
十勝野は、十勝川本流と諸支流を底とする盆状の大平原であるが、決して真っ平らという訳ではなく、何段もの河岸段丘からなっている。
辺り一帯は、久保栄の劇作『火山灰地』に描かれているように一面火山灰地に覆われている。が、下台の方は河川や雨水が運んで来た沃土や腐植土の堆積もあり、しばらくは肥料無しに作物を育てることができる程によく肥えていた。高台の火山灰地が農地として本格的に開墾されるのは明治四十年頃からで、土壌を中和させる人造肥料の過燐酸石灰が入ってきて以後のことである。
勉三は、銃太郎と初めてこの帯広一帯の原野を眺めた日、即ち明治十五年七月十五日の日誌にこう記した。
「この地頗る肥沃にして広漠たり。…この地は田内氏のかつて開拓の為請願せしところなりと云えり」と。
この地を調査した田内捨六は官吏であって「開拓の為請願云々」ということはあり得ない。多分、田内も「自分がそうしたい程に素晴らしい土地だ」という位のことは言ったに違いない。それが「田内氏請願云々」の噂になって広まったのであろう。そんな噂が流される程に、この辺りが肥沃で豊かな土地であることだけは間違いのない事実であった。
晩成社の最大の目的はここで牧畜を行なうこと、牧畜を軌道に乗せ、しかる後に耕作地、田畑を増やしていくというものである。そのためにも、まずは農作適地を選び、開拓民の自家用食糧を産すべき耕作地の開拓開墾を成功させねばならない。帯広先発隊銃太郎の新墾と作物の植え付けは、その準備、下調べのためでもあったのだ。
(2)
明治十五年の八月初め、植えつけたばかりの作物が可愛らしい芽を出し、銃太郎を喜ばせた。
夏、日中の気温は華氏九十度(摂氏三十二度)にまで達した。想像していた以上の猛暑である。ところが、夕方になり、突然雷鳴が落ち、驟雨が襲うと、気温はたちまち下がり、思いの外の肌寒さに見舞われる。こうした寒暖差の激しい内陸部特有の気候は、銃太郎にとっては全く未知のものであった。
︱何という土地柄であることか。それでも地に播かれた一粒の種は人知れず芽吹き、明るい地上へと伸び出て行く。大自然は何と不思議で、偉大であろうか。
銃太郎にとって、作物の生長が奇蹟のように思えてならなかった。
かくの如く、慣れない土地の慣れない生活に苦労していた銃太郎に対し、近隣住人やアイヌの人々はこの上なく親切であった。まずアイヌの児童が遊びにやって来た。銃太郎が帯広に入殖を果たした日からわずか数日後のことである。
どこの国でも子供は好奇心旺盛で、怖いもの知らずだ。新しい和人がどんな人物なのか、興味津々のようであった。銃太郎が「イランカラプテ」(こんにちは)と、大川から教わったアイヌ語の挨拶を試すと、大きなどんぐり眼を更に大きくし、慌てて「イランカラプテ」と応え、深々とお辞儀をした。銃太郎がもう一度「イランカラプテ」と言いながら、同じように深々と頭を下げると、彼も深々と頭を下げ、顔をくしゃくしゃにしていかにも嬉しそうに笑った。
銃太郎は、この最初のお客に敬意を表すべく、一個の青貝ボン(ボタン)と親への贈り物として白米五合を手渡した。彼はびっくりして「イヤイライケレ」(ありがとう)の一言を残して家に飛んで帰っていった。
児童は親に言い付けられたのであろう。すぐに、大きな山牛蒡の束を抱えて帰って来た。今度は銃太郎が恐縮し、彼に釣り糸と釣り針をやると、再び家に飛んで帰った男の子は、今度は燻製にした鱒を抱えて走ってきた。
「学ぶべきは天候や暮らしの仕方だけではなさそうだ」
銃太郎は、律儀で、情に厚く、損得抜きの交際を尊ぶアイヌのふうに改めて深い感銘を覚えていた。
その日の夕暮れ時、今度は、この小屋の元持ち主であった十勝地方山アイヌの長モチャロクの娘が「父と母から」と、大きな鱒の半身を届けてきた。
目元の涼しい十七、八の娘で、緊張と恥じらいで身を硬くしている様子が手に取るように判った。銃太郎もどぎまぎして「ウィソネカ(ようこそ)。これからもよろしく」と言いながらお礼に米五合を渡した。娘は「ウィソネカ」という言葉をオウム返しに口にすると、贈り物を奪うように受け取り、顔を下に向け、脱兎の如く飛び去っていった。名はコカトアン。噂ではこの辺りで最も美しいメノコだという。
その後も、銃太郎はしばしば近隣のアイヌ住人から山牛蒡、鱒、小魚、筋子、野葡萄、秋味の鮭、薪束、ゴザなどを恵まれた。自分のところに余分が無くいかに乏しくても、隣人が困っていれば共に分かち合う、というのが彼らのふうであった。
彼らは時には大津の堺氏や江氏から預かったと言って新聞や通信物を届けてくれたり、またこちらからの物を彼らの元へ運んでいってくれたりもした。銃太郎もその都度、米や味噌、塩、酒、間引き大根の漬物などを渡して謝意を表した。
銃太郎がアイヌの人々に好かれ慕われたのは、勿論こうした銃太郎の人付き合いの良さもあったが、それ以上に彼の人柄の良さが好まれたからである。彼にはお手本があった。「禁教令」を布いた「未開蛮地の国」日本に、身の危険を顧みずに伝道にやって来たブラウン、ヘボン、グリ︱ン、ワッデルらの宣教師たちである。彼らは皆貧しいものや虐げられている者に対して実に親切であった。そんな人々から学んだ銃太郎の生き方や身の処し方が、彼を特別魅力的な人物たらしめていたのである。
ブラウンら異国の宣教師たちは「いかなる人間も神の前では平等であること」を、身をもって銃太郎に教えていた。彼らはたとえ信者獲得という目的を持っていたにせよ、貧しい者あるいは虐げられた人々にしばしば手を差し伸べた。信者ならずとも困難を抱えている人の為に誠心誠意を尽くしていた。人道と奉仕と隣人愛︱明治の初めに日本にやって来た宣教師たちが備えていた際立った徳性がそれである。
明治期の日本人のキリスト者の多くは、神に対する信仰というよりもむしろこうした宣教師たちの示す高い徳性に感化され、改宗入信を決めた者が少なくない。宣教師たちが示した徳性が、誠心誠意を重んじた武士道の教えと重なっていると思えたのである。
さすがに、神学校を卒業し、一度は牧師まで務めたことのある銃太郎である。ここでも日曜日を安息日とし、しばしば聖書を開き、祈りを捧げ、自らへの反省を怠らず、人道と奉仕と隣人愛を心掛けた。彼の人望はそうした精進・努力がもたらしたものであった。まさに論語にある通り、「徳は孤ならず必ず隣あり」(徳のある人には仲間や友人が必ず寄って来る)であった。
また、何よりもアイヌの人々を驚かせ喜ばせたのは、銃太郎のアイヌ語習得への熱意であった。できる限り早く現地の言葉を覚えること︱これもまた宣教師たちから学んだことである。言葉は単なる意思疎通の手段ではない。言葉は文化であり、その民族の精神、即ち魂を宿している。アイヌの言葉を覚えることは彼らをより深く理解し、彼らと魂の触れ合いを求めることを意味した。
後に銃太郎はアイヌのために書面書類の代筆も引き受けるようになる。彼らが「鈴木旦那」と呼んで尊敬の念を示すようになったのも当然であろう。
因みに、明治十二年には十勝広尾の茂寄村で早くも民家を借りた私設学校が開かれ、児童の読み書き計算教育が始まっている。明治五年の学制公布から僅か七年後のことである。
この年、更に十勝組合が中心になって広尾・大津の郡民から寄付を集め、翌十三年春に茂寄村・大津村それぞれに立派な学校校舎を建てている。茂寄村のそれは広さ三十三坪、工費八百円(現在の額にしておよそ二百四十万円)の堂々たるものであった。
茂寄校の児童数およそ二十、その大半はアイヌの子供たちであった。言うまでもなくここで教えられたのは和人の言葉による読み書きである。それはアイヌ民族に新しい知識と教養をもたらしたが、逆に一層の「和人同化」を促すことにもなった。アイヌ古老をして「アイヌはだんだん賢くなり、贅沢になり、気力が衰えてしまった」と嘆かせる因にもなった。
帯広周辺に学校が出来るのはもっと後のことだ。明治十六年秋にやって来た銃太郎の妹、勝の妻のカネによって開かれた私設の教室がその初めとなる。それでも明治十五年頃にはこの帯広村でも和人との交流が頻繁となっていて、既に多くのアイヌはある程度の和語を理解し、片言に話すことができるようになっていた。
アイヌ住人中でも村長格のモチャロクは真っ先に銃太郎の人物を見抜き、信頼を寄せ、程なく彼を「鈴木ニシパ」と呼ぶようになった。
娘コカトアンは父にもならったが、彼女はまた別の眼で銃太郎を見つめ、興味を抱いていた。彼女にとって銃太郎は初めて見る型の和人の男だった。他の和人と違って銃太郎はアイヌの神や霊についても、どんな事についても一所懸命理解しようとする。しかもアイヌを、アイヌの女である自分を同じ人間として扱い、尊重し、接してくれる。銃太郎と話していると自分も賢くなるような気がした。銃太郎はそんな不思議な存在であった。
銃太郎の方もかつての「不祥事」から学んでいて、決して女性に対して慣れた態度を取るまいと心に決めていた。
コカトアンの銃太郎に対する尊敬と好意が、やがて恋愛感情に変わっていくのにそれ程時間はかからなかった。
先住和人の中で、銃太郎が特に親しく交わり、交流を深めた隣人は国分夫婦である。国分家では、日高門別にいた老父母が亡くなり、妻と娘がこちらに移ってきていた。彼女らは縫い物やら料理の仕方やら、草むらのフキや牛蒡を使った漬物の作り方やら、暮らしの細かい部分まで援助の手を差し伸べてくれた。両家は、米や酒や塩、新墾の畑で採れた大根や蕪の漬物と、獣肉や鮭・鱒・小魚やマッチなどの生活用品を分け合ったり、貸したり借りたりと、まるで親類のような交際であった。時には、娘や妻が銃太郎に対してあまりに親切過ぎるというので久吉が文句を言う位であった。
大川もまた鱒釣りの仕方、餌種類や釣場所などを教えるためにしばしば銃太郎を訪れ、釣りに誘ってくれた。
晩成社がこの地で成功を収めるためには、地元住民の協力が不可欠であることは言うまでもないことである。見知らぬ土地で農を営もうというのである。季節の天候のこと、出水や地味のこと、恐ろしい羆や狼のこと、付近の交通や通路のこと、森や野原や川で捕れる食材のこと、そして冬の越し方や虻・蚊の対策など諸々の生活の仕方・工夫について、教えて貰わねばならないことが山ほどあった。ここにもまた銃太郎が先行してこの地に入殖した理由があった。
(3)
八月半ばの暑い盛り、銃太郎の身に異変が起こった。
ここでは蚊や虻が大量に発生し、ひっきりなしに人を襲う。露出した肌は忽ち彼らの餌食となり、赤く腫れ上がる。顔などを刺されれば腫れ上がって目が見えなくなったり、口が開かなくなったりし、仕事を休まねばならないほどの酷さであった。どんな古老の開拓懐旧談にも、この蚊や虻にどれ程苦労させられたか、その恐怖の体験が必ず出て来る。その獰猛さ加減は内地では考えられない程のものであった。
銃太郎も隣人の教えに従い、野に出る時は長袖、脚半、足袋を着け、小屋の中ではよモギをどんどん焚いてはみたものの、不慣れな銃太郎は恰好の標的とされた。虫刺されが高じてか、やがては体調を壊すようになり、しばしば食べた物を吐いた。疲労が激しく、夜もぐっすり眠れず、よく夢を見るようになった。そのうちに腹痛が始まり、遂には高熱を発し、粥すらのどを通らなくなり、高熱発汗と悪寒が交互にやってきた。大川は「瘧に違いない」と言った。蚊が媒介する風土病の一種のマラリアである。一度罹るとなかなか抜け切らない。
もっとも、偶然起こったこの事件が銃太郎と現地住人、とりわけモチャロクの娘コカトアンとの結びつきをいっそう強固にした。近隣の住人が心配して代わる代わる見舞いに訪れ、親身になって励まし、看病してくれたが、特にコカトアンは熱心に付き添った。瘧に効くサビタ(アジサイ科で和紙になるノリウツギ)を探して来てはその根っ子の汁を絞って飲ませてくれたり、何度も手ぬぐいを冷たい湧き水に浸してきては熱い額に押し当ててくれた。実に親身な看病ぶりであった。それは、密かに彼女に好意を抱いていたアイヌの若者アイランケに悲しい諦めをもたらした程に献身的な看病であった。
「ギ︱、スイ︱チョ、ギ︱、スイ︱チョ」
病も癒えつつあった八月末のある夜半、寝付けないままに本を読んでいた銃太郎の耳に、微かに虫の音が聞こえた。
「キリギリスか…。随分寂しそうな鳴き音だな。お前も、一人ぼっちか…」
頼りなげに仲間を呼ぶその音色が、病み上がりの銃太郎の心細い琴線に触れ、涙を誘った。銃太郎はこの時初めて遠く故郷の家族や仲間と離れ、未開の異郷に病む己の孤独を思い、心を乱した。
石油ランプの炎をフッと吹き消すと、辺りは真っ暗な闇の中に沈んだ。父母兄弟姉妹、勝、勉三、横浜や東京にいる信者仲間、そしてこの地の親切な隣人たちの顔が次々と浮かんでは消えて行く。とりわけ、ここ数日間、懸命になって看病してくれた美しいコカトアンの顔が繰り返し浮かび、しみじみと銃太郎を慰めた。
「そう言えば、まだ札幌にいるはずの勉三さんからまだ何も言ってこないが、どうなっているのであろうか。こちらに戻って来られるのであろうか?」
銃太郎は、勉三の存在の大きさをあらためて思わずにおれなかった。
︱勉三さんも大変なことを始めたものだ。遠隔の地伊豆に生まれた一介の青年が、このような無謀ともいえる企てに決起するとは…。余程の大志が無ければ、こうした事業を興すことなど出来たものではない。
「勉三さんを支え、晩成社を必ず世に出そう」
銃太郎はあらためてそう決意した。
この時期、銃太郎を苦しめたのは瘧だけではなかった。銃太郎がちょうど瘧に罹ったあたりから数日後の八月十八日、遂にバッタの大群が飛来し、凄まじい恐怖を撒き散らしていった。
開墾地の根抜き仕事に疲れ、ぐっすりと昼寝をしていた銃太郎は、ゴ︱ゴ︱と響く騒音にびっくりして飛び起きた。まるで大風が林を揺するような鳴動である。慌てて外に飛び出して見ると、はや小屋の周りはバッタだらけで、立錐の余地もない。青草を噛むバリバリという音が辺りを支配し、他の全ての音を掻き消していた。束ねた柳の細枝で群れを打っても、右へ左へと散るだけで、全く動じる様子も無い。あまりの恐ろしさに体が固まって、動かない。
夕方、バッタの群れは突然東の空に飛び去っていった。まるで雀の群れが飛び立つような騒々しさである。何故こんなに大量に飛来するのか、誰に聞いても理由は判らないという。飛んで来た方角からすると、発生地は南西の歴舟川方面であろう、というのが住人の見立てであった。
幸いこの時は、バッタの襲来はあったものの、銃太郎の植えた蕎麦も大根菜も蕪菜も人参も茄子もササゲも大きな被害を蒙ることはなかった。この時丸裸にされたのは、主として萱などの野に生えたイネ科の植物であった。
十勝野の短い夏が終わる頃︱銃太郎の病もすっかり癒え、彼は間違いなく、当時帯広付近十数戸五十余人の先住民族アイヌ・先住和人のごく親しい隣人になっていた。
こうした「ニシパ銃太郎」の奮闘と努力が後に晩成社の開拓事業を大いに助けたことはいうまでもない。
(4)
十勝野の短い夏はあっと言う間に終わり、九月に入ると風は幾分冷たさを加え、木々は鮮やかに紅葉していく。至る所に萩・桔梗・女郎花が咲き乱れ「一望錦秋の候」となる。広大な平原の草葉は枯れ、一面ススキの穂が波打ち、風に靡いている。
錦秋の秋はまた収穫の秋でもある。銃太郎が植えた作物の生育は決して悪くはなかった。思いの外順調であった。茄子だけは植え付けが遅れた為に霜害に遭い、しぼんだ初なり一本に終わったが、その他の作物は、とりあえず少量とはいえ収穫があった。
ただ、七月末に新墾を始めた為に種蒔きから収穫まで持っていけた作物は限られていて、残念ながら馬鈴薯や豆、麦や黍などの植え付けを試して見ることは出来なかった。
それにしても、予想以上の収穫であった。これなら十分やっていける。銃太郎は成功を確信した。彼は早速、この成果を伊豆晩成社に知らせた。というのも、十一月一日に届いた佐二平からの書面に、移民募集が思いの外難航していることが記されていたからである。
厳寒の十一月六日に届いた、札幌発十月十五日付勉三書面にも、「札幌県庁の庁議が進まず、土地下付願の指令がいつ下りるか不明であり、遅れているらしい移民募集を解決すべく、急遽伊豆に帰る」と記されていた。
銃太郎は農作に関する「朗報」を伊豆現地に伝え、遅れているという移民募集に少しでも弾みをつけたかったのだ。実際、伊豆現地での移民募集に、この銃太郎の手紙は大いに役立った。
しかしながら、その後の晩成社の辿った道のりを見る限り、バッタの害も軽微であったこの年の銃太郎の「朗報」は実に限定的で、多分に幸運に恵まれた結果であった。それ故、この「朗報」が晩成社と移民団に幾分か楽観的気分を与えたという点で、逆に「不運」であったと言えなくもない。
まさに「禍福はあざなえる縄の如し」(幸運と思ったことも禍になり、不運と思ったことも幸せになったり
と、禍と福はあたかもれ捩れた縄のようなもの)である。
(5)
西山、即ち日高の山嶺が白雪を冠し、冬の到来間近を告げていた。
十月半ば、霜の降りた十勝野を十勝颪や日高颪がピュンピュンと音を立てて吹き荒れている。冷気は皮膚を刺し、手足の先は凍えて痛い程である。
昼には、高く青い大空を大白鳥が群れをなして悠々と舞い、夜更けには、「クゥィ~ン、クゥィ~ン、クゥィ~ン」という甲高い悲鳴にも似た雄エゾ鹿の雌を呼ぶ鳴き音が、深い森の奥に木魂する。
「今日は西風が強いから明日辺りはきっと霜だ。取り入れを急ぎ、越冬準備を急がねばなるめぇ」
国分にそう教えられ、大急ぎで蕎麦を刈り取り、直ぐ斜面地に室を掘って大根・蕪・人参を貯え始めた。こうした住人の素人観望は実によく当たった。「百舌鳥囀る時は快晴」「朝虹は雨、夕虹は晴」「初夏、東風なれば長雨」等々、生活には欠かせない天気予報であった。
明治十五年のこの年、十勝野に初雪が降ったのは十一月十九日のことである。収穫の秋が終わった後、銃太郎は一ヶ月程大津に滞在し、ゆっくり風呂に入ったり、新聞や書に親しみ、書面の読み書き、知人との交際を楽しんでいた。そしていよいよ帯広に帰ることにした日の朝に雪が舞い始めた。それでも風がなかったので寒さも程々、十勝川上りもそれ程苦ではなかった。帯広に到着した十一月二十三日夕方︱晴天は一転し、忽ち吹雪が舞い、強風が荒れ、この地の天気の驚く程の変わり易さを見せつけた。この日以後は霜が降り、大地は凍り、もはや鋤鍬を打つことは出来なかった。
十二月四日、烈しい風と雪とが襲いかかり、十三日には気温は遂に華氏零下十七度(摂氏零下二十七度)に達し、銃太郎を震え上がらせた。夜は寒さで寝つけない程であった。信州人の銃太郎は早速田舎で使っていた暖房具コタツを自分で作り、寝床に入れ、夜寒を凌いだ。
しかし、十勝帯広の寒さは北辺の地の寒さというにとどまらない。その上に内陸盆地気候特有の低温が輪を掛ける。更に一、二月の風の無い晴れた夜には放射冷却が起こり、地表面の温度は一段と低くなる。昼間強風が吹けば更に低温化が進み、忽ち気温は摂氏零下三十度から三十二度辺りにまで下がる。
こうなると、文字通り、あらゆるものが〝凍れる〟ことになる。銃太郎はある朝自分の寝息で掛け布団の縁が真っ白く凍り付いているのに気付き、さすがに肝を冷やした。年明けの一月二十一日には初めて鶏が卵を産んで大喜びさせてくれたのだが、手にとって見ると既に凍えて殻が破れていた。がっかりというより、むしろ「えっ!」という驚きの方が遥かに強かった。
銃太郎にとって幸運だったことは、アイヌの建てた小屋で冬を過ごすことが出来たことだ。屋根も壁も扉も厚い葦束でしっかりと被われていた。入口の前には小さな風除け小屋がくっついていて、入口扉はその小屋の中にあった。だから外の冷気が直接家の中に吹き込むことはない。
一つしか無い部屋には正面東に神聖な神窓、南に二つの明かり窓があり、それぞれ押し開きの草戸が付いている。床は笹や萱の上にゴザが敷かれている。寝床には厚く笹や萱を重ね、鹿の皮が敷いてあった。中央の囲炉裏は大きく切られ、少々大きな火が焚かれても燃え移る危険は無く、至極使い勝手がよかった。それでも火勢の衰える夜中は寒かった。
︱もし、慣れない手で作った貧弱な小屋で冬を過ごしたなら一体どうであったろうか。
思うだにその恐ろしさに身が震えた。
この間、銃太郎は勉三の言い付けで、その日の天候、温度、風向き等を一日も欠かさず記録し続けていた。これもまた重要な準備作業の一つであった。
農閑期の冬場には、大津へ出て一ヶ月間骨休めをすることが出来るぐらいの余裕がある。一年間の休暇を冬にまとめて取るようなものである。しかし、長い冬の間にもなすべき仕事はあった。特に薪造りは絶対に欠かせない。炉の火は片時も絶やすことは出来ない。火元となる種木をしっかり守り、槲や楢の丸太を斧で割り、束にして屋内や軒下に積み上げ、いつでも使えるようにして貯えておかねばならない。夏場に伐った干木もあるが、冬は伐木を雪に滑らせて運搬できるという便もあり、伐採は冬に限る。
銃太郎は当初、十分な薪を準備して居らず、後で頭を抱えることになった。結局近隣住民から薪を恵んで貰うことにならざるを得なかった。もっとも彼らはそれを予め読んでいたようで、銃太郎の片腕のようになっていたアイヌの若者アイランケは、クスクス笑って言った。
「みんな、ニシパが寒くて震える顔が見たくて黙っていたのさ!」
実際、近隣の住人はニヤニヤ笑いながら薪を運んで来た。銃太郎はさっそく近隣の仲間と共に伐木に出かけ、山のように薪木を蓄えた。山桐のような軽木を木挽きし、それを薪にし、小屋の中に乾すのである。
外に出られない日は大津で買い込んで来た稲藁を小槌で叩いて縄に綯った。雪の下から枯れた萱を刈って来て簾を編んだり箒を製作したりもしてみた。とにかく自分で作れるものは何でも作らねばならない。それがこの地に生きる者の鉄則であった。
冬場はまた鮭漁の季節でもあった。小屋の前を流れる帯広川は湧水がことの外多く、清水を好む鮭の大群が産卵にやって来た。見事な秋鮭が何本も捕れた。銃太郎ですらアイランケから教わった突鉤を使って一回に五本、十本を刺し、一冬に五、六十本の収獲をあげることができた程である。
更にまた、それを加工する寒干し鮭作りの仕事が待っていた。このやり方は国分夫婦が手取り足取り、懇切丁寧に教えてくれた。まず鮭の内臓を取り、丹念に水洗いした後で腹の中に塩を入れ、背にも塩をすり込む。樽に鮭を並べて数日間塩漬けにする。上下を入れ替え、塩が万遍なく回るようにし、水分と臭みを抜き、身を締める。その後、樽に水を張って鮭の身を浸し、塩抜きをする。それから数日間外の寒風に晒し、日干しをした後は屋内の天井に吊るして保存するのだ。
この地に生きる者にとって鮭は貴重な食料源だ。後に明治政府と道庁は資源保護を名目に冬場の鮭漁を禁止し、厳しく取り締まるのであるが、それがいかにアイヌや現地住民を苦しめることになったことか。言うまでもなく、鮭の不漁は、自分が必要とする以上の捕獲は決して行わないアイヌや現地住民の仕業ではない。そもそも鮭資源を危うくしたのは、外から入り込んで来た和人の捕獲人である。彼らが後先を考えることなく、金儲けのために乱獲を繰り返した結果であったのだ。
(6)
明治十六年四月初め、待望の春がやって来た。
野山の雪肌は丸みを帯び、十勝の川には雪解け水が滔々と流れ出し、山嶺からは日増しに雪が消えていく。水嵩を増した川の岸辺を新芽に薄く白粉を刷いた化粧柳が優しく柔らかに包んでいる。凍土は陽に解けて泥と化し、蕗の薹が顔を出す。福寿草や万作が黄金色の愛らしい花を咲かせている。鶯が初音を響かせ、アイヌの娘たちは二股枝を手に野に出て藪豆(やぶ豆)取りに勤しむ。子供たちは楓(カエデの木)に切り込みを入れ、草の葉の樋を挿して白くて甘い乳汁(メイプル・シュガ︱)を採取し、家族の舌を楽しませる。
北の春の光は眠れる大地を徐々に目覚めさせ、あらゆる生き物の生命をざわめかせる。全ての人々の鬱屈した気分を溶かし、長く雪に閉ざされていたあらゆる生命体のエネルギ︱を一気に解き放つ。鮮やかな季節の変わり目である。
「開拓団はいつ到着するのだろうか?」
そんな不安に駆られる銃太郎の手元に、伊豆の勝が差し出した明治十六年一月十三日付書面が届いた。受け取った日は四月三日である。投函から既に八十日が経っている。冬場の交通は途絶しており、郵便の遅れはやむを得ないことではあった。
北海道一周の郵便局通信網が完成したのは明治九年一月のことである。西部日本海回りに対する東部太平洋回りが大津村に達したのは明治七年十二月。初代の郵便取扱所取扱人は三村松太郎という人物で、翌年に名称が郵便局と変わると共に堺千代吉が取扱役となった。
それにしても明治三年五月に前島密が「全国津々浦々まで郵便制度を普及させ、公私はもちろん庶民に至るまでその恩恵に浴せしめん」との創業宣言を発してから僅か数年後には、この大津に郵便局が出来ていたのである。明治ポストマンの熱情の賜物であろう。
さて、伊豆からようよう届いたその郵便書面には「三月上旬に横浜出帆の手はず」と書かれていた。
「とすると、到着は四月上旬の頃か。そろそろだな」
開拓団は皆新参者である。早めに住居を定め、日常の暮らしが立つようにせねば開墾も進まず、種播きも遅れる。そうすれば取り入れも遅れ、霜にやられる。そんなこんなを考えると気が気ではなかった。
四月十日朝方、夢を見た。ハッとして目が覚めると、部屋の中に居るのは己れ一人︱。
銃太郎はここ二日ほど続けて勉三の夢を見ていた。初めは勉三がここに到着して舟から降りてくる夢であった。今朝のそれは小屋で彼と共に会計を為しているものであった。銃太郎はふと、「開拓話は夢か幻のことか?」と不安に襲われた。
が、四月十日︱実にこの日こそ、勉三と晩成社開拓団一行二十七名が、汽船高砂丸に乗って横浜を出港したその日である。予定より一ヶ月遅れての出港であった。
第十九章 海行陸行
(1)
明治十六(一八八三)年四月十四日︱
函館港の桟橋で伊豆からの移住団を出迎えたのは、ヒュウ︱、ヒュウ︱と唸りを立てて吹き付ける雪混じりの冷たい西風であった。函館湾には牙を剥くかのような白い波が次々と押し寄せていた。春とはいえ山並はまだ白く雪に被われていて、風のある日は身が凍る程に寒かった。
北の大地の荒々しい歓迎に暖かい南からやって来た新来の客は震え上がった。一行は早々と港近くの宿に逃げ込んだ。彼らに北の港町函館の美しい風景をゆっくり楽しむ余裕はない。それでも、その夜宿で食べた味噌仕立ての鮭汁に彼らは身も心も芯まで温められ、ようやく人間らしい気持ちを取り戻すことが出来た。寝床も硬いものであったが、揺れ動く船底のそれとは天地の差であった。饐えたような嫌な臭いもない。耳を覆いたくなるような喧噪もない。まさに宿屋の床の中は天国であった。
勉三と勝はあれこれの買い物に忙しく、勉三が頼みにしていた田本も撮影旅行に出ていて留守だった。それにしても、遥か北方の見知らぬ土地の安宿に、知る人もなく取り残されていた伊豆の百姓衆の心細さは如何ばかりであったろうか。
晩成社移民団はこの函館から二手に別れて十勝野を目指すことになる。
船旅を厭わない渡邉勝率いる一行十一人は帆船日光丸で大津港に入り十勝川を遡って帯広を目指す。一方、船に弱い勉三率いる一行十六人は陸路広尾から内陸部の札内川沿いに帯広を目指す。函館を四月十八日に出立した船旅一行の何人かが帯広に到着したのは五月七日のことで、およそ三週間の旅であった。
海行組︱大津行き日光丸乗船者は、勝、進士とその父母、山田喜平、五十三歳の山田勘五郎とその息子、山本初二郎夫婦と二人の息子の総勢十一名。
陸行組︱徒歩に頼る者は、勉三夫婦、吉沢竹二郎・高橋金蔵・土屋広吉の独身組、高橋利八夫婦、池野夫婦、山田彦太郎夫婦と幼い二人の息子、藤江夫婦、山田勘五郎の妻ノヨの総勢十六名。
ただ、藤江の妻が体調を崩し治療を要した為、浅草大工の竹二郎・金蔵らが先に出立し、勉三夫婦と藤江夫婦の四人は後から船で室蘭に向かい、そこで合流することになった。
(2)
勝一行の乗った日光丸は四月十八日に函館を出港し、順調な旅を続けていた。ところが二十四日、襟裳岬を目前にした頃、突然冷たい東風が吹いて海上は霧に包まれ、一寸先も定かならぬ有様となり、急遽幌泉に停泊することになった。すると今度は幌泉港の間近で突如烈しい西風が吹き荒れた。錨を投げ込んでも船揺れは収まらず、錨綱さえ切れんばかりで、岸壁に打ち上げられそうになった。しかし元の航路に戻って前に進めば、この東風で猶更波が荒くなっているであろう有名な襟裳岬の難所が待っている。船は完全に進退窮し、船長以下水夫たちも顔色を失っていた。
その時老練の一水夫が提言した。
「ここに残っていては岸壁に打ちつけられるだけだ。前に進んでも命を失うことはあるが、こういう時はむしろ努めて前進するに如かずだ。何とか襟裳岬の難所を乗り越えさえすれば活路が開かれ、難を免れることが出来るはず。幸い同船している他船の船長水夫七人も加勢してくれるというから、きっと何とかなるさ」
日光丸船長はこの言を受け入れ、直ちに錨綱を切り、帆を揚げて航行を開始した。船は烈風を受けて矢のように突進し、船体はギシギシと悲鳴を上げ、甲板は波に洗われ、船は何度も転覆しそうになった。誰しもが「これが最後」と覚悟した。
勝は「オ︱ルマイティ︱ゴッド ヘルプ アス」(全能の主よ、我らを助け給え)と念じつつ、勇敢にも水夫に混じって船を守った。彼はいざとなったら社の大事なものを樽に封じ込めて海に流し、少しでも後に財を残そうとまで考えていたという。
天運は彼らに味方した。船が襟裳岬を回ってその陰に入ると急に風は収まった。夜の十二時、生死を懸けた十時間余の苦闘の末、遂に猿留(現目黒)の港に辿り着くことができた。
勝が船内の窓を開けて思わず「おめでとう」と声を掛けると、社員もそうでない他所の者も一斉に「ありがとう」と答え、笑い声を弾かせた。
この九死に一生を得た貴重な体験は、一行の心を一つにまとめることに大いに役立った。
が、さすがにこれ以後の船旅を嫌い、陸行を願う者もいた。そこで一行は二手に別れ、勝が陸行組四人を率いて海沿いの道を大津に向かい、後の六人はそのまま船で大津に向かうことになる。四月二十八日、二手に別れた一行十一人は再び大津で合流を果たした。
(3)
一方、函館を出発した勉三ら陸行の十六人は︱
室蘭に先に着いたのは勉三らであった。勉三夫婦は他の連中が到着するまでの間、元赤心社社員だったという男の開いた北望社を見学に行き、藤江は病の妻を抱えて少しでも早くにと別行動を取って先を急いだ。結局藤江夫婦は休み休み進まざるを得ず、ずっと勉三一行とは別行動をとることになる。二人の帯広到着は皆より十日近くも遅くならざるを得なかった。
勉三夫婦と竹二郎たちは登別で合流することができた。一行十四人はしばしば雨に祟られながらも時に馬を雇って足の弱い者を乗せ、陸路を苫小牧︱鵡川︱門別︱浦河︱幌泉へと急いだ。幌泉に着いたのは五月一日のことである。勝一行より一週間も遅かった。
ここから猿留まで行くには追分峠を東に向かい様似湖に抜けて猿留に至る猿留山道と、追分峠を海側に下り庶野から磯伝いに猿留まで行く猿留海道と、二つの道があった。襟裳岬を抜けて庶野に抜ける道もあったが、こちらは尋常ならざる強風が有名で、しかもかなりの遠回りであった。とにかく、猿留に着けばそこから広尾茂寄村へ出て札内から帯広へ抜ける道があった。
勉三は前回も前々回も猿留山道を使って来た。海道には山道より危ない難所が多々あると聞いていたからである。しかし今回、宿の主は「山道はまだ雪が深く、今のところ誰も行っていない。とても通れたものではなかろう」という。やむなく、一行は追分峠を下って庶野へ出て、ここから海沿いに走る海道を選ばざるを得なかった。
この海道︱現在の国道336号線中の襟裳町庶野から広尾町に至る約三十三キロ区間は、昭和九年十一月に今日の金額にして六十億円という巨額資金を費やして新たに開削され、為に〝黄金道路〟などと揶揄されているが、取り敢えずは見事な安全通路となっている。勉三一行が通過した当時は、この海道は危険極まりない難所として殊の外有名であった。
彼らが雪深い追分峠を越えて庶野に着いた時、日はまだ高かったが、これから潮が満ちてくると磯路はたいへん危険だというのでやむなくここに一泊し、翌朝早くに出発した。二里ばかり進んだ所で磯路は途切れ、此処から険しい崖を斜めに横切って行かねばならない。空は今にも雨が降り出しそうに暗かった。崖を見上げる一行の目に立ちはだかる崖は垂直の絶壁に見えた。
勉三は足をすくませている一行に声を励まして言い放った。
「これしきを恐れていては荒蕪の地の開拓なぞ出来ないぞ。さあ、わしについて来い」
勉三は先頭を切って崖にかけられた蔦梯子を登り、あるいは蔦かずらを伝って崖を横切り、あるいはよじ登り、あるいは下り、足場を確かめつつ皆に檄を飛ばし続けた。
礫岩からなる崖は崩れやすく、時には足を滑らせ、恐怖に身の毛がよだつ程であった。男たちは重たい行李を背負って崖を這い上り、時には手を取って女たちを引き上げた。彦太郎の妻セイは荷物を全て夫に預け、一歳の次男を背負い、四歳長男の手を引いて果敢に崖道に挑んだ。勉三の命令で若い独身男土屋広吉がこれを後押しする。一番の元気者であった大工の竹二郎は先に難所を越えるや、「旧き昔、われらが朝鮮征伐に赴いた折にはよくこのような崖をよじ登ったものだ」などと冗談を飛ばし、自分の荷物を降ろすと再び崖を下り、セイと子供たちを引き上げた。
肝心の若い独身男の広吉は恐怖に足をすくませ、全くの役立たずであった。彼は元々親にせがまれて開拓団に加わったこともあってか、がむしゃらさに欠けていた。
殿はやはり独身の高橋金蔵であった。齢五十二の彼は「ふう︱」と深いため息を漏らしつつ、必死についていった。女房を貰おうと思いつつも先立つものがなく、いつの間にかこの歳になってしまった。このまま狭い田舎で終わるのも嫌で蝦夷地くんだりまで出て来たものの、早くも「これしきを恐れていてはと言われてもなぁ…やはり歳には勝てないわい」という思いに囚われていた。
一行が崖の真ん中辺りに差し掛かった頃、重苦しかった暗い雲の相間から冬の静かな陽光が白い帯をなし、サ︱ッと海面に降り注いだ。眼下に碧い瑠璃色の海が浮かんだ。透き通るような海である。それは南の伊豆で見る底深い濃紺の海とはまるで違っている。
「こりゃ見事なもんだ。北の海も捨てたもんでねぇ!」
誰かが大声を上げた。暫くの間、皆黙してその海を眺めていた。それは北の大地が新来の客に見せた美しい歓迎の挨拶だった。
苦闘の末何とか難所を越えて猿留に出た。が、ここから磯伝いに続く道も満潮時や波風の烈しい時には海面下に没するとのことである。早いうちに出かけた方が良さそうだというので、一気に六里の道を強行突破し、夕方遅く広尾茂寄村の若松忠次郎の宿に入った。
予め勉三から一行の宿を頼まれていた若松は風呂と湯茶と酒と温かい飯とで遠来の客を労った。
「猿留までの海道は大変だったろう。土地の者でも恐れる者がいるほどのところだ。よくまあ皆無事で」
疲れ切った百姓衆の顔を見ながら、彼は勉三のこれからの苦労を思わざるを得なかった。
五月四日、雹混じりの雪が降り始めた。しかし、明日は帯広に向かって出立の予定である。旅に必要な米味噌の準備をしていると、若松が「途中元気付けにこれでも食べてくれ」と、取っておきの乾した鮭の塩引き二尾を恵んでくれた。若松の身内は驚いたように主を見詰めた。彼が客にこうした好意を示すなどは滅多にないことだったからだ。
翌朝、辺り一面は雪、雪、雪の山だった。皆恐れをなし、顔色を失う程の深雪であった。
「深雪は北海道の常であって、恐れていては何も始まらんぞ。これしきのことは何でもない、そう思わねばだめだ」
勉三はそう声を掛けはしたものの、二人の幼子を抱えて途方にくれている彦太郎夫婦の顔を見ると、むげに強制はできなかった。
「海伝いに大津まで行く道はこれ程の雪ではないというから、希望する者はそちらを回っても差し支えない。大津の知り合いの江氏宛に一筆書くから、それを持って行って案内を請えば無事帯広まで送り届けてくれるはずだ」
彦太郎夫婦はほっとした様子で、勉三に深々と頭を下げ、手前勝手を謝った。ところが不意に金蔵が、
「わしも雪の少ない道を行かせて貰いたい。この年寄りには深い雪道はしんど過ぎてのぅ」
と言い出した。すると、若い広吉までもが、
「わしも海伝いの道の方が良い。それに何かあった時はまた子供の世話をしてやれることだし」
と言い訳がましく申し出る。
他の者たちはそんな二人に「独身のお気楽者同士が、やっぱり…」と冷たい視線を送っていた。しかし今更駄目とも言えず、結局一行はここで二手に分かれ、勉三夫婦ら八人は若松が紹介してくれたアイヌを案内に立て、内陸部を札内川沿いに帯広に向かった。
勉三一行を悩ませ苦しめたのは深い雪もさることながら、行く手に立ちはだかる幾筋もの冷たい小川であった。背の高い者はそうでもなかったが、背の低い者はずぶぬれになり、臍まで冷水に浸かり、急な水流と滑る砂利に足を取られ、危うく転びそうになった。うっかりすると命を失いかねない程の危険と隣り合わせの行路であった。
二日目、宿泊を予定していたアイヌ小屋が見つからず、仕方なく道を逸れて空屋を見つけ、そこに泊まることになった。夜、屋根の隙間から雪片が吹き込み、火気が絶えると寒さに身が裂かれんばかりである。案内のアイヌにこの地のことを尋ねると、少し考えた後で、「ここはタイキという所で森が沢山あるという意味だ」と言う。
勉三は、思わず、
「何という偶然か。晩成社の晩成は大器晩成から採ったもの。同じタイキ同士、これも何かの縁。きっといつか、苦心成事の秋(苦しみながらも事を成し遂げる良い時)がくるに違いない」
と声を上げてこの偶然を喜んだ。
しかし、勉三のこの言は、それ自体が難しい漢語だったこともあるが、それ以上に、寒さで十分眠ることもできず虚ろになってぶるぶる震えている一行の耳には風の音ほども響かなかった。もっとも勉三にしても、アイヌ語の「タイキ」というこの言葉が「森林の多いところ」という意味と共に「ノミの多いところ」という意味を持っていることなど、露知らずであった。
(4)
明治十六年五月七日︱
晩成社開拓団第一陣が遂に帯広村に入る。勝が率いて来た海行組の内の三人︱進士五郎衛門、文助、チトの三人である。
「晩成社の者か?」
船着場の台上から銃太郎の大きな弾んだ声が丸木舟の三人に浴びせられた。
「そうだに。あんたが銃太郎さんずらか?」
年老いた文助もまた感極まったように、伊豆なまりの大声を響かせた。
︱遂に来たか! 遅かった、実に遅かった! しかし夢幻のことではなかったのだ。
三人の遠来の同志を見詰める銃太郎の目にうっすらと涙が滲んでいた。新来者は、初めて会った銃太郎がアイヌの服を身に付け、アイヌのように髭を生やし、アイヌのように鮭皮の靴を履いている姿に驚き、目を見張った。
銃太郎はその夜、大事に残して置いた白米を炊き、アイヌの鮭料理を添え、新来者を大いに感激させた。
勉三一行がようやく帯広に到着したのは、その第一陣到着から二日後の、五月九日午後三時のことである。一行は既に荷を降ろしていた海行組との再会を果たし、手を取り合って互いの無事を喜びあった。
勉三は真っ先に銃太郎と勝の姿を捜したが、銃太郎はこの日の朝に米・味噌を運び上げるために大津へ下っていて留守であり、勝もまだ大津で船荷の整理と、後着組の宿泊と帯広に上る舟便の手配に追われていた。
その夜、勉三は独り外に出て、北の大地の頭上に煌めく星空を仰ぎ見た。
「三余先生、ようやくここまで辿り着きました。後は教えの通りただただ実践躬行あるのみ、約束を行動に移し、実際に約束を果たすのみです」
藤江夫婦が着いたのはそれから一週間程後のことである。夫人の病は何とか治まっていたが、二人ともへとへとに疲れきっていた。リクは、貴重な米を炊き、粥を作り、二人を労った。他人事とは思えなかったのである。彼女は藤江の妻の病が冷えから来ていることを知っていた。なぜなら、同じような体質である自分もまたこの地の冷えに苦しめられ始めていたからである。
道史Ⅲ 官有物払い下げと政変